第4話 では、私を雇っていただけますか?
「『今夜が峠になる』と、医師は一度も言っていません」
ジュリアン様の言葉を、私はすぐには理解できなかった。
「それでは、リリア様は病気ではないということでしょうか」
「いいえ。そこは分けて考える必要があります」
ジュリアン様は、並べた診断書の一枚を示した。
「発熱や目眩、強い疲労感があったことは、複数の医師が確認しています。本人がつらい思いをしていることまで、嘘だと決めつけるべきではありません」
「では、危篤だという話だけが……」
「少なくとも、医師の診断ではないということです」
彼はもう一冊の帳面を開いた。
私が、リリア様やセドリック様から届いた手紙の内容を書き写したものだ。
――息をするのも苦しい。
――このまま朝を迎えられない気がする。
――最後になるかもしれないから、セドリックに会いたい。
どれも不安を訴えてはいる。
けれど、医師から命の危険を告げられたとは書かれていない。
それを読んだセドリック様が、危篤だ、今夜が峠だと私へ伝えていたのだ。
「セドリック様は、リリア様が亡くなるかもしれないと、本気で信じています」
「おそらくは」
「それなら、リリア様は訂正しなかったのでしょうか」
ジュリアン様は少し考えてから答えた。
「診察していない私が、モーネ男爵令嬢の意図まで判断することはできません」
もっともな返事だった。
リリア様がわざと誤解させたのか。
不安のあまり、大げさな言葉を使ってしまっただけなのか。
それともセドリック様が、彼女の言葉を必要以上に重く受け止めていたのか。
今の私には、まだ分からない。
ただ、六年間で何度も繰り返された出来事が、すべて医師の判断によるものではなかった。
その事実だけで十分だった。
「調べようとは思わないのですか?」
ジュリアン様に尋ねられ、私は首を横に振った。
「以前の私なら、調べたと思います。リリア様に事情を尋ね、医師の診断書を集め、セドリック様の誤解を解こうとしたでしょう」
「今は?」
「もう、私が解決する問題ではありません」
言葉にすると、胸の奥が軽くなった。
リリア様の病状も。
セドリック様の思い込みも。
二人の間でどのような言葉が交わされていたのかも。
今後は、彼ら自身が向き合うべきことだ。
「そうですか」
ジュリアン様は、それ以上勧めなかった。
私の判断を否定せず、勝手に憐れみもしない。
ただ一人の人間として、私の答えを受け入れてくれた。
「それでは、こちらの件を相談してもよろしいでしょうか」
彼が取り出したのは、一枚の図面だった。
王都施療院の隣に建つ、小さな別館らしい。
「来月から、女性のための療養棟として使う予定です。治療を終えたあと、すぐに自宅へ戻るのが難しい方を、一時的に受け入れます」
「こちらで静養していただくのですか?」
「ええ。ただ、医師と使用人だけでは足りないことが分かりました」
患者ごとに、必要な食事も薬も違う。
いつ診察を受け、次に何をすべきか。
家族へ何を伝え、退院後はどこで過ごすのか。
それらを一つずつ整理しなければならない。
「先月、試験的に三名の患者を受け入れました。診察日は重なる、食事の指示は厨房へ届かない、迎えの馬車は来ない。ひどいものでした」
「皆様が別々に記録しているからではありませんか?」
「そのとおりです」
「では、一人につき一冊、共通の記録を作ってはいかがでしょう。医師、付き添い、厨房の担当者が、それぞれ決められた欄へ記入するのです」
私は近くにあった紙を借り、思いついた項目を書き出した。
患者の名前。
診察日時。
薬の種類と受け取り日。
食べてよいものと避けるもの。
家族への連絡。
馬車の手配。
退院後の療養先。
リリア様の療養記録を作る中で、何度も書き直してきた項目ばかりだ。
「この順に確認すれば、連絡の抜けが減ると思います」
顔を上げると、ジュリアン様が驚いたように私を見ていた。
「申し訳ありません。勝手に書いてしまって」
「いえ。私たちが一か月話し合っても決められなかったことを、あなたは今、半刻もかからず整理しました」
「私は、同じ失敗を何度もしてきただけです」
最初は薬の受け取りを忘れた。
次は馬車の時間が医師へ伝わっていなかった。
療養先へ着いてから、必要な食材が用意されていないと分かったこともある。
