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寝たきりのはずではありませんでしたか  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第3話 今夜が峠だと、医師は一度も言っていません

婚約を解消して三日目。


セドリック様から、四通目の手紙が届いた。


一通目は、リリア様の薬をどこへ注文すればよいのか。


二通目は、療養先へ移るための馬車をいつ手配すればよいのか。


三通目は、次の診察日がいつなのか。


どれも、私が返した療養記録に書いてあることだった。


そして四通目には、こう記されていた。


――君が手配した医師が、リリアの往診を拒否した。無責任な手配をした以上、君から事情を説明し、今日中に来るよう説得してほしい。


無責任。


その言葉を見て、私は思わず笑ってしまった。


「ずいぶん楽しそうだな」


向かいの席で朝食を取っていた兄が、不思議そうに私を見る。


「ごめんなさい。あまりにも変わっていないものですから」


「アーヴェル卿からか?」


「ええ。リリア様の往診を、私から医師へ頼むようにと」


「婚約を解消した元婚約者に?」


「自分で頼んでも断られたそうです」


兄は手にしていたカップを置いた。


「まさか、引き受けるつもりではないだろうな」


「いいえ」


以前の私なら、すぐに医師へ詫びの手紙を書いていただろう。


セドリック様を困らせたくない。


もしリリア様に何かあれば大変だ。


そう考えて、結局は私が後始末をしていた。


けれど、今の私は彼の婚約者ではない。


リリア様の体調を預かる立場でもない。


「ただ、この医師との契約には私の名前が入っています。一度お会いして、事情を説明してまいります」


「それは必要なのか?」


「最後の片づけです。これを済ませたら、本当に終わりにします」


私が答えると、兄はしばらく私の顔を見つめたあと、静かにうなずいた。


「なら、馬車を使え。帰りに好きな店へ寄ってくるといい」


「兄様は、何か欲しいものがありますか?」


「君が、自分のために選んだもの」


それが一番難しい注文だと思った。


これまで買い物へ出ても、最初に考えるのはセドリック様のことだった。


彼が好む色。


伯爵家の夜会にふさわしい装い。


リリア様を刺激しない贈り物。


自分が何を好きだったか、すぐには思い出せなかった。


けれど、それを悲しいとは思わない。


これからゆっくり思い出せばよいのだ。


王都施療院は、貴族街から馬車で半刻ほどの場所にあった。


裕福な者から受け取った診療費で、身寄りのない者も診る施設だという。


リリア様の新しい診察先として、紹介を受けたのは二か月前だった。


何度も手紙をやり取りし、過去の療養記録を写して送り、ようやく診察日を決めた。


担当の医師が侯爵家の出身だと知ったとき、私は少し驚いた。


貴族の次男が医師になることは珍しい。


それでも紹介状には、身分ではなく腕を信じてよいと書かれていた。


受付で名前を告げると、すぐに診察室へ通された。


室内で待っていたのは、濃紺の上着を着た男性だった。


年齢は三十歳ほどだろうか。


短く整えた茶色の髪と、落ち着いた灰色の瞳。机の上には、私が送った書類がきれいに並べられている。


「エマ・ヴェルヌ侯爵令嬢ですね」


「はい。本日は急にお時間をいただき、申し訳ございません」


「ジュリアン・エストンです。あなたとは、すでに何十通も手紙を交わしていますから、初対面という気がしませんね」


彼はそう言って、向かいの椅子を勧めてくれた。


「先ほど、アーヴェル伯爵家からも使者が来ました」


「往診を断られたと伺いました」


「正確には、最初から往診の約束ではありません」


ジュリアン様は一枚の書類を取り上げた。


そこには確かに、診察場所として王都施療院と記されている。


「初診ですから、こちらの設備が必要です。患者本人に来院していただくことで、あなたとも合意していました」


「はい。療養記録にも、そのように記したはずです」


「使者の方は、モーネ男爵令嬢を馬車へ乗せることはできない、今すぐ屋敷へ来いとおっしゃいました」


「リリア様の容体が、それほど悪いのでしょうか」


「それを判断するためにも、まず診察が必要です。急を要する症状なら、近隣の医師を呼ぶようお伝えしました。しかし使者の方は、あなたがすべて手配していたのだから、私も事情を知っているはずだと」


