【第3話】 火を迎える家
雨の上がった朝、灰樫の家にはまだ湿った木の匂いが残っていた。
寝室の天井から雫は落ちてこない。壁際へ移していた寝床も、広げておけば少しずつ乾き始めている。
だが、家の中央にあるかまどは冷えたままだった。
レントは火口の前へ膝をつき、灰を退けた。長く使われていなかった内部には、乾いた煤が厚くこびりついている。煙道口へ細い木片を差し入れると、奥で固いものへ当たった。
「詰まりだけなら、掃除で済むんだが」
意識を集中させ、綻び視を使う。
黒い煤の向こうへ、赤い線が浮かび上がった。
ひびは煙道の内側から石の継ぎ目へ伸びている。さらに、その上には濃い赤が一点へ集まり、火を入れた場合に熱が偏る場所を示していた。
石組みもわずかにずれている。
下の石へ重さが片寄り、煤の塊が内側から支えるような形になっていた。先に煤だけを勢いよく落とせば、支えを失った石が崩れる可能性がある。
レントは視線を外し、目頭を押さえた。
「まず状態を見よう。順番を間違えると、煙突そのものを壊す」
必要なものを紙片へ書き出す。
煙道へ届く長いブラシ。石の継ぎ目を仮に留められる耐火材。煤を受ける布と桶。周囲の木部を確かめるための灯り。
自分の手元にある物だけでは足りなかった。
共同倉庫では、オルドが古い縄を束ね直していた。
レントが必要な道具と用途を説明すると、オルドは途中で口を挟まず、紙片を最後まで見た。
「煙突を全部積み直すつもりではないな」
「灰樫の家で火を使える範囲までです。ずれた石も、必要以上には動かしません」
「それなら私的な補修の内だ」
オルドは倉庫の奥へ入り、柄の長い煙突ブラシを引き出した。毛先は擦り減っていたが、芯は曲がっていない。
続けて、布に包まれた粘土の塊を木箱から取り出す。
「耐火用だ。乾くまでは強い火を入れるな」
「ありがとうございます、オルドさん」
「礼は煙が屋根から出てからにしろ」
オルドは道具を渡しながら、低い声で続けた。
「冬を越しても使えるならな。春までに崩れる補修へ備蓄を回したことにはしたくない」
「作業後に状態を報告します」
「勘定に入れておこう、レント殿」
灰樫の家へ戻ると、ミレナはすでに煙突の外側を見上げていた。
前日と同じ工具袋を肩に掛けている。家へ入ると、かまどではなく、その上を横切る梁へ先に目を向けた。
「内側は?」
「煤の奥に石組みのずれがあります。熱が集中する場所も一か所。先に煤を少し落としてから、石を戻そうと思っています」
レントが煙道口を示すと、ミレナは黒ずんだ梁へ指を当てた。表面を削り、木の色と湿りを確かめる。
「先に石を戻して、周りを囲うつもり?」
「そのほうが火の粉は防げるかと」
「湿った木を囲えば、中に熱と水分がこもるよ」
ミレナは梁と煙突の間へ細い板を差し入れ、隙間を測った。
「補強してから、湿気を逃がす。火の粉を止める囲いは、その後。全部塞いだら駄目」
レントは綻び視で梁を見直した。
黒ずみはあるが、深く炭化している範囲は狭い。傷んだ部分を避けて補強材を当てれば、梁そのものを外す必要はない。
「補強、防湿、防火の順ですね」
「そう。煙突の中だけ見て決めないで」
「分かりました。木部はミレナさんに任せます」
「煙道はレントが見て。石を動かす前に声をかけて」
作業は、煤を受ける布をかまどの中へ広げるところから始めた。
レントは煙突ブラシをゆっくり差し込み、短く動かした。乾いた煤がぱらぱらと落ちる。
一度止め、綻び視で石の荷重を確かめる。
ずれは広がっていない。
もう一度、今度は少しだけ深くブラシを入れる。固まった煤へ毛先が当たり、煙突の内側で鈍い音がした。
「そこまで」
ミレナの声に、レントは手を止めた。
梁へ当てる補強材を削りながらも、彼女は煙突の振動を見ていた。
レントは耐火用の粘土を練り、ずれた石の周囲へ細く押し込んだ。完全に固めるのではなく、煤を落とした際に石が動かないよう仮に支える。
