【第8話】扉の向こうの不具合
灰樫の家の朝は、少しずつ作業の音が増えていた。
以前は古い木が鳴る音ばかりだった家の中に、今では工具を置く音や、材を動かす音が混じるようになっている。
レントは作業台の上を片付けながら、残っている材料を確認した。
椅子の修繕で使った木材の端。
余った木栓。
簡単な記録を書き込んだ紙。
どれも大切なものだが、使い道を考えながら並べていると、不思議と以前よりこの場所が自分の仕事場らしく感じられた。
床下から、小さな音がする。
「ポル」
呼びかけると、少し間を置いて床板の隙間から丸い鼻先が覗いた。
琥珀色の鼻先が忙しなく動き、作業台の上を確認している。
「今日は木栓はありませんよ」
そう言うと、ポルはしばらくレントを見上げた後、ぷる、と小さく鳴いて床下へ戻っていった。
その様子に、レントは小さく息を吐く。
まだ何を考えているのか全て分かるわけではない。
それでも、灰樫の家にいる小さな住人の気配は、以前より自然なものになっていた。
その日の昼前だった。
戸を叩く音がした。
「レントさん、少しいいかい」
声の主は、前に椅子を持ち込んだ住民から話を聞いたという女性だった。
レントが戸を開けると、女性は少し困ったように家の扉へ視線を向けた。
「扉のことで相談があってね」
「閉まりにくいんですか」
「そうなんだよ。最近は特にひどくてね」
女性は扉の下端を指した。
「ここが床に擦れているみたいで。薪を抱えて帰った時や、水を持って入る時なんか、両手が塞がっているだろう? いちいち置いてから開けるのが少し大変でね」
レントは頷いた。
「一度、状態を見せてもらえますか」
女性の家へ向かう途中、レントはミレナにも声をかけた。
「扉の修繕ですか」
ミレナは話を聞きながら、工具を持った。
「建具なら見られる。でも、扉だけの問題とは限らない」
「そう思っています」
レントは答えた。
「まず状態を見ます」
家へ着くと、レントは扉の前に立った。
開ける。
閉める。
もう一度、ゆっくり動かす。
蝶番の音。
下端についた擦れ跡。
枠との隙間。
目に見える部分だけなら、扉の下を少し削れば済むようにも見えた。
けれど、レントはすぐには手を出さなかった。
綻び視を使う。
木に沿って浮かぶ淡い線を追う。
扉そのものだけではない。
枠の一部にも、わずかな歪みがあった。
さらに外側へ目を向ける。
家の周囲へ伸びる力の偏り。
地面の沈み。
レントはしゃがみ込み、壁際を確認した。
「扉だけではなさそうです」
女性が不安そうに尋ねる。
「直らないのかい?」
「いえ。直せます」
レントは首を振った。
「ただ、扉の下を削るだけだと別の問題が出る可能性があります」
「別の問題?」
「冬になって木が乾いた時に、今度は隙間が大きくなるかもしれません」
ミレナが扉枠へ手を当てた。
「湿気で木が膨らんで、枠の形が少し変わってる」
彼女は周囲を見た。
「外側の水の流れも見た方がいいね」
二人が家の外へ回ると、ポルもいつの間にか少し離れた場所まで出てきていた。
鼻先を地面へ近づけ、忙しく匂いを探っている。
「ポル?」
レントが声をかける。
ポルは返事をするように鳴き、壁際の一角へ向かった。
そこで前脚を二度、三度と地面へ当てる。
レントはその場所を見た。
「……ここですか」
だが、それだけで原因が分かったとは考えなかった。
ポルが示したのは、気になる場所かもしれない。
そこから先を確かめるのは、自分たちの仕事だった。
レントは周囲の土の高さを確認し、雨水が流れた跡を見る。
壁際の一部が少し沈んでいた。
「ここが下がったことで、家の外周側へ力が寄っています」
ミレナも頷く。
「枠が引っ張られて、扉が合わなくなったんだね」
「はい」
レントは女性へ説明した。
「地面の水はけを整えて、扉と枠を調整します。削る量はできるだけ少なくします」
「そんなに手間をかけなくても……」
女性は申し訳なさそうに言った。
レントは首を横に振る。
「毎日使う場所ですから」
「薪や水を持ったまま、無理なく開けられる状態にしたいです」
ミレナが短く頷いた。
「使う人が困らない形にする。それが修繕だから」
作業が始まった。
まず外周の水の流れを整える。
次に蝶番の位置を確認する。
ミレナは枠の状態を見ながら、慎重に木へ手を入れていった。
「削りすぎると駄目」
彼女は作業を止めずに言う。
「今は湿気で膨らんでる。でも乾けば戻る余地が必要になる」
「余裕を残すんですね」
「そう」
ミレナは頷いた。
「今だけ開けばいいなら簡単。でも、長く使うなら別」
少しずつ調整を重ねる。
扉は一度、軽く動くようになった。
だが。
「……まだ少し重いですね」
レントが閉じる途中で手を止めた。
枠へかかる力を見る。
「ここです」
ミレナが確認する。
「分かった」
わずかな調整を加える。
そして最後に、取っ手を外した。
「これも直す」
「取っ手ですか?」
女性が驚く。
「今の位置だと、少し手を伸ばしすぎる」
ミレナは女性の身長と普段の動きを見ていた。
「薪を持った状態なら、もっと自然に握れる方がいい」
位置を少し変え、固定する。
最後の確認を終え、レントは扉を閉めた。
今度は引っかかりがない。
余計な隙間もない。
「試してみてもらえますか」
女性は薪を抱えて戻ってきた。
片手で取っ手を握る。
扉は静かに開いた。
「……あ」
女性は目を丸くする。
もう一度閉める。
今度も滑らかだった。
「水を持っていても、これなら大丈夫そうだね」
小さく笑う。
「毎日のことだからね。こういうのが一番困るんだ」
レントは頷いた。
大きな壊れ方ではない。
けれど、毎日繰り返す不便は、少しずつ人の負担になる。
その負担を減らせたことが、修繕の意味なのだと思った。
数日後。
灰樫の家へ戻ったレントは、受け取った報酬を作業台の横へ置いた。
古い工具箱だった。
「長く使っていなかったものだけど、役に立つならと言ってくれました」
蓋を開ける。
中には古い工具が並んでいた。
ただし、どれも錆が浮いている。
そのまま使える状態ではなかった。
「直すものが増えたね」
ミレナが横から覗き込む。
「そうですね」
レントは一本の工具を手に取った。
捨てる前に、状態を見る。
使える部分が残っているか。
直せるものか。
それを確かめるのも、修繕の仕事だった。
床下から、ポルが顔を出す。
工具箱を見て、鼻先を動かした。
「ポル」
レントが声をかける。
ポルは工具箱へ近づきかけて、少し考えるように首を傾げた。
レントは苦笑する。
「今回は持っていかないでくださいね」
ポルはぷる、と鳴いて床下へ戻っていった。
灰樫の家の作業台には、新しい修繕の種が残った。
まだ使えない古い道具。
これから確かめるべき傷み。
小さな仕事の積み重ねが、少しずつこの場所に増えていた。




