第2話 六年待ったので、もう十分です
翌朝、セドリック様は白い花束を抱えて、ヴェルヌ侯爵邸を訪れた。
私への謝罪ではない。
「これを君の名でリリアに届けさせる」
応接室へ入るなり、彼は花束を卓上へ置いた。
「昨夜のことを詫びる手紙も書いてくれ。長い文章でなくていい。感情的になって、病み上がりの彼女を傷つけてしまったと認めれば済む」
「お断りいたします」
私が答えると、セドリック様は深いため息をついた。
子どものわがままに付き合わされているような顔だった。
「まだ意地を張るつもりか?」
「意地ではございません」
「なら、昨夜のあれはなんだ。大勢の前で婚約を解消すると騒いで、指輪まで置いていくなど」
「騒いではおりません。婚約を解消すると申し上げただけです」
私は卓上に用意していた書類を、彼の前へ差し出した。
昨夜、帰宅してすぐに作成したものだ。
正式な文面に整え、父にもすでに署名をもらっている。
書類を見たセドリック様の表情が、初めてわずかに揺れた。
「……本気なのか?」
「そのつもりでお伝えしたはずです」
「一晩たてば冷静になると思っていた」
「ええ。とても冷静です」
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
けれど、婚約解消を後悔したからではない。
六年分の記憶が次々に浮かび、整理するのに時間がかかったのだ。
リリア様が初めて倒れた日。
セドリック様は、私との婚約披露の茶会を途中で抜け出した。
リリア様が高熱を出したと聞いたからだ。
彼女のもとへ急ぐことを、私は止めなかった。
幼馴染が苦しんでいるのだから、心配するのは当然だと思った。
その後、招待客へ事情を説明し、一人ずつ詫びて回ったのは私だった。
二度目にリリア様が倒れたとき、セドリック様は私の誕生日の観劇を取りやめた。
私は使わなくなった席を知人へ譲り、劇場へ詫びの手紙を書いた。
三度目は、両家で行うはずだった婚礼準備の日だった。
四度目は、領地を視察するための出発日。
それから何度あっただろう。
途中から、数えることをやめてしまった。
「君は、リリアに嫉妬しているだけだ」
セドリック様が、低い声で言った。
「昨夜、俺と彼女が踊っているところを見たから、腹を立てたんだろう?」
「そうかもしれません」
私の返事が予想外だったらしく、彼は口を閉じた。
「好きな方が、別の女性を何度も優先すれば、悲しく思うのは当然でしょう。嫉妬もしましたし、腹も立てました」
「なら――」
「ですが、婚約を解消する理由はそれだけではありません」
私はもう一冊、厚い帳面を卓上へ置いた。
使い込まれた革表紙には、『モーネ男爵令嬢療養記録』と記されている。
セドリック様が眉をひそめた。
「なんだ、それは」
やはり、知らなかった。
「リリア様がこれまで診察を受けた医師の名前、連絡先、診察日、処方された薬、療養先、それに支払った費用をまとめたものです」
彼は帳面へ手を伸ばさない。
「なぜ君が、そんなものを持っている?」
「私が手配していたからです」
リリア様の体調が悪いと聞けば、セドリック様は彼女のもとへ駆けつけた。
そして彼女の手を握り、励まし、夜通しそばにいる。
けれど、医師を探すのは私だった。
急な往診を頼み、馬車を用意し、薬を取り寄せ、療養に向いた屋敷を手配する。
診察の日程が決まればモーネ男爵家へ知らせ、変更があれば再び医師へ頭を下げる。
セドリック様から最初に頼まれたのは、六年前だった。
――君はこういうことが得意だろう。俺はリリアのそばを離れられないから、代わりに頼む。
困っている彼の役に立ちたかった私は、喜んで引き受けた。
一度だけのつもりだった。
それが二度になり、十度になり、いつしか私の役目になっていた。
「こちらは、現在お願いしている医師の往診予定です。薬の注文先と、次の療養先の候補も挟んであります」
帳面の上へ、書類の束を重ねる。
「今後はセドリック様か、アーヴェル伯爵家の方にお願いいたします」
