第5話 死ぬとは言っておりません
「お断りいたします」
「なぜだ?」
セドリック様は、本当に分からないという顔をした。
「婚約を解消したからです」
「それとこれとは別だろう」
「いいえ。同じです」
私は、持っていた林檎の焼き菓子を受付の机へ置いた。
強く握りすぎたせいで、紙袋に少ししわが寄っている。
「私は、セドリック様の婚約者としてリリア様の療養を手伝っておりました。婚約が終わった以上、私が付き添う理由はございません」
「病人を見捨てるのか?」
「私は医師でも、ご家族でもありません」
「だが、六年間ずっと君がやってきたじゃないか」
「だから、これからも続けなければならないのですか?」
私が尋ね返すと、セドリック様は答えなかった。
代わりに、リリア様が不安そうに私の袖へ手を伸ばす。
「エマ様、どうか怒らないでください」
触れられる前に、私は半歩だけ後ろへ下がった。
「怒ってはおりません」
「でも、以前のエマ様は、もっとお優しかったです。私が苦しいときには、いつも助けてくださったのに」
「ええ。六年間、お手伝いいたしました」
「でしたら、今日だけでも……。私、自分の症状をうまく説明できないのです」
「お医者様の質問に、ご自分で分かる範囲を答えればよいのです」
「でも、何をいつ飲んだのかも、前にどんなお医者様に診ていただいたのかも、私には分からなくて」
「療養記録に書いてあります」
私はセドリック様を見た。
「お持ちになりましたか?」
彼の視線が、わずかに泳ぐ。
「いや。あれは屋敷に置いてきた」
「診察に必要なものだと、最初のページに記載しております」
「君がここにいるとは思わなかったんだ。まさか施療院などで働いているとは」
など。
その一言に、以前なら傷ついただろう。
けれど今は、不思議なほど平気だった。
ここで必要とされていることを、私はもう知っている。
「エマ様が、働いていらっしゃるのですか?」
リリア様が目を丸くした。
「はい。新しい療養棟の相談役として雇っていただきました」
「でも、侯爵令嬢なのに……」
「侯爵令嬢でも、働いてはいけない決まりはございません」
「婚約を解消した直後に、そんなことを始める必要はないだろう」
セドリック様が口を挟む。
「周囲から、俺への当てつけだと思われるぞ」
「あなたへの当てつけで仕事を選ぶほど、暇ではございません」
「君はまだ感情的になっている」
「婚約を解消した女性が、自分で仕事を始めることのどこが感情的なのでしょう?」
彼は再び言葉に詰まった。
私が泣いて屋敷へ閉じこもっていれば、満足だったのだろうか。
そのうち寂しさに耐えられなくなり、謝罪して戻ってくる。
セドリック様は、きっとそう考えていた。
「エマ様は、私のことがお嫌いだったのですか?」
リリア様の声が震えた。
今にも泣きそうな顔で、私を見上げている。
「いいえ」
「でしたら、なぜ急に冷たくなさるの?」
「嫌いではなかったから、六年もお手伝いしたのです」
医師を探し、手紙を書き、馬車を手配した。
彼女が夜会を欠席するときは、代わりに主催者へ詫びた。
療養先で退屈しないよう、本や刺繍道具を贈ったこともある。
リリア様から礼状が届くことは、ほとんどなかった。
それでも、病気で苦しんでいるのだから仕方がないと思っていた。
「けれど、誰かを嫌っていないことと、その方のお世話を一生引き受けることは別です」
「一生だなんて、そんな……」
「では、いつまでならよかったのでしょう」
リリア様は答えない。
治るまで。
婚礼を挙げるまで。
次の療養先が決まるまで。
きっとそのたびに、新しい理由が生まれた。
期限など、最初からなかったのだ。
「施療院で大きな声を出すのは、控えていただけますか」
落ち着いた声が響いた。
診察室から出てきたジュリアン様が、私たちの間へ視線を向ける。
セドリック様が眉をひそめた。
「君が担当医か?」
「ジュリアン・エストンです。モーネ男爵令嬢の診察を担当します」
「エストン……侯爵家の?」
「ここでは医師です」
ジュリアン様は身分を誇ることなく、リリア様へ向き直った。
「以前の療養記録をお持ちでないとのことですので、今日はご本人から分かる範囲でお話を伺います」
「私、説明するのが苦手で……」
「難しい言葉は必要ありません。どこが、いつから、どのようにつらいのか。こちらから順番に質問します」
「でも、エマ様のほうが詳しいのです」
「今日診察するのは、エマ様ではありません」
