第3話 今夜が峠だと、医師は一度も言っていません
婚約を解消して三日目。
セドリック様から、四通目の手紙が届いた。
一通目は、リリア様の薬をどこへ注文すればよいのか。
二通目は、療養先へ移るための馬車をいつ手配すればよいのか。
三通目は、次の診察日がいつなのか。
どれも、私が返した療養記録に書いてあることだった。
そして四通目には、こう記されていた。
――君が手配した医師が、リリアの往診を拒否した。無責任な手配をした以上、君から事情を説明し、今日中に来るよう説得してほしい。
無責任。
その言葉を見て、私は思わず笑ってしまった。
「ずいぶん楽しそうだな」
向かいの席で朝食を取っていた兄が、不思議そうに私を見る。
「ごめんなさい。あまりにも変わっていないものですから」
「アーヴェル卿からか?」
「ええ。リリア様の往診を、私から医師へ頼むようにと」
「婚約を解消した元婚約者に?」
「自分で頼んでも断られたそうです」
兄は手にしていたカップを置いた。
「まさか、引き受けるつもりではないだろうな」
「いいえ」
以前の私なら、すぐに医師へ詫びの手紙を書いていただろう。
セドリック様を困らせたくない。
もしリリア様に何かあれば大変だ。
そう考えて、結局は私が後始末をしていた。
けれど、今の私は彼の婚約者ではない。
リリア様の体調を預かる立場でもない。
「ただ、この医師との契約には私の名前が入っています。一度お会いして、事情を説明してまいります」
「それは必要なのか?」
「最後の片づけです。これを済ませたら、本当に終わりにします」
私が答えると、兄はしばらく私の顔を見つめたあと、静かにうなずいた。
「なら、馬車を使え。帰りに好きな店へ寄ってくるといい」
「兄様は、何か欲しいものがありますか?」
「君が、自分のために選んだもの」
それが一番難しい注文だと思った。
これまで買い物へ出ても、最初に考えるのはセドリック様のことだった。
彼が好む色。
伯爵家の夜会にふさわしい装い。
リリア様を刺激しない贈り物。
自分が何を好きだったか、すぐには思い出せなかった。
けれど、それを悲しいとは思わない。
これからゆっくり思い出せばよいのだ。
王都施療院は、貴族街から馬車で半刻ほどの場所にあった。
裕福な者から受け取った診療費で、身寄りのない者も診る施設だという。
リリア様の新しい診察先として、紹介を受けたのは二か月前だった。
何度も手紙をやり取りし、過去の療養記録を写して送り、ようやく診察日を決めた。
担当の医師が侯爵家の出身だと知ったとき、私は少し驚いた。
貴族の次男が医師になることは珍しい。
それでも紹介状には、身分ではなく腕を信じてよいと書かれていた。
受付で名前を告げると、すぐに診察室へ通された。
室内で待っていたのは、濃紺の上着を着た男性だった。
年齢は三十歳ほどだろうか。
短く整えた茶色の髪と、落ち着いた灰色の瞳。机の上には、私が送った書類がきれいに並べられている。
「エマ・ヴェルヌ侯爵令嬢ですね」
「はい。本日は急にお時間をいただき、申し訳ございません」
「ジュリアン・エストンです。あなたとは、すでに何十通も手紙を交わしていますから、初対面という気がしませんね」
彼はそう言って、向かいの椅子を勧めてくれた。
「先ほど、アーヴェル伯爵家からも使者が来ました」
「往診を断られたと伺いました」
「正確には、最初から往診の約束ではありません」
ジュリアン様は一枚の書類を取り上げた。
そこには確かに、診察場所として王都施療院と記されている。
「初診ですから、こちらの設備が必要です。患者本人に来院していただくことで、あなたとも合意していました」
「はい。療養記録にも、そのように記したはずです」
「使者の方は、モーネ男爵令嬢を馬車へ乗せることはできない、今すぐ屋敷へ来いとおっしゃいました」
「リリア様の容体が、それほど悪いのでしょうか」
「それを判断するためにも、まず診察が必要です。急を要する症状なら、近隣の医師を呼ぶようお伝えしました。しかし使者の方は、あなたがすべて手配していたのだから、私も事情を知っているはずだと」
私は目を伏せた。
セドリック様は、療養記録を読んでいない。
診察の条件も確認せず、使者を送ったのだ。
「ご迷惑をおかけしました」
