【第5話】 床下の輪郭
朝の光が灰樫の家へ差し込む頃、レントは危険区域を囲う縄の外側にしゃがみ込んでいた。
外した床板の隙間からは、湿った土の匂いが上がっている。仮支柱は昨夜と同じ位置で横木を受けており、目に見える沈みは増えていない。
だが、その下にどれほど緩んだ土が広がっているのかは、まだ分からなかった。
レントは開口部から数歩離れた壁際へ、小さな器を二つ置いた。一方には炒り豆を数粒、もう一方には水を浅く張る。
床下へ近づけすぎれば、そこへ出てくるよう誘導することになる。逆に遠すぎれば、地脈精霊モグラが気づかないかもしれない。
逃げ道が塞がれず、室内全体を見渡せる位置を選んだ。
器を置き終えると、レントは寝室側へ下がった。足音を立てずに腰を下ろし、膝の上へ紙と炭筆を載せる。
捕まえるつもりはない。
近づいて触れるつもりもなかった。
人のいない間に動くなら、その動きを見る。それだけだった。
しばらくは、床下から何の音もしなかった。
かまどの灰がわずかに崩れ、外では風に揺れた枝が壁を擦った。
やがて、外した床板の奥で土が小さく動いた。
焦げ茶色の鼻先が、暗がりから覗く。
地脈精霊モグラは体を出さず、鼻だけを忙しなく動かした。炒り豆の匂いを確かめているようにも見えたが、レントは炭筆を動かさず待った。
精霊獣は一度引っ込み、また鼻先を出した。
次には額の石模様まで現れた。琥珀色の鼻が器の方を向き、次に寝室側のレントへ向く。
レントは視線を落とした。
目を合わせ続ければ、警戒させるかもしれない。
長い間を置いてから、地脈精霊モグラは床下を抜け、壁際へ走った。丸い体を低くし、いつでも戻れるよう開口部へ背を向けない。
水には近づかず、炒り豆を一粒だけ前脚で押した。
豆が転がる。
精霊獣は跳ねるように後ろへ退き、しばらく動かなかった。やがて鼻先で豆を確かめ、口にくわえると、同じ道を戻って床下へ消えた。
レントは紙へ時刻と位置を書き込んだ。
豆を一粒持ち去った。
それ以上の意味は記さない。
餌を受け取ったとも、警戒を解いたとも決めなかった。
次に姿を見せたのは、陽が少し高くなってからだった。
地脈精霊モグラは器の手前で立ち止まり、口にくわえていたものを床へ落とした。
小さな石だった。
角がなくなるまで磨かれた、淡い灰色の小石。
それを器の近くへ置くと、精霊獣は炒り豆をもう一粒持ち去った。
レントは同じように記録した。
小石を一つ置いた。豆を一粒持ち去った。
交換のつもりかもしれない。巣から運んできただけかもしれない。器のそばへ落としたことに意味があるとも限らない。
推測は紙へ書かなかった。
昼前、ミレナが灰樫の家へ来た。
彼女は器と小石を見た後、危険区域の縄が動いていないことを先に確かめた。
「近くへ置いたの?」
「開口部からは離しました。こちらが下がってから、自分で出てきています」
「追ってないね」
「はい。持ち去った豆と、置いた小石だけ記録しました」
ミレナは紙へ目を落とした。
「意味まで書いてないのはいい。勝手に決めると、次の動きもそう見えてくる」
「まず状態を見ます」
「床のほうも同じだよ」
二人が開口部から距離を取ると、地脈精霊モグラは再び姿を現した。
今度は器へ向かわなかった。
沈んだ基礎石の近くへ入り込み、前脚で地面を叩く。
こつ、こつ、こつ。
それから横へ移動し、少し離れた場所でも三度叩いた。
レントは床上へ置いた木片の位置をずらし、音の真上と思われる場所へ印を移した。
精霊獣は開口部の縁に沿って進んだが、ある一角には近づかなかった。手前で向きを変え、別の狭い隙間を通って基礎石の反対側へ回る。
そこでまた床下を叩いた。
こつ、こつ、こつ。
「さっきと位置が違います」
「音だけで線をつながないで」
「分かっています」
レントは打音の位置を一つずつ床上へ写した。繰り返し通った場所には細い印を置き、避けた場所には別の向きで木片を並べる。
地脈精霊モグラが何を感じているかは分からない。
ただ、通った場所と通らなかった場所は事実として残る。
精霊獣が床下の奥へ消えてから、レントは綻び視を使った。
長く見続けない。
まず沈んだ基礎石。次に傾いた床束。そこから横木へ伸びる赤い線を追う。
打音の位置と重なる箇所では、床組みへかかる力が一方向へ寄っていた。
その間にも、ごく弱い赤の連なりがあった。表面の板や横木の傷ではない。土の下から引かれているように見えたが、線は途中でぼやけて消える。
