【第9話】古い工具箱と新しい棚
灰樫の家の朝は、金属を磨く音から始まった。
作業台の上には、前日に持ち帰った古い工具箱が置かれている。木の箱は角が削れ、蓋の金具には錆が浮いていた。長い間使われていなかったことは、開ける前から分かる。
レントは蓋を開け、中身を一つずつ取り出した。
鋸。
鑿。
金槌。
測定具。
どれも古い。けれど、古いことと使えないことは同じではない。
レントは布を広げ、取り出した道具を並べていった。
「まずは状態を見ないと」
独り言のように呟きながら、道具の表面についた埃を落とす。
灰樫の家で使っている工具の多くは、住民から借りたものだった。必要な時に貸してもらえるのはありがたいが、いつまでも頼り続けるわけにはいかない。
自分の手で確認し、自分の責任で扱える道具があることは、修繕を続ける上で大切だった。
レントは金槌を手に取った。
綻び視を使う。
金属の表面に浮かぶ細かな線を見る。深い傷はない。だが、柄との接合部分にはわずかな緩みがあった。
次に測定具を見る。
こちらは金属部分の腐食は少ない。可動する部分に汚れが溜まっているだけだった。
一方で、鋸と鑿は慎重に確認する必要があった。
刃先へ伸びる傷。
内部に残った腐食。
見た目だけでは判断できない部分がある。
レントは長く能力を使い続けないよう、道具を一つ見るたびに目を休ませた。
以前なら、見える情報をできるだけ多く拾おうとしていたかもしれない。
けれど、修繕は見るだけでは終わらない。
手を動かし、確かめ、使う人の安全を考える必要がある。
レントは紙へ簡単な記録を書いた。
使用可能。
要修理。
部品取り。
まだ決められないものは、保留。
「全部直せると思わない方がいいね」
作業台の横から声がした。
振り向くと、ミレナが工具箱を覗き込んでいた。
「古い道具ほど、無理に使うと危ないから」
「そうですね。使えるものだけを残したいです」
ミレナは金槌を手に取り、柄を確認する。
「木の部分は作り直せる」
彼女は柄の傷んだ部分を指でなぞった。
「でも、刃物は別」
鋸と鑿へ視線を向ける。
「歯や刃先は私の仕事じゃない。削って形を整えることはできても、使える状態に戻す判断はできない」
「無理に触らない方がいいですね」
「そういうこと」
ミレナは短く頷いた。
「直せるものと、任せるものを分ける。それも職人の仕事だよ」
レントはその言葉を記録へ書き加えた。
ミレナは金槌の柄を外し、新しい木材を選ぶ。
「今の握り方だと少し滑るかもしれない」
「分かりますか?」
「使ってる手を見ればね」
ミレナは新しい柄を削りながら答えた。
「道具は持つ人に合ってないと意味がないから」
木の粉が作業台へ落ちる。
少しずつ形を整え、握った時に力が逃げない太さへ調整していく。
レントが試しに握ると、以前より手に馴染んだ。
「振った時に抜けにくいです」
「なら大丈夫」
ミレナはそれだけ言って、次の柄へ取りかかった。
会話は短い。
けれど、作業に必要な確認は自然に続いていた。
昼前、灰樫の家には別の小さな問題が起きた。
床の近くで、小さな音がする。
「ポル?」
呼びかけると、床下から丸い体が少しだけ出てきた。
ポルは作業台の下へ近づき、置いてあった小さな留め金を鼻先で確認する。
「それは使うものですよ」
レントが声をかける。
ポルは一度こちらを見る。
そして、留め金をくわえたまま、ゆっくり後ろへ下がった。
「あ」
追いかけようとしたレントを、ミレナが止める。
「待って。追ったら余計に持っていくかもしれない」
ポルは床下へ戻る寸前で止まり、こちらを窺っていた。
レントは少し考える。
ポルにとって、金属片を集めることは悪意ではない。
ただ、作業道具と自分の集めたい物の区別がついていないだけだ。
レントは工具棚の下へ、小さな場所を作った。
磨いた小石を数個置く。
「こっちはポルのものにしましょう」
床下から鼻先が覗く。
ポルは小石へ近づき、留め金を見る。
少し迷った後、小石を前脚で転がし、留め金の代わりに持っていった。
「……交換できたんでしょうか」
レントが呟く。
ミレナは肩をすくめた。
「少なくとも、今は道具を取られずに済んだね」
ポルは小石を抱え、満足そうに床下へ戻っていった。
その後、レントは使えると判断した金槌の柄を固定した。
叩く。
緩みを確認する。
もう一度、叩く。
問題はない。
測定具も分解できる範囲で清掃し、動く部分へ油を差した。
目盛りのずれがないか確認する。
何度か測って、ようやく棚へ置いた。
新しく作った工具棚の一角に、二つの道具が並ぶ。
まだ少ない。
それでも、借りた物だけではない、自分たちの工房の道具だった。
夕方。
レントは刃物を包み、オルドのいる共同倉庫へ向かった。
「オルドさん」
「どうした、レント殿」
オルドは包みを見て、すぐに事情を察した。
「古い工具か」
「はい。金槌と測定具は使える状態にできました。ただ、鋸と鑿は判断を任せたいです」
オルドは包みを確認しながら頷いた。
「何でも直せばいいというものではないからな」
「やはり、専門の方に見てもらった方がいいでしょうか」
「そうだな」
オルドは少し考えてから答えた。
「谷には鍛冶職人がいる。刃物なら、まずあいつに相談するといい」
「名前を聞いても?」
「ガルド・ベッケだ」
オルドは落ち着いた声で続ける。
「ただし、持ち込めば何でも直ると思うな。折れたもの、腐食が深いものまで無理をさせれば、かえって危険になる」
「使える可能性があるものを選んで持っていきます」
レントは頷いた。
「それがいい」
オルドは包みを見る。
「期待は仕事が済んでからだ。使える道具が増えたなら、それで十分価値がある」
灰樫の家へ戻ると、レントは工具を改めて分けた。
ガルド・ベッケへ相談する鋸と鑿。
部品取りにする道具。
工房で使う金槌と測定具。
全部を抱え込まない。
直せるものを直し、任せるものを任せる。
それもまた、修繕なのだと思った。
翌日。
レントは包んだ鋸と鑿を持ち、谷の鍛冶職人のもとへ向かっていた。
途中、道の脇で立ち止まる。
一人の住民が、古びた農具を抱えて歩いてきた。
「レントさん」
呼び止められる。
「少し見てもらえないかい」
レントは農具へ視線を向けた。
すぐに手を伸ばすことはしなかった。
まず状態を見る。
何が傷んでいるのか。
直せるものなのか。
それを確かめる必要がある。
「分かりました。まず、状態を確認させてください」
灰樫の家の工具棚には、少しずつ道具が増えていた。
そして、次に見るべき壊れた物も、また一つ増えようとしていた。