「あなたが謝ることではありません」
反射的に頭を下げかけた私へ、ジュリアン様ははっきりと言った。
「ですが、私の名でお願いした診察ですから」
「あなたは必要な情報をすべて伝え、こちらの質問にも一つずつ答えた。診察日も条件も、書面で双方が確認しています。あなたに落ち度はありません」
落ち度はない。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
何か問題が起これば、いつも私が頭を下げてきた。
もっと早く気づけばよかった。
もっと丁寧に説明すればよかった。
リリア様を不安にさせない方法を考えるべきだった。
セドリック様を支えられない私は、婚約者として至らない。
そうやって、すべて自分の責任にしていた。
「事情が変わりました」
私は膝の上で手を重ねた。
「セドリック・アーヴェル様との婚約を解消いたしました。今後、リリア様の診察に関する連絡は、アーヴェル伯爵家かモーネ男爵家へお願いいたします」
驚かれると思った。
だが、ジュリアン様は余計な詮索をせず、静かにうなずいただけだった。
「承知しました。連絡先を変更します」
「これまでにかかった費用も、本日すべて清算いたします」
「費用は、送っていただいた資料の確認分だけです。初診料はまだ発生していません」
ジュリアン様は書類をまとめながら、そのうちの一冊を私の前へ置いた。
私が作成した、療養記録の写しだった。
「これは、すべてあなたが?」
「はい。医師から伺ったことと、リリア様や侍女から届いた報告を、日付ごとにまとめました」
「非常に分かりやすい。症状だけでなく、食事、睡眠、薬、医師の指示、実際に行われた処置まで分けられている」
「別々に書くと、後から確認しにくいと思いまして」
「この形式を、施療院でも参考にさせていただいてよろしいですか?」
思いもよらない申し出だった。
「私の記録を、ですか?」
「ええ。治療の判断は医師が行いますが、患者の日々の状態を整理する人がいなければ、必要な情報が抜け落ちます。あなたは六年間、それを一人で続けてきた」
セドリック様には、使用人でもできることだと言われた。
頼めば医師などいくらでも来る、とも。
けれど目の前の医師は、私のしてきたことに価値があると言ってくれた。
「もちろん、患者の個人情報は使いません。記録の項目と整理方法だけです。その対価もお支払いします」
「そのようなものをいただくわけには……」
「仕事には対価が必要です」
あまりにも自然に言われ、私は返す言葉を失った。
私がしてきたことは、仕事だった。
時間も、知識も、気遣いも必要な仕事。
誰かを愛しているのなら、無償で行って当然のことではなかったのだ。
「考えさせていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。急いで決める必要はありません」
ジュリアン様は柔らかく笑った。
「それから、もう一つ確認しても?」
「はい」
彼は笑みを消し、療養記録の最初のページを開いた。
「モーネ男爵令嬢は、何度も命の危険がある状態に陥ったと伺っています」
「ええ。つい三日前にも、今夜が峠になるかもしれないと」
「それは、誰から?」
「セドリック様から届いた手紙に書かれていました。リリア様のご実家から、知らせがあったのだと思います」
ジュリアン様は数枚の書類を並べた。
どれも、これまでリリア様を診た医師の診断書だった。
「疲労による発熱、食欲不振、目眩。安静が必要だと書かれた記録はあります」
「はい」
「症状が本人にとってつらいことは、疑っていません。体調には波がありますから、昼間に起き上がれなかった方が、夜に動けるまで回復する場合もあります」
私は黙って続きを待った。
「ですが、少なくとも私が確認したすべての診断書に、命の危険があるとは書かれていません」
「……一度も、ですか?」
「一度もです」
彼の指が、帳面に記された六年分の日付をたどる。
婚約披露の茶会。
私の誕生日。
婚礼準備。
領地視察。
二度の婚礼予定日。
リリア様が危篤だと知らされた日は、なぜかいつも、私とセドリック様にとって大切な予定と重なっていた。
「エマ様」
ジュリアン様が、静かに私を見る。
「『今夜が峠になる』と、医師は一度も言っていません」