「待て。俺はそんなことまで君に頼んだ覚えはない」
「最初の医師を探してほしいと頼まれたのは、セドリック様です。その後も手配したことは、毎回お伝えしておりました」
「だが、ずっと続けろとは言っていない」
「ですから、今日でやめます」
彼は何か言おうとして、言葉を詰まらせた。
私が不満を口にすることは想像していても、実際に手を引くとは考えていなかったのだろう。
「使用人に任せれば済むことだ」
「ええ。そうなさってください」
「医師など、金を払えばいくらでも来る」
「それでしたら、ご心配はいりませんね」
セドリック様は苛立たしげに髪をかき上げた。
「どうして急に、こんな冷たい女になったんだ」
急に、ではない。
私は六年間、彼に小さく失望し続けてきた。
それでも、いつかは私を選んでくれると信じたかった。
婚礼さえ挙げれば変わる。
夫婦になれば、私を一番に考えてくれる。
そう自分へ言い聞かせ、彼の代わりに謝り、予定を変え、リリア様の世話まで引き受けた。
昨夜、ようやく理解したのだ。
結婚すれば変わるのではない。
結婚しても、このままなのだと。
「リリアの病気は、彼女の責任ではない」
セドリック様が言った。
「私は一度も、病気を責めておりません」
「では、なぜ理解してやれない?」
「理解しております。リリア様が助けを求めれば、あなたは必ず彼女を選ぶ。私との婚礼よりも優先する。それが今後も変わらないことを、やっと理解いたしました」
「結婚しないとは言っていないだろう!」
彼の声が応接室に響いた。
「少し延期するだけだ。君との婚約を破棄するつもりなど、俺にはない」
「私にはあります」
セドリック様が息を呑んだ。
私は彼との婚約解消書を、改めて指し示した。
「署名をお願いいたします」
「俺が署名すると思うのか?」
「アーヴェル伯爵には、父からすでに事情をお伝えしました。セドリック様ご本人が同意なさるなら、婚約解消を受け入れるとのお返事をいただいております」
「父上が……?」
「昨夜のことは、大勢が見ておりました。二度の婚礼延期についても、両家に記録が残っています。これ以上、私どもの申し出を拒む理由はないとご判断なさったのでしょう」
そのとき、応接室の扉が開いた。
入ってきたのは兄のダニエルだった。
「お待たせしました、アーヴェル卿」
兄は私の隣へ座ると、もう一通の書面を卓上へ置いた。
「両家で取り交わした品と費用の一覧です。返却すべきものは、すでに準備を始めています。妹からそちらへ贈った品については、返却不要です」
セドリック様は、兄と私を交互に見た。
「家族まで巻き込んだのか、エマ」
「婚約は家同士の契約ですから」
「二十七歳で婚約を解消すれば、次を探すのは簡単ではないぞ」
心配しているのではない。
私を思いとどまらせるために、最も傷つきそうな言葉を選んだだけだ。
私は不思議なくらい、穏やかに笑えた。
「承知しております」
「生涯独身になるかもしれない」
「あなたを待ち続けるより、ずっと幸せです」
セドリック様の頬が引きつった。
「後悔しても、俺は知らないからな」
「後悔なら、この六年間で十分にいたしました」
長い沈黙のあと、彼は卓上の筆を取った。
怒りに任せるように婚約解消書へ署名し、筆を投げ出す。
「これで満足か」
「はい」
署名された書面を受け取っても、喜びは湧かなかった。
六年間、愛していた人だ。
胸の奥には、確かに痛みがある。
けれどそれ以上に、もう待たなくてよいのだという安堵があった。
セドリック様は立ち上がり、花束と療養記録を乱暴につかんだ。
「リリアの体調が落ち着いたら、君も自分が何をしたか分かるだろう」
彼は最後まで、帳面を開かなかった。
医師との次の約束が三日後に迫っていることも。
新しい薬を受け取るには、事前の手続きが必要なことも。
リリア様が希望している療養先には、まだ正式な予約が入っていないことも。
何一つ知らないまま、セドリック様は応接室を出ていった。
そして私はもう、彼の代わりに後始末をする婚約者ではなかった。




