【第6話】 床下の住人
灰樫の家の朝は、いつもより静かだった。
床板を外した場所には縄が張られ、その向こう側には仮支柱が残っている。寝室とかまどを結ぶ細い通路だけが、安全に歩ける場所として確保されていた。
レントは開口部の外へ並べた材を一つずつ確認していた。
古い仕切りから外された余剰材には、以前使われていた釘穴が残っている。新しい木材ほど扱いやすくはないが、今の灰樫の家には十分に役立つものだった。
その横で、ミレナが工具を整えている。
「最初は手前側。前に決めた通り、細い支えから入れる」
「はい。荷重の偏りを確認しながら進めます」
「確認は短く。見続けないで」
レントは頷いた。
綻び視は便利だった。
見えない傷みを見つけられる。力の偏りも分かる。
けれど、それだけで家を直せるわけではない。
床へ差し込む材の角度も、支える位置も、最後に判断するのは現場に触れているミレナだった。
レントは一本目の材を持ち上げ、開口部から手を伸ばす。
「ここで合っていますか」
「少し右。床束に当てるんじゃなくて、横木を受ける位置」
言われた通りに動かすと、材の先がわずかに沈んだ場所へ収まった。
ミレナは木槌で軽く叩き、音を確かめる。
「今のは大丈夫」
短い確認だけが続く。
二本目、三本目。
支えが増えるたび、床板の軋みは少しずつ小さくなっていった。
レントは短く綻び視を使い、力の流れを見る。
赤い線はまだ残っている。
だが、最初に見たような一方向へ寄った偏りは弱まっていた。
「一本目と二本目の間、少し力が逃げています」
「なら、三本目は予定より半分だけ深く」
「分かりました」
材を調整しようとした、その時だった。
床下の奥から、乾いた音が響いた。
ぱら、と細かな土が落ちる音。
二人の手が止まる。
続いて、床板の下で何かが擦れるような小さな振動が伝わった。
レントが開口部へ視線を向ける。
「確認します」
綻び視を使おうとした瞬間。
床板の近くで、小さな音が三度鳴った。
こつ。
こつ。
こつ。
地脈精霊モグラがいた。
丸い体を低くして、床下の奥ではなく、開口部から離れる方向へ移動している。
レントはすぐに手を止めた。
「……何か変化があります」
「見えた?」
「いいえ」
レントは首を振った。
「音だけでは判断できません。床の震え、横木の軋み、落ちた土を確認します」
綻び視を使う衝動を抑える。
見れば何か分かるかもしれない。
だが、分からないものまで無理に追えば、見落としが出る。
レントは床板へ手を置いた。
わずかな揺れ。
横木から伝わる重さの変化。
そして、奥側の壁際に落ちた乾いた土。
「古い土壁の一部が崩れています」
ミレナはすぐに奥を見た。
「最初の順番は止める」
迷いはなかった。
彼女は置いていた材を指差す。
「手前の仮支柱を組み替える。奥へ力を送らない」
「荷重の逃げ道を変えるんですね」
「そう。今のままだと、奥が崩れた分を別の場所が受ける」
ミレナは一本の材を持ち上げた。
「レント、そこを支えて」
「はい」
二人は声を掛け合いながら、支柱の位置を変えていく。
予定していた場所へ入れるのではない。
今の床が耐えられる場所を探す。
レントは材を押さえ、ミレナが角度を調整する。
「もう少し左」
「この位置ですか」
「あと少し。そこなら横木が受ける」
短い言葉だけで作業が進む。
床下から、また小さな土の落ちる音がした。
レントは顔を上げた。
地脈精霊モグラは、狭い隙間の向こうからこちらを見ている。
だが、二人が支えを入れようとしている場所からは離れていた。
「通路は残します」
「塞いだら逃げ場がなくなる」
ミレナは即座に頷いた。
「そこだけは空ける」
最後の材を固定した直後だった。
奥側から、大きな音が響いた。
古い土壁の一部が崩れ、乾いた土が床下へ落ちる。
レントの体に緊張が走る。
しかし、床は沈まなかった。
組み替えた支柱が横木を受け、重さを分散している。
しばらくして、揺れが止まった。
灰樫の家に残ったのは、土の匂いと木の軋む音だけだった。
レントはゆっくり息を吐いた。
「……止まりました」
「まだ終わりじゃない」
ミレナは床を見た。
「緩みがないか確認する」
二人は急がず、支柱の周囲を確かめた。
床板の沈み。
横木の状態。
基礎石の周辺。
どこにも新しい大きな変化はない。
封鎖していた部屋へ、ミレナが一歩入る。
床はわずかに鳴ったが、以前のような不安定さはなかった。
「使える」
短い言葉だった。
けれど、その部屋へ戻れることの意味は大きかった。
レントは部屋の中を見回した。
まだ古い家の匂いは残っている。
それでも、ここで暮らせる場所になっている。
その日の夕方、ミレナは余った端材を集めていた。
「何を作るんですか」
「床下の通路を邪魔しないもの」
小さな木箱だった。
背と左右を囲み、入口だけを開けてある。
「狭いほうが落ち着くはず」
ミレナは箱の位置を床下へ続く場所の近くへ置いた。
「塞がない。出入りできるようにする」
しばらくすると、床下から鼻先が覗いた。
地脈精霊モグラは警戒するように箱の周囲を回り、少し離れた場所で止まる。
すぐには入らない。
レントもミレナも近づかなかった。
やがて、小さな前脚が動く。
箱の近くへ、磨かれた小石が置かれた。
「……また置きましたね」
「そうみたい」
地脈精霊モグラは小さく鳴いた。
「ぷる」
レントは丸い体と、短い鳴き声を見た。
以前から記録していた小さな存在。
床下にいた何か。
けれど、今は灰樫の家の中に居場所を作っている。
「……ポル」
レントが言うと、地脈精霊モグラが顔を上げた。
「そう呼んでもいいですか」
少し間を置いて、精霊獣は鼻先を動かした。
ミレナは箱を見ながら言った。
「嫌がってはいないみたい」
レントは頷いた。
「では、ポルで」
その日から、灰樫の家には小さな寝箱が増えた。
床下へ続く逃げ道も残した。
すぐに触れられる距離ではない。
何でも分かり合えるわけでもない。
それでも、同じ家で暮らすための場所が一つ増えた。
翌日、オルドが灰樫の家を訪れた。
「土壁が崩れたそうだな」
「はい」
レントは使用した材の本数と、変更した手順を紙で示した。
「予定していた順番では危険があると判断し、入口側の支えを組み替えました」
オルドは紙を読み、黙って頷いた。
「隠さず書いたか」
「危険が残った状態で使うわけにはいきません」
「……そうだな」
オルドは視線を床へ向けた。
「期待は仕事が済んでからだと言ったが、少なくとも失敗を隠すよりはいい」
評価の言葉は短かった。
だが、借りた材の記録と返却分を確認する姿勢は変わらない。
「残った材は戻せるようにしておけ」
「分かりました、オルドさん」
オルドが帰った後、レントは灰樫の家の中を見渡した。
まだ直す場所はある。
まだ古い傷みも残っている。
それでも、最初に入った時とは違う。
床は支えられ、部屋は使えるようになった。
かまどの火が揺れる。
その近くで、ポルが小石を前脚で転がしていた。
レントはその様子を見て、静かに紙を閉じた。
壊れた家は、まだ完成していない。
けれど、ここで暮らし続けるための場所にはなり始めていた。




