【第4話】 床下の沈み
こつ、こつ、こつ。
火の消えかけたかまどの前で、レントは椀を置いた。
音はまた同じ間隔で鳴った。床下を走り回る足音とは違う。かまどから少し離れた床の一角、その下から、固いものを短く叩くように響いている。
レントは立ち上がったが、音のする場所へは近づかなかった。
油灯を持ち、壁際を回る。床板の継ぎ目を目で追うと、問題の一角だけ、周囲よりわずかに低く見えた。影のせいとも考えられたが、板の上へ置かれた小さな木片が、中央へ向かって傾いている。
綻び視を使う。
床板の縁から、細い赤の線がいくつも伸びた。板そのものの腐食に加え、その下で荷重が一方へ引かれている。
どこまで危険なのかは見えない。
レントはすぐに視線を外した。
「今夜、確かめる場所じゃないな」
床へ体重をかけず、手の届く範囲から椅子と薪籠を動かした。それから、床板を避けるように木片を四つ置き、縄を渡して目印にする。
打音はもう一度鳴った。
こつ、こつ、こつ。
だが、位置は動かない。
床下の何かがそこにいるのか、地面そのものが鳴っているのかは分からなかった。レントは無理に床板へ手を掛けず、寝室へ戻った。
翌朝、煙突の粘土に新しいひびがないことを確かめた後、レントはミレナのもとへ向かった。
灰樫の家へ戻ったミレナは、縄で囲った床を見て眉を寄せた。
「夜のうちに外さなかったんだね」
「音の場所までは絞れました。ただ、床の沈み方が気になります」
レントは昨夜の打音と、綻び視で見えた力の偏りを説明した。
ミレナは囲いの外側へ膝をつき、床板へ指先を当てる。板の端を軽く押し、返ってくる硬さを確かめた。それから釘の頭を一つずつ探し、細い道具で周囲の木屑を除く。
「板は傷んでる。でも、全部腐ってるわけじゃない」
「外せますか」
「力任せに剥がせば割れる。戻して使うなら、釘を浮かせて一枚ずつだね」
ミレナは工具袋から細い楔と小槌を出したが、すぐには打ち込まなかった。
「先に、下がどう組まれてるか分かるものはないの?」
「オルドさんに記録を確認してきます」
「図面があるなら、そのほうが先」
共同倉庫では、オルドが古い記録束を机へ広げていた。
レントが灰樫の家の基礎について尋ねると、オルドはすぐに返事をせず、棚の下段から別の箱を引き出した。
「建てた頃の記録は、ほとんど残っていない」
乾いた紙を慎重にめくり、古い日付と補修内容を拾っていく。
「屋根を一度葺き替えた。北側の壁も直している。だが、基礎へ手を入れた記録はここにはない」
「図面は?」
「失われたらしい。古い倉庫を整理したときには、すでになかった」
オルドは紙束を閉じた。
「分かるのは、灰樫の家が何度か部分補修されていることだけだ。最初の石組みがどうなっているかまでは、勘定に入れられん」
「ありがとうございます、オルドさん」
「床を全部開けるつもりか」
「必要な範囲だけ確認します。危険なら、先に立ち入りを止めます」
「期待は仕事が済んでからだ。崩してから記録がないと言われても困る」
「床板は再利用できる形で外します」
「なら、結果を報告しろ。レント殿」
灰樫の家へ戻ると、ミレナは昨夜の印から床板の向きを読み、外す順番を決めていた。
「図面は?」
「ありませんでした。建築時期と一部の補修歴だけです」
「じゃあ、見えるところから確かめるしかないね」
ミレナは小槌を強く振らず、楔を釘の脇へ差し込んだ。小さく、一定の力で押し上げる。釘がわずかに浮くと、別の道具で頭を挟み、板を傷めないよう抜いた。
音は前日の煙突作業よりずっと小さい。
床下の小動物を驚かせないためではなく、傷んだ床組みへ余計な振動を伝えないためだった。
一枚目の板が外れる。
湿った土と古い木の匂いが、細い隙間から上がってきた。
ミレナは板を壁際へ寝かせ、次の板へ移る。二枚目を外すと、床下の暗がりが広がった。