そのたびに詫び、原因を確かめ、同じ失敗をしないよう記録へ項目を加えた。
「失敗を次へ生かせる人は、意外と少ないものです」
ジュリアン様は、私の書いた紙を大切そうに図面の横へ置いた。
「改めてお願いします。この療養棟の準備を、手伝っていただけませんか?」
「先ほどおっしゃっていた、記録形式への助言でしょうか」
「それだけではありません。患者の受け入れから退院まで、必要な手順を一緒に作っていただきたい」
一緒に。
命令でも、お願いだから無償でという言葉でもなかった。
「私は医師ではありません」
「だからこそです。治療は私が考えられます。しかし家族への手紙や、馬車、食事、療養先までは手が回らない。あなたには、私にない経験があります」
「侯爵令嬢が施療院で働くことを、快く思わない方もいるでしょう」
「それを理由に断るなら、受け入れます」
ジュリアン様はまっすぐに私を見た。
「ただし、私が必要としているのはヴェルヌ侯爵家の名前ではありません。エマ様、あなたの力です」
これまでセドリック様は、私へ何度も言った。
君ならできるだろう。
君がやってくれれば助かる。
婚約者なのだから、それくらい当然だ。
けれど一度も、私の力が必要だとは言わなかった。
「お給金もお支払いします」
思わず瞬きをする。
「私が、お金をいただくのですか?」
「仕事を頼むのですから当然です。最初のひと月は相談役として。その後も続けるかどうかは、あなた自身に決めていただきます」
続けることも。
やめることも。
私が決めてよい。
「少し考えたほうがよいでしょうか」
自分に問いかけるように言うと、ジュリアン様がかすかに笑った。
「私は、考えていただいたほうが安心します。人生を変える決断を、その場の勢いで求めたくありませんから」
その言葉で、かえって気持ちが決まった。
「では、ひと月だけ」
「はい」
「正式に、私を雇っていただけますか?」
ジュリアン様は立ち上がり、私へ右手を差し出した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
握った手は温かかった。
強く引くことも、いつまでも離さないこともない。
短く、対等な握手だった。
それからの五日間、私は毎日施療院へ通った。
診察室、厨房、薬の保管庫、馬車の乗降場所。
実際に歩きながら、誰がどこで何を確認するのかを決めていく。
使用人の人数を増やす前に、連絡の順番を整えた。
口頭で伝えていた食事の指示は、厨房へ一枚の紙で届けることにした。
診察日と馬車の時間は、同じ欄に並べた。
薬を受け取った者が印をつければ、誰がまだ受け取っていないか一目で分かる。
ジュリアン様は、私の意見を一つずつ聞いた。
分からないことは分からないと言い、よりよい案があれば理由を説明する。
私が間違えたときも、責めるのではなく一緒に直した。
六年間、私は誰かの後始末ばかりしていた。
今は、問題が起こる前に仕組みを作っている。
同じ能力を使っているはずなのに、感じるものはまるで違った。
五日目の午後、ジュリアン様から小さな封筒を渡された。
「最初の報酬です」
中には、事前に示されたとおりの金額が入っていた。
「まだ、五日しか働いておりません」
「五日分です。足りなければ言ってください」
「足りないなど、とんでもありません」
自分の仕事で受け取った、初めてのお金だった。
屋敷への帰り道で、兄に頼まれた言葉を思い出した。
――君が、自分のために選んだもの。
私は施療院の近くにある菓子店へ寄り、林檎の焼き菓子を一つ買った。
セドリック様の好みでも、リリア様への贈り物でもない。
幼いころ、私が好きだった菓子だ。
紙袋を手に施療院へ戻ると、入口に見覚えのある馬車が停まっていた。
アーヴェル伯爵家の紋章。
嫌な予感がした。
扉を開けた先で、セドリック様がこちらを振り向く。
その隣には、青白い顔をしたリリア様が立っていた。
「エマ!」
セドリック様が、安堵したように私の名を呼ぶ。
「ちょうどよかった。リリアが自分では病状をうまく説明できないと言うんだ。診察に付き添ってくれ」
彼は私がここで何をしているのか、尋ねもしなかった。
私なら引き受けると、今も信じている。
私は手にした焼き菓子を大切に抱え直した。
「お断りいたします」
「なぜだ?」
「今までどおりは、もう終わったからです」




