【第2話】 雨を止める屋根
夜半から続いていた雨は、明け方になってようやく弱まった。
天井から落ちる雫の下へ桶を置き、その縁に古布を掛ける。布の端を床まで垂らすと、水は跳ねずに伝い落ちるようになった。
それでも、天井の染みは少しずつ広がっている。
レントは濡れた床と寝床の位置を見比べ、乾いた壁際へ古布と荷物を移した。床へ流れた水は別の布へ吸わせ、板の継ぎ目へ入り込まないうちに絞る。
雨漏りそのものは止められない。
今できるのは、被害を一角へ留めることだけだった。
「寝床まで来なければ、朝までは持つか」
桶の底へ雫が落ち、乾いた音を立てる。
床下から物音はしなかった。雨音を警戒しているのか、家の奥へ移ったのかも分からない。
空が白み始める頃、屋根を打つ音は疎らになった。
レントは桶を残したまま、屋根裏へ上がった。
低い梁の間には、湿った木と古い埃の匂いが満ちている。雨水が通った場所は、天井板の色が濃く変わっていた。
綻び視へ意識を集中させる。
割れた屋根板に沿って、細い赤い線が浮かぶ。しかし、最も濃い綻びは割れ目そのものではなかった。
屋根板の重なりがずれ、上から流れてきた水が板の裏側へ入り込んでいる。そこから梁を伝い、寝室の天井へ落ちていた。
「割れた板だけ替えても駄目か」
水の経路を追えば、交換すべき範囲は絞れる。
四枚。念のため、その上下を含めて六枚。
だが、昨日選別した廃材では厚みが合わない。既存の屋根板より薄い板を当てれば段差ができ、そこへ水が溜まる。厚い板は重なりを崩す。
削れば合わせられるかもしれないが、レントに精密な木工技術はなかった。
無理に取り付ければ、一度は雨を止めても、別の場所へ水を押しやる可能性がある。
眼の奥へ鈍い痛みが走り、レントは視線を外した。
「見つけただけじゃ、直ったことにはならないな」
必要な枚数、板のおおよその厚み、傷んだ位置を紙片へ書き留める。屋根へ上がるための足場も要る。自分一人で進める案は、そこで捨てた。
朝の谷は、雨に洗われて冷えていた。
共同倉庫を訪れると、オルドは入口近くで木箱の中身を数えていた。レントの濡れた上着へ一度目を向けたが、手は止めなかった。
「雨漏りか」
「はい。寝室部分の屋根板がずれています。割れもありますが、水が入っている主な原因は重なり方です」
レントは記録を差し出した。
「交換したいのは六枚です。予備を含めても八枚以上は使いません。余りは返します」
オルドは紙片へ目を落とした。
「自分で直すのか」
「板の状態と交換範囲は確認できます。ただ、既存の屋根に合わせて加工する技術がありません」
「できないことは、先に言うほうがましだ」
オルドは倉庫の奥へ入り、積まれた材を確認した。しばらくして、薄い屋根板を八枚だけ運んでくる。
「貸せるのはこれだけだ。冬支度に回す備蓄材には手をつけん」
「十分です」
「十分かどうかは、職人が決める」
オルドは板の端を指で弾いた。
「谷に木工職人がいる。灰樫の家の屋根へ手を入れるなら、その者に見せろ。お前の目が何を拾ったにせよ、谷の湿気まで知っているとは限らん」
「紹介していただけますか」
「話は通しておく。引き受けるかは本人次第だ」
オルドはレントへ板を渡した。
「私的な補修に限る。家の外へ余計な手を広げるな、レント殿」
「分かっています、オルドさん」
「期待は、雨が止まってからだ」
昼前、灰樫の家の前へ一人の女性が来た。
肩に工具袋を掛け、片手には短い梯子を持っている。濃い色の髪を作業の邪魔にならないよう束ね、家へ近づくなり屋根を見上げた。
「オルドさんに聞いた。屋根板が六枚傷んでるって?」
「はい。中を見てもらえますか」
女性は入口で泥を落としてから家へ入った。
「先に名乗るよ。ミレナ・フォルク。木工をしてる」
「レント・アサギです。よろしくお願いします、ミレナさん」
「話は屋根を見てから」
