第1話 寝たきりのはずではありませんでしたか?
「寝たきりのはずではありませんでしたか?」
王宮の大広間に流れていたワルツが終わった。
拍手に包まれながら、セドリック様とリリア様が離れる。けれど、彼の手は当然のように彼女の腰へ添えられたままだった。
薄桃色の頬。丁寧に結い上げられた金色の髪。胸元に宝石を散らした水色のドレス。
少なくとも、今夜を越せるか分からない病人の装いには見えない。
リリア様の笑みが固まった。
「エ、エマ様……」
「よかったですわ。ずいぶんお元気になられたのですね」
私が微笑むと、セドリック様がリリア様を背にかばった。
まるで私が、今にも彼女へ襲いかかる悪人であるかのように。
「その言い方はなんだ、エマ」
「お見舞いの言葉です」
「嫌味にしか聞こえない」
そうかもしれない。
けれど今夜ばかりは、素直な言葉を選べるほど心に余裕がなかった。
今日の午後、私は王都の仕立屋でセドリック様を待っていた。
三か月後に迫った婚礼に向けて、二人で最終的な衣装を確認する予定だったのだ。
王都でも指折りの仕立屋が、私たちのために一日を空けてくれていた。領地から取り寄せた刺繍布も届き、職人たちは朝から準備を整えていた。
約束の時間を過ぎても、セドリック様は来なかった。
代わりに届いたのは、一通の手紙だった。
――リリアが高熱を出し、寝台から起き上がることもできない。医師によれば、今夜が峠になるかもしれない。すまないが、そちらには行けない。
私は仕立屋に頭を下げ、職人たちへの追加料金を支払い、予定を改めて組み直した。
その足で王宮の夜会へ来た。
侯爵家として出席の返事をしている以上、直前に取りやめるわけにはいかなかったからだ。
セドリック様はリリア様のそばにいる。今ごろは彼女の手を握り、祈るような気持ちで夜を過ごしているのだろう。
そう思っていた。
それなのに、広間へ入った私が最初に見たものは、彼とリリア様が楽しげに踊る姿だった。
しかも、これが一曲目ではない。
私の隣で踊りを眺めていた令嬢によれば、二人は今夜すでに三度も踊っているらしい。
「本当に安心いたしました」
私はリリア様へ向き直った。
「お手紙には、寝台から起き上がれず、今夜が峠になるかもしれないと書かれていましたから」
周囲の視線が集まり始める。
リリア様は困ったように眉を下げ、セドリック様の袖をつかんだ。
「ご心配をおかけして、申し訳ありません。夕方までは、本当に起き上がることもできなかったのです」
「では、お医者様から夜会へ出てもよいと?」
「それは……」
リリア様の視線が揺れた。
「少しだけ気分がよくなったものですから。セドリックがずっとそばにいてくださったので、せめてお礼がしたくて」
「お礼?」
「私のせいで、セドリックが夜会を欠席するのは申し訳ないと思ったのです。ですから、私もご一緒すれば、セドリックも安心して出席できるのではないかと……」
「リリアは俺の立場を考えてくれたんだ」
セドリック様が、誇らしげに言った。
「体調が戻ったばかりなのに、無理をしてまでな」
「まあ。それはお優しいことですわ」
私との約束を破らせたままでは申し訳ないとは、思わなかったらしい。
だが、それを口にすれば、病人を責める冷たい女にされるのだろう。
これまでと同じように。
「セドリック様」
私は彼を見た。
「明日の予定は、覚えていらっしゃいますか?」
「明日?」
一瞬の空白のあと、彼は思い出したように目をそらした。
「婚礼の日取りについて、両家で最終確認を行います。明日の正午、アーヴェル伯爵邸で」
「ああ……もちろん覚えている」
「では、出席なさるのですね?」
返事をする前に、セドリック様はリリア様を見た。
その視線だけで、答えは分かった。
「リリアの体調次第だ」
「彼女の体調が戻らなければ?」
「明日は欠席するしかないだろう」
あまりにも当然の口調だった。
「日取りの確認も延期なさるのですか?」
「仕方がない。父上たちには俺から話す」
「婚礼そのものを、もう一度延期する可能性も?」