レントは油灯を近づけた。
光の先に、斜めへ傾いた床束が見えた。その下にある基礎石は、片側が土へ沈み込み、上面が水平を失っている。
さらに、その近くで焦げ茶色の塊が身を低くしていた。
丸い背。大きな前脚。琥珀色の鼻先。額には、小さな石のような模様が浮かんでいる。
モグラに似た生き物は、灯りを向けられると毛を膨らませた。
ミレナが目を細める。
「たぶん、地脈精霊モグラだ」
「知っているんですか」
「見たことはない。でも、額の模様と前脚の形がそうだと思う。地面の近くにいる精霊獣だよ」
「何をしているかまでは?」
「そこまでは分からない」
地脈精霊モグラは二人を見比べ、床下の奥へ少し退いた。
レントは灯りを下げた。床下へ手を入れず、生き物が奥へ戻れる空間を塞がない。
「追わないほうがいいですね」
「当然。今は床のほうが先」
小さな精霊獣は崩れかけた土の近くまで下がると、前脚を持ち上げた。
こつ、こつ、こつ。
昨夜と同じ音が、基礎石の脇から響いた。
レントは息を止めた。
だが、それを合図だとは決めなかった。自分の巣を守るための行動かもしれない。固い石を確かめているだけかもしれない。
「音の位置は、あそこです」
「見れば分かる。でも近づかないで」
レントは床の開口部から距離を取り、逃げ道を残したまま綻び視を使った。
暗い床下へ、赤い線が浮かぶ。
基礎石の下から土の中へ伸びる線は、途中でぼやけて消えた。地中の奥までは見通せない。
はっきり見えたのは、沈んだ石の上へ乗る床束と、その周囲の床組みだった。
重さが一か所へ集まり、横木がねじれている。今は持ちこたえているが、さらに沈めば隣の板まで引かれる。
「基礎石が沈んでいます。床束へ荷重が集中している」
「範囲は?」
「地中は分かりません。空洞が石の下だけなのか、もっと続いているのか見えないです」
「なら、石は動かせない」
ミレナは床下の縁を見回し、開けた部分から手が届く場所へ短い角材を入れた。
横木の真下へ差し込み、薄い木片を重ねて高さを調整する。叩き込まず、床の重さを少しずつ受けさせた。
「これは直すためじゃない。これ以上落ちないように支えるだけ」
「分かりました」
「床を全部開けたら、残った組みまで崩れるかもしれない。今日はここで止める」
レントは昨夜の縄を広げ、沈下箇所の真上だけでなく、その周囲まで囲った。
床板を戻せる部分は戻したが、危険な一角には乗れないよう、椅子と古材を置いて通路を狭める。寝室からかまどへ向かう壁際だけを残し、実際に歩いて床の揺れを確かめた。
「ここなら通れます」
「端へ寄りすぎないこと。荷物も置かないで」
「はい」
生活できる場所は、また狭くなった。
かまどの前へ向かうには壁沿いを歩かなければならない。床板を外した一角は暗く口を開け、その下では仮の支柱が横木を受けている。
地脈精霊モグラの姿は、もう見えなかった。
床下の奥から土が擦れる音がしたが、レントもミレナも追わなかった。
「地中の状態が分からないまま、石を持ち上げるのは危険ですね」
「下が空なら、支えを入れても沈む。土が緩んでるだけでも、詰め方を間違えれば横へ崩れる」
「人の目が届く範囲だけでは決められない」
「見つけただけじゃ直ったことにはならないよ」
ミレナは外した床板を乾いた場所へ移し、工具を片づけた。
レントは縄の位置と安全な通路をもう一度確かめる。
床下の異常は残っている。基礎石も、地中の空洞も、まだ直せない。
それでも、何も知らずに床へ乗り続けることはなくなった。
崩れる前に危険を見つけ、近づかない形に整えた。
灰樫の家の中には、使える場所と使えない場所の境が新しく引かれていた。
その下の暗がりから、一度だけ小さな音がした。
こつ、こつ、こつ。
レントは足を止めたが、返事はしなかった。
音の意味は、まだ分からない。
ただ、その位置だけはもう見失わなかった。




