【第7話】初めての修繕依頼
灰樫の家に、朝の光が差し込むようになっていた。
以前なら、床板の軋む音を聞くたびに足を止めていた場所も、今は慎重に歩けば問題なく使える。まだ古い木の匂いは残っているが、かまどには火が入り、作業台の上には工具が並ぶようになった。
レントは朝の片付けを終えると、壁際へ寄せていた材を確認した。
灰樫の家を直すために使った余剰材の残り。工具。紙にまとめた作業記録。
生活のために置いていたものが、少しずつ仕事のためのものへ変わり始めている。
とはいえ、まだここを訪ねてくる人はいなかった。
修繕屋と呼ばれるほどの仕事をしたわけではない。
レントがそう考えていた時だった。
「レント殿、いるか」
戸の向こうから声がした。
聞き覚えのある落ち着いた声に、レントはすぐ立ち上がった。
「オルドさん。どうぞ」
開いた戸の向こうに立っていたオルドは、周囲を一度見回してから中へ入った。
その後ろには、一人の年配の住民がいた。
抱えているのは、古い木製の椅子だった。
脚の一本がわずかに傾き、持ち上げるたびに小さな音が鳴っている。
「私物の小さな修繕なら、相談してみてもいいだろうと伝えた」
オルドはそう言った。
「ただし、できるかどうかを確認してからだ。無理なものを引き受けろとは言っていない」
「分かりました」
レントは頷き、椅子へ視線を向けた。
「見せてもらってもいいですか」
年配の住民は少し安心したように椅子を差し出した。
「長く使っているものでな。買い替えればいいと言われるかもしれんが……これは残したいんだ」
「理由を聞いても?」
レントが尋ねると、年配の住民は椅子の背を撫でた。
「昔から使っている。座る場所も決まっていてな。新しいものが悪いわけではない。ただ、この椅子の癖に慣れてしまった」
レントは静かに頷いた。
「分かりました。直せるか確認します。ただ、見た目だけを戻すのではなく、今の使い方に合わせて考えます」
椅子を平らな床へ置く。
レントは目を細めた。
綻び視を使う。
古い木に沿って、淡い線が浮かび上がる。
脚の亀裂。
接合部の緩み。
そして、座面の片側へ偏って残った細かな傷み。
壊れている場所だけではない。
長く使われる中で、力がどこへ集まっていたのかが見える。
レントは椅子の周囲を歩き、何度か角度を変えて確認した。
「少し座ってもらえますか」
「今、この状態でか?」
「はい。どこに負担がかかっているか確認したいので」
年配の住民は慎重に腰を下ろした。
わずかに体を傾ける。
立ち上がる時も、同じ側へ力をかけた。
レントはその動きを見逃さなかった。
「この脚ですね」
指を差す。
「座る時と立つ時に、こちらへ重さが集まっています。亀裂だけを塞いでも、同じ場所に負担がかかればまた傷むと思います」
「では、直らないのか」
「いいえ」
レントは首を振った。
「使い方に合わせて調整します。見た目も、座った時の感覚も、大きく変えない形で」
年配の住民は椅子を見た。
「そんなことができるのか」
「ミレナさんの技術が必要になります」
レントは椅子を持ち上げた。
「木の加工は、私より詳しい人に頼らないといけません」
その言葉に、オルドは何も言わずに見ていた。
しばらくして、灰樫の家へミレナが訪れた。
「椅子?」
「はい。脚の亀裂だけではなく、荷重の偏りも見てもらいたいです」
レントは確認した箇所を説明した。
ミレナは椅子を触り、接合部を確かめる。
「……確かに、一部分だけ直してもまた傷む」
木槌で軽く叩き、音を聞く。
「見つけただけじゃ直ったことにはならないよ」
「はい」
「使う人がどう使うかまで考えないと」
ミレナは椅子を作業台へ置いた。
「亀裂部分は継ぎ直す。脚の角度を少し変える。木栓も、あとで調整できるように残す」
「強度は保てますか」
「やってみる」
短い返事だった。
作業が始まる。
古い木を無理に削るのではなく、残せる部分を見極めながら慎重に分解していく。
レントは状態を確認し、ミレナが加工する。
役割は違った。
けれど、椅子を元の使い心地へ戻すという目的は同じだった。
その途中だった。
「……あれ」
ミレナの手が止まる。
「木栓が一本ない」
作業台の上を確認する。
外したはずの小さな木の部品が見当たらなかった。
レントは床を見る。
細かな木屑。
そして、床下へ続く隙間の近くに、小さな跡。
「ポルかもしれません」
床下から、小さな音がした。
レントはすぐには近づかなかった。
「ポル」
呼ぶ。
返事の代わりに、床の奥でかすかな音が鳴る。
「それは使うものなので、返してもらえると助かります」
しばらく待つ。
追えば逃げる。
そう分かっているわけではなかった。
ただ、小さな存在を無理に追い詰める必要はないと思った。
やがて床下から、丸い体が少しだけ現れた。
ポルは木栓をくわえている。
その横には、磨かれた小石が置かれていた。
レントは思わず目を瞬かせた。
「交換のつもりでしょうか」
ミレナが小さく息を吐く。
「……困ったものを持っていったね」
けれど、声には怒りより戸惑いが混じっていた。
ポルは二人の様子を見て、木栓を置く。
そして小石を残したまま、床下へ戻っていった。
レントは木栓を拾い上げた。
「傷はありません」
「なら続けられる」
ミレナは木栓を確認し、作業を再開した。
やがて椅子は元の形を取り戻していく。
脚の角度を調整し、接合部を継ぎ直す。
最後に、レントがゆっくり荷重をかけた。
ぐらつきはない。
座面の傾きも改善されている。
「大丈夫そうです」
老人へ椅子を渡す。
年配の住民は、少し緊張した様子で腰を下ろした。
しばらく沈黙が続く。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……変わっていない」
椅子の背へ手を置く。
「座った感じも、手を置いた時の感触も」
「ただ、安全にはなっています」
レントが言うと、老人は何度も頷いた。
「それなら十分だ」
その日の後、オルドが椅子の様子を確認しに来た。
「問題はなさそうだな」
「はい。使い方も含めて説明しました」
オルドは椅子を見て、それからレントを見る。
「紹介した身として、結果を確認する必要があった」
「ありがとうございます」
「だが」
オルドは淡々と言った。
「一脚直しただけで看板が立つわけではない」
「分かっています」
レントは頷いた。
オルドは少しだけ目を細めた。
「期待は仕事が済んでからだ」
その言葉は、以前と変わらない。
ただ、灰樫の家へ相談を持ち込むことを止める様子もなかった。
椅子が運び出された後、作業台の上には木屑が残っていた。
報酬として受け取った食料も、壁際へ置かれている。
大きな変化ではない。
けれど、灰樫の家には初めて、暮らしの困り事を持ち込む人が現れた。
夕方。
戸を叩く音がした。
「レントさん、少しいいかい」
別の住民だった。
「扉がなかなか閉まらなくてね。見てもらえるだろうか」
レントは一度、作業台を見る。
それから頷いた。
「まず状態を見ます」
灰樫の家に、また一つ相談の声が届いた。