私は目を伏せた。


セドリック様は、療養記録を読んでいない。


診察の条件も確認せず、使者を送ったのだ。


「ご迷惑をおかけしました」


「あなたが謝ることではありません」


反射的に頭を下げかけた私へ、ジュリアン様ははっきりと言った。


「ですが、私の名でお願いした診察ですから」


「あなたは必要な情報をすべて伝え、こちらの質問にも一つずつ答えた。診察日も条件も、書面で双方が確認しています。あなたに落ち度はありません」


落ち度はない。


そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。


何か問題が起これば、いつも私が頭を下げてきた。


もっと早く気づけばよかった。


もっと丁寧に説明すればよかった。


リリア様を不安にさせない方法を考えるべきだった。


セドリック様を支えられない私は、婚約者として至らない。


そうやって、すべて自分の責任にしていた。


「事情が変わりました」


私は膝の上で手を重ねた。


「セドリック・アーヴェル様との婚約を解消いたしました。今後、リリア様の診察に関する連絡は、アーヴェル伯爵家かモーネ男爵家へお願いいたします」


驚かれると思った。


だが、ジュリアン様は余計な詮索をせず、静かにうなずいただけだった。


「承知しました。連絡先を変更します」


「これまでにかかった費用も、本日すべて清算いたします」


「費用は、送っていただいた資料の確認分だけです。初診料はまだ発生していません」


ジュリアン様は書類をまとめながら、そのうちの一冊を私の前へ置いた。


私が作成した、療養記録の写しだった。


「これは、すべてあなたが?」


「はい。医師から伺ったことと、リリア様や侍女から届いた報告を、日付ごとにまとめました」


「非常に分かりやすい。症状だけでなく、食事、睡眠、薬、医師の指示、実際に行われた処置まで分けられている」


「別々に書くと、後から確認しにくいと思いまして」


「この形式を、施療院でも参考にさせていただいてよろしいですか?」


思いもよらない申し出だった。


「私の記録を、ですか?」


「ええ。治療の判断は医師が行いますが、患者の日々の状態を整理する人がいなければ、必要な情報が抜け落ちます。あなたは六年間、それを一人で続けてきた」


セドリック様には、使用人でもできることだと言われた。


頼めば医師などいくらでも来る、とも。


けれど目の前の医師は、私のしてきたことに価値があると言ってくれた。


「もちろん、患者の個人情報は使いません。記録の項目と整理方法だけです。その対価もお支払いします」


「そのようなものをいただくわけには……」


「仕事には対価が必要です」


あまりにも自然に言われ、私は返す言葉を失った。


私がしてきたことは、仕事だった。


時間も、知識も、気遣いも必要な仕事。


誰かを愛しているのなら、無償で行って当然のことではなかったのだ。


「考えさせていただいてもよろしいでしょうか」


「もちろんです。急いで決める必要はありません」


ジュリアン様は柔らかく笑った。


「それから、もう一つ確認しても?」


「はい」


彼は笑みを消し、療養記録の最初のページを開いた。


「モーネ男爵令嬢は、何度も命の危険がある状態に陥ったと伺っています」


「ええ。つい三日前にも、今夜が峠になるかもしれないと」


「それは、誰から?」


「セドリック様から届いた手紙に書かれていました。リリア様のご実家から、知らせがあったのだと思います」


ジュリアン様は数枚の書類を並べた。


どれも、これまでリリア様を診た医師の診断書だった。


「疲労による発熱、食欲不振、目眩。安静が必要だと書かれた記録はあります」


「はい」


「症状が本人にとってつらいことは、疑っていません。体調には波がありますから、昼間に起き上がれなかった方が、夜に動けるまで回復する場合もあります」


私は黙って続きを待った。


「ですが、少なくとも私が確認したすべての診断書に、命の危険があるとは書かれていません」


「……一度も、ですか?」


「一度もです」


彼の指が、帳面に記された六年分の日付をたどる。


婚約披露の茶会。


私の誕生日。


婚礼準備。


領地視察。


二度の婚礼予定日。


リリア様が危篤だと知らされた日は、なぜかいつも、私とセドリック様にとって大切な予定と重なっていた。


「エマ様」


ジュリアン様が、静かに私を見る。


「『今夜が峠になる』と、医師は一度も言っていません」

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