穏やかだが、はっきりした言葉だった。
「ご自分の身体のことです。まずは、あなたのお話を聞かせてください」
リリア様は困った顔でセドリック様を見上げた。
「怖いわ、セドリック」
「俺が一緒に入る」
「診察に必要な部分は、ご本人だけでお話しいただきます。その後、希望があれば同席していただきます」
「俺も入れないのか?」
「最初から他の方が答えてしまうと、ご本人の訴えが分からなくなりますので」
セドリック様は不満そうだった。
それでも、侯爵家出身の医師へ強く逆らうことはできないらしい。
「心配するな、リリア。すぐ外にいる」
彼が両手でリリア様の手を包む。
「三日前も、朝まで生きられないかもしれない状態から回復したんだ。今回も大丈夫だ」
リリア様の顔が、わずかにこわばった。
「セドリック、それは……」
「どうした?」
「私、死ぬとは言っていないわ」
待合室が静まり返った。
セドリック様が瞬きをする。
「何を言っている。朝を迎えられないかもしれないと、手紙に書いてあっただろう」
「それは、あまりにつらくて、心細かったから……。このまま眠ったら朝まで目が覚めないような気がしたの」
「同じことではないか」
「でも、お医者様から危ないと言われたとは書いていないでしょう?」
セドリック様の顔から表情が消えた。
「では、なぜ俺が駆けつけたときに訂正しなかった?」
「だって、来てくださって嬉しかったのですもの」
リリア様の目に涙が浮かぶ。
「一人で苦しんでいると、悪いことばかり考えてしまうの。あなたがそばにいてくれると安心できるわ」
「俺は、君が死ぬかもしれないと思って……」
「セドリックが婚礼の準備を取りやめるなんて、私は頼んでいないわ」
「だが、君は俺に会いたいと」
「会いたいとは言いました。でも、何を取りやめるかはセドリックが決めたことでしょう?」
それは間違いではない。
リリア様は、不安を訴えた。
会いたいと願った。
セドリック様は、それを聞いて自分で私との約束を捨てたのだ。
たとえ彼女が誤解を利用していたとしても、最後に選んだのは彼だった。
「診察を始めてもよろしいでしょうか」
ジュリアン様が尋ねる。
リリア様は涙を拭いながら、診察室へ入っていった。
閉じた扉を、セドリック様は呆然と見つめている。
私は紙袋を手に取り、その場を離れようとした。
「エマ」
呼び止められても、振り返らなかった。
「君は知っていたのか?」
「いいえ」
「なら、なぜ平然としていられる?」
そこで初めて、彼を見る。
「もう、私の人生を左右する問題ではないからです」
セドリック様は、傷ついたような顔をした。
けれど私は、自分の仕事へ戻った。
一刻ほどして、診察を終えたリリア様たちが相談室へ入ってきた。
ジュリアン様は、机の上に新しい帳面を置く。
私が施療院のために作った、最初の療養手帳だった。
「現時点で、命に関わるような兆候はありません」
リリア様が安堵したように息を吐く。
「ただし、発熱や目眩、疲れやすさがあることは確かです。今後も様子を見ながら、無理のない生活を続ける必要があります」
「やはり、私は病気なのですね」
「症状があることと、すぐ命を失うことは同じではありません」
ジュリアン様は療養手帳を開いた。
「ひと月の間、毎日の体調を記録してください。食事、睡眠、発熱の有無、薬を飲んだ時間、目眩が起きた状況。次の診察で確認します」
「毎日、これを?」
「はい」
リリア様は何ページも続く記入欄を見て、困ったように眉を下げた。
「私には難しいわ。具合が悪いと、文字を読むだけでも疲れてしまいます」
セドリック様が帳面を受け取る。
「俺が書けばいいのか?」
「ご本人と相談しながらであれば」
「だが、食事や薬のことまで、俺がずっと見ているわけには……」
彼の視線が、ゆっくりと私へ向いた。
「エマ。せめて最初だけ、やり方を教えてくれないか」
「最初のページに、すべて記載してあります」
「そうではなく、君が実際に――」
「お断りいたします」
今度は迷わなかった。
「今まで、私がしてきたことです」
薬を確認する。
食事を尋ねる。
医師の言葉を書き留める。
次の診察を忘れないよう、日付を確かめる。
どれも一つずつなら、難しいことではない。
けれど毎日続けるには、時間も責任も必要になる。
セドリック様はようやく、その重さを自分の手で持っていた。
「これからは、あなたが記録する番です」