ミレナは寝室の桶と濡れた床を確認し、すぐ屋根裏へ上がった。
レントは記録を広げる。
「綻び視で確認したところ、割れた板より、重なりのずれから水が入っています。ここから梁を伝って――」
「それは後で聞く」
ミレナは天井板へ指を当て、湿り方を確かめた。梁の側面を見てから、屋根板の裏へ細い木片を差し込む。
「外も見る」
梯子を掛ける位置を何度か変え、地面の沈みが少ない場所を選ぶ。屋根へ上がったミレナは板の反りを一枚ずつ確かめ、重なりへ指を差し入れた。
下から見守るレントへ、短く問いかける。
「廃材を当てるつもりだった?」
「厚みが合えば、と考えました。ただ、手元の板では合いませんでした」
「合ってもやめたほうがいい。古い板を内側から当てると、ここじゃ湿気が抜けない。水を止めても、板の裏が腐る」
ミレナは屋根から降り、借りた屋根板を並べた。
「傷んだ板を外して、同じ流れになるよう削る。上から来た水を横へ逃がさず、下へ流す重なりにする」
「交換範囲は六枚で足りますか」
「五枚は交換。隣の一枚は留め直す。全部外すより、そのほうが傷みを広げない」
レントが見つけた範囲と、ミレナの判断は少し違っていた。
だが、綻び視が示す線を見直すと、留め直す一枚には深い腐食がない。重なりがずれているだけだった。
「その方法でお願いします。俺には加工できません。手を貸してもらえますか」
ミレナは屋根板を一枚持ち上げ、木目を見た。
「見つけただけじゃ直ったことにはならないよ。足場と外す順番は任せる。板は私が合わせる」
レントは梯子の脚元を板で支え、荷重が一点へ集まらないよう固定した。綻び視で屋根の弱い箇所を確認し、踏んでよい位置をミレナへ示す。
ミレナはその言葉を鵜呑みにはせず、自分の足で板の沈みを確かめてから移動した。
古い屋根板を外す音が家へ響く。
ごとり、と床下の奥で何かが動いた。
二人が作業を止めると、それきり静かになる。
後で寝室へ戻ると、壁際の床に乾いた土が少しこぼれ、細かな引っかき跡が残っていた。昨日、物音を聞いた場所とは違う。
「何かいるの?」
「床下に小さな獣がいるようです。姿はまだ見ていません」
「屋根の音で奥へ逃げたんだろうね」
ミレナは床へ手を入れず、土の跡から距離を取った。
「今は追わないほうがいい」
「そのつもりです」
二人はそれ以上、床下の何かへ注意を向けなかった。
削られた屋根板は、古い板の形へ一枚ずつ合わせられていった。ミレナが木目に沿って刃を動かすたび、薄い削り屑が足元へ落ちる。
レントは外した板を受け取り、再利用できる部分と腐った部分を分けた。取り付け位置を確認し、重なりの下へ水が入り込まないかを何度も見直す。
最後の一枚を留めると、ミレナは屋根の上から言った。
「水を流して」
レントは桶へ汲んだ水を少しずつ屋根へ流した。
水は板の表面を伝い、重なりに沿って下へ落ちる。横へ染み込む様子はない。
屋根裏へ戻り、二人で天井板を見上げる。
一滴も落ちなかった。
レントは桶をどけ、濡れた床を布で拭いた。寝床の古布も広げれば乾かせる。小部屋にはまだ湿った匂いが残っているが、雨を待つたび荷物を抱えて移動する必要はなくなった。
「止まりました」
「寝室の上だけね。屋根全部が直ったわけじゃない」
「分かっています。それでも助かりました」
ミレナは返事をせず、屋根裏の奥へ目を向けた。
煙突の周囲だけ、木材の色が不自然に黒い。
レントも綻び視を向ける。煤の向こうに細いひびが走り、その一部は煙突の内側へ続いていた。内部には濃い詰まりも残っている。
火を入れれば、煙が漏れる。
熱がひびを広げれば、周囲の木へ影響する可能性もあった。
「かまどは使ってないね?」
「まだ一度も」
「なら、そのままにして。煙突を見ないうちは駄目」
レントは頷いた。
寝室の雨は止まった。
けれど、灰樫の家で温かい火を使えるようになるには、まだ別の綻びを直さなければならなかった。