それから、ブラシを数度動かす。
落ちた煤を取り除き、再び石組みを見る。
煤の奥から現れた石は、片側だけが内側へ寄っていた。レントは細い木片を当て、力を分散させながら、ほんのわずかに位置を戻した。
一度に動かさない。
粘土を足し、周囲のひびを埋め、また煤を落とす。
その繰り返しだった。
煙突へ伝わる振動が床まで届いたとき、かまどの脇で小さく板が鳴った。
レントとミレナが同時に手を止める。
床板の隙間から、丸い頭が持ち上がった。
焦げ茶色の毛に覆われた、子猫ほどの小さな獣だった。琥珀色の鼻先が忙しなく動き、大きな前脚が床板の縁へ掛かっている。
黒い目がレントを見た。
次にミレナへ向き、体を強張らせる。
ほんの一瞬だった。
小さな獣は前脚を引き、土をこぼしながら床下へ消えた。
レントは追わず、ブラシを床へ置いた。
「今のが、床下にいたものですね」
「見えた。小さいね」
ミレナも床へ近づかなかった。隙間を覗き込まず、工具を持ったまま距離を置いている。
「振動で出てきたのかもしれない」
「作業を続けても大丈夫でしょうか」
「さっきより強く響かせなければ。床下へ手を入れるのはやめておこう」
「はい」
二人はそれ以上、小さな獣を呼びかけなかった。
煙突の補修へ戻り、レントは残った煤を少量ずつ落とした。石の位置を整えるたび、粘土の継ぎ目と荷重を確認する。
ミレナは梁の傷んでいない部分へ補強材を当て、力が一点へ集まらないよう固定した。その外側へ火の粉を遮る板を設けるが、煙突との間には空気が通る細い隙間を残す。
「塞がないんですね」
「谷の湿気を甘く見ないで。熱だけ逃がしても、濡れたままなら内側から傷む」
レントは煙道、粘土の継ぎ目、木部までの距離を順に確認した。
赤い線は薄くなっている。
熱が集中していた箇所も、石の位置を戻したことで煙道の中央へ散る形になっていた。
完全に新しい煙突ではない。だが、少量の火を使う条件は整っている。
かまどへ細い薪を数本入れ、レントは火をつけた。
炎は小さく揺れ、白い煙が煙道へ吸い込まれる。
二人は黙って天井を見上げた。
室内へ煙は戻らない。
レントは梁へ手を近づけ、熱の伝わり方を確かめた。囲いの外側に異常な熱はなく、隙間から湿った空気も抜けている。
「もう少しだけ火を足します」
「急に増やさないで」
薪を一本加える。
炎が安定し、かまどの上へ置いた鍋の底を温め始めた。
やがて水面から細い湯気が上がる。
「沸きました」
「煙突は?」
「漏れなしです。梁への熱も広がっていません」
ミレナは自分でも木部へ手を寄せ、しばらく確かめた。
「今日はここまで。粘土が乾くまでは、この火より強くしないこと」
「分かりました」
鍋の湯へ、レントは手元にあった白芋と豆を入れた。味付けは控えめだったが、煮える匂いが冷えた室内へ広がっていく。
ミレナは工具を片づけ、煙突をもう一度見上げた。
「明日、ひびが開いてないか見て」
「確認します。道具もオルドさんへ返します」
「ならいい」
それだけ言い、ミレナは灰樫の家を出ていった。
日が落ちる頃、レントはかまどの前で煮込みを食べた。
湯気が顔へ触れ、冷えていた指先が少しずつ動くようになる。昨日まで、家の中で火を使うことすらできなかった。
屋根のすべてが直ったわけではない。床も水回りも傷んだままだ。
それでも、雨を避けられる寝床があり、温かい湯を沸かせる。
灰樫の家に、暮らしの形が一つ増えていた。
薪が小さく爆ぜる。
その音が途切れたとき、床下から別の音が聞こえた。
こつ、こつ、こつ。
間を置いて、同じ場所からまた鳴る。
こつ、こつ、こつ。
レントは椀を置き、床へ目を向けた。
小さな獣が動き回る音ではない。
同じ場所を、短く繰り返し叩いている。
火の明かりが床板の継ぎ目を照らす中、レントは音の位置を見失わないよう、静かに耳を澄ませた。