レントは一度目を閉じた。
眼の奥に鈍い痛みが生じる前に、視線を外す。
「全部は見えません。ただ、打音があった三か所の上は、床組みの偏りと重なっています」
「避けてた場所は?」
「その上にも弱い線があります。基礎石の沈みから続いているように見えますが、地中までは追えません」
ミレナは床上の印を見渡した。
「なら、空洞の形をあの精霊獣の動きだけで決めるのは無理だね」
「はい。基礎石の沈下、床束の傾き、綻び視の線が重なる範囲だけを危険と考えます」
レントは紙へ大まかな形を描いた。
沈んだ基礎石を中心に、奥側へ細長く伸びる範囲。精霊獣が避けた場所はその途中に含まれているが、輪郭は途切れている。
ミレナは紙を受け取り、床組みの位置と見比べた。
「このまま空いてるところを全部埋めるのは駄目だね」
「土を詰めれば支えになるとは限りません」
「奥が抜けてたら、押し込んだ分だけ横へ崩れる。基礎石を持ち上げるのも後」
ミレナは保管していた短い角材を一本取り、床下へ差し込める幅を測った。
「先に横木の重さを逃がす。太い一本を入れるんじゃなく、細い支えを何本か使う」
「荷重を分けるんですね」
「一度に受けさせない。手前から少しずつ。あと、ここは塞がない」
ミレナが指したのは、地脈精霊モグラが繰り返し通った狭い隙間だった。
「支えを入れる場所としては使えそうですが」
「通路を塞いで奥へ追い込んだら、どこから出るか分からなくなる。床下で暴れられても困る」
保護するためではない。施工中の危険を増やさないための判断だった。
ミレナは必要な材の幅と長さを決め、紙へ本数を書き加えた。
「この寸法なら、余った支柱材から取れるかもしれない。共同倉庫に残ってればだけど」
二人はその日のうちにオルドを訪ねた。
レントが寸法と本数を説明すると、オルドは紙を受け取り、しばらく黙って数字を見た。
「共同設備に回す材は使わせん」
「必要なのは細い支え材です。長材を切るつもりはありません」
「用途の限られた短材ならある。古い仕切りから外したものだ」
オルドは倉庫の隅から材を選び出した。長さの揃わないものばかりで、表面には古い釘穴が残っている。
ミレナは一本ずつ持ち上げ、反りと腐食を確かめた。
「四本は使える。二本は切れば補助に回せる」
「返せるものは?」
「切らない二本は、使わなければそのまま返せます」
オルドは帳面をレントの前へ置いた。
「借りる本数、切断する本数、返却できる本数を書け。余ったからといって、灰樫の家の物になるわけではない」
「分かりました、オルドさん」
レントは材の状態と用途を記した。
借用六本。うち二本は切断予定。未使用分は返却。
オルドは記録を読み、材を渡した。
「家が持つ見込みはあるのか」
「危険範囲は大まかに絞れました。床組みへかかる重さを先に分ければ、基礎石を動かさずに補強へ進めます」
「大まか、か」
「奥側の地面は確認できていません」
「なら、期待は仕事が済んでからだ。崩れた床へ材まで埋めるなよ、レント殿」
「その前に止めます」
灰樫の家へ戻ると、ミレナは借りた材を開口部の外へ並べた。
まだ切らない。
まず床上の印、綻び視で見えた線、床束の傾きをもう一度照合する。どの材をどの順で差し込み、どこまで荷重を受けさせるかを決めていく。
「最初はここ。次が反対側。奥は最後」
ミレナが指すたび、レントは紙へ順番を書き込んだ。
「奥側は線が薄いですが、地面が脆い可能性があります」
「だから人が入らない。手前から差し込んで、少しでも土が動いたら止める」
「精霊獣の通路は、この幅を残す」
「そこへ材がずれないよう、手前で固定する。見つけただけじゃ直ったことにはならないからね」
床下で、かすかに土が擦れた。
地脈精霊モグラは開口部の奥から二人を見ていた。近づいてはこない。器の炒り豆も残ったままだった。
レントは呼びかけず、材の位置だけを確認した。
危険な範囲は、完全ではないが輪郭を持った。
支える順序も決まった。
灰樫の家を放棄せず、直して使える見通しは立っている。
だが、奥側の土はまだ暗がりの中にあった。
細い材を差し込む振動だけで崩れるかもしれない。仮支柱が受けている重さが、別の弱い場所へ移る可能性もある。
レントは最後の一本を床へ置き、危険区域の縄が緩んでいないことを確かめた。
その向こうで、小さな前脚が地面を三度叩く。
こつ、こつ、こつ。
今度も、意味は決めなかった。
ただ、音の位置を紙へ加えた。