セドリック様が露骨に顔をしかめた。
「今ここでする話ではないだろう」
「大切なことですから、確認しているのです」
私たちの婚礼は、すでに二度延期されている。
一度目は、リリア様が倒れたから。
二度目は、リリア様が療養のため王都を離れることになり、セドリック様が付き添う必要があったから。
そのたびに私は招待客へ詫び状を書き、仕立屋や料理人との契約を変更し、両家の間に立って新たな日程を調整した。
セドリック様はいつも言っていた。
結婚しないわけではない。
少し待つだけだ。
私なら分かってくれるはずだ、と。
「必要なら延期する」
今夜も彼は、同じ顔で言った。
「リリアの命がかかっているんだ。婚礼など、いつでもできるだろう」
婚礼など。
六年間待ち続けた私との結婚を、彼はそう呼んだ。
胸の奥で、細い糸が切れる音がした。
痛みはなかった。
あまりにも静かに切れたので、むしろ心が軽くなったほどだ。
「ごめんなさい、エマ様」
リリア様がか細い声を出した。
「私のせいで、お二人の大切なご予定が……。でも私、決して邪魔をしたいわけではないのです」
「分かっております」
「本当です。私も早く丈夫になって、お二人のご結婚を心からお祝いしたいと……」
そこでリリア様の身体がふらりと傾いた。
セドリック様が、すかさず抱き留める。
「リリア!」
「ご、ごめんなさい。少し、目眩が……」
「やはり無理をしていたんだな」
セドリック様は彼女を支えながら、責めるように私を見た。
「満足したか、エマ」
「何がでしょう」
「病み上がりのリリアを問い詰めて、また体調を崩させた。君は自分が何をしたか分かっているのか?」
周囲から小さなどよめきが上がった。
誰かが私を見て囁いている。
病弱な令嬢を追い詰める、嫉妬深い婚約者。
きっと今の私は、そのように見えているのだろう。
「エマ、君は強い」
セドリック様は諭すように続けた。
「少しくらい予定が変わっても耐えられる。だが、リリアは違う。いつ何があるか分からないんだ。なぜ、それくらい理解してやれない?」
以前の私なら、謝っていたかもしれない。
セドリック様を困らせたくなかった。
狭量な女だと思われたくなかった。
リリア様の病が本物かどうかを疑うことさえ、罪だと思っていた。
けれど、もう関係なかった。
彼女が本当に病弱なのか。
今夜、本当に奇跡的に回復したのか。
そんなことは、私が決めることではない。
ただ一つ、明らかなことがある。
セドリック様は、私との約束なら何度破ってもかまわないと思っている。
私なら待つ。
私なら許す。
私なら、自分の人生を後回しにされても彼を愛し続ける。
そう信じて、一度も疑わなかったのだ。
「分かりました」
私が答えると、セドリック様はようやく表情を緩めた。
「そうか。分かってくれたなら――」
「これからも、どうぞリリア様を優先なさってください」
彼の言葉が止まる。
「……なんだって?」
「彼女が熱を出したと聞けば、そばへ駆けつけてください。私との約束があっても、婚礼の日であっても、好きなだけ延期なさればよろしいでしょう」
「エマ、妙な意地を張るな」
「意地ではございません」
私は左手の手袋を外した。
薬指にはめていた婚約指輪を抜き、セドリック様へ差し出す。
六年前、これを受け取ったときは、彼と支え合う未来を疑っていなかった。
けれど彼が欲しかったのは、支え合う妻ではない。
何をされても黙って待ち続ける、都合のよい婚約者だった。
「私は一度も、私とリリア様のどちらかを選べとは申しませんでした」
「なら――」
「選ばせるまでもなく、あなたは毎回リリア様を選びましたから」
セドリック様の顔から余裕が消えた。
リリア様も、彼の腕の中で目を見開いている。
「待て。今は君も冷静ではない。話なら明日にしよう」
「ええ。明日にいたしましょう」
差し出した指輪を、彼が受け取ろうとしない。
私は近くの卓へ歩み寄り、その上に指輪を置いた。
硬い音が一つ、音楽の途切れた広間に響く。
「明朝、ヴェルヌ侯爵家より婚約解消の書類をお届けします」




