【第1話】 灰樫の家
山に囲まれた谷へ入ってから、空気の匂いが変わった。
湿った土と枯れ草、それに薪の煙。細い道の左右には畑と家が点在していたが、どこも人の気配は薄い。閉じた雨戸、傾いた柵、使われていない小屋。静かというより、音を出す人が減った場所の静けさだった。
レント・アサギは、少し先を歩く老人の背を追った。
異世界へ来てから、まだ日が浅い。定住できる場所もなければ、まともな生活道具もない。頼れるのは、自分の目に宿った綻び視と、前の世界で身につけた点検の習慣くらいだった。
老人は振り返らずに言った。
「先に名乗っておこう。オルド・メイゼンだ。この谷の雑事を預かっている」
「レント・アサギです。案内していただいて、ありがとうございます。オルドさん」
「礼は住み続けてからでいい。ここはフィルネ谷だ。来る者より、出ていく者のほうが多い」
低い声に、歓迎の響きはなかった。
レントは周囲を見回した。谷底を流れる細い川、その向こうに並ぶ家々。屋根板の一部が沈み、石積みの壁には苔が広がっている。すぐに綻び視を使わなくても、手入れが追いついていないことは分かった。
「俺は、短期滞在者として扱われるんですね」
「今のところはな。冬を越しても残る者かどうか、まだ誰にも分からん」
オルドの言葉は厳しいが、追い返そうとしているわけではない。ただ、限られたものを気軽に渡せないのだ。
やがて集落の家並みが途切れ、道の先に一軒の古い家が見えた。
木と石を組み合わせた二階のない家だった。屋根はところどころ色が変わり、片側の雨樋は外れている。扉は傾き、脇の物置には蔓が絡んでいた。
「ここだ」
オルドは入口の前で立ち止まった。
「谷外れの古い空き家、と聞いていましたが」
「灰樫の家と呼ばれている。昔、灰色の樫材を多く使って建てたらしい。今残っている材がどれほどあるかは知らんがな」
オルドが鍵を差し込み、重い扉を押した。軋んだ音とともに、冷えた空気が外へ流れ出す。
「共同井戸は来た道の途中だ。水汲みの順は決まっていないが、桶を置いたままにするな。交換所は谷の入口にある。物を受け取るなら、銅貨か、相応の品か、作業で返す」
「分かりました」
「火を使うなら消し残しを確認しろ。煙突は長く使われていない。借りた資材は余りまで返すこと。共同井戸や橋、水路には勝手に手を入れるな」
レントは最後の言葉に目を上げた。
「傷んでいても、ですか」
「傷んでいるからこそだ。誰か一人の判断で触れば、使っている全員に影響が出る」
もっともな話だった。
「灰樫の家の中は、俺が直しても?」
「倒して隣へ迷惑をかけない範囲ならな。使える材を共同倉庫から持ち出すときは、先に私へ言え」
「必要な量と用途を伝えます」
「勘定に入れておこう」
オルドは家の中を一度見渡したが、奥へ入ろうとはしなかった。
「期待は仕事が済んでからだ、レント殿」
それだけ告げると、彼は来た道を戻っていった。
足音が遠ざかり、灰樫の家に静けさが戻る。
レントは入口に立ったまま、ゆっくり息を吐いた。
「まず状態を見よう」
意識を集中させると、視界の中に細い線が浮かび上がった。
綻び視。
物や建物に生じた劣化、亀裂、荷重の偏り。それらが、色の違う筋や濁りとして見える。
玄関脇の壁には、屋根から続く水染みが縦に伸びていた。天井板の一部は湿気を含み、その上では屋根材がずれている。煙突の内側には濃い詰まりがあり、今すぐ火を焚けば煙が室内へ戻る可能性が高い。
かまどの縁には細かな亀裂が走り、熱を入れれば広がりそうだった。水回りへ続く溝は途中で沈み、板の裏側まで腐食が進んでいる。
床も悪い。
表面が乾いて見える場所でも、その下に赤黒い綻びが何本も走っていた。
見つけることはできる。
だが、綻び視は材木を生み出さない。ずれた屋根板を削る技術も、詰まった煙突を掃除する道具も、重い家具を運ぶ人手も与えてはくれない。
レントは目を閉じ、眉間を押さえた。
少し使っただけで、眼の奥が重くなる。
「全部は無理だな」
諦めではなく、優先順位の確認だった。
今夜、安全に眠れる場所が必要だ。屋根全体も、かまども、水回りも後回しにする。雨が落ちにくく、床が比較的乾いている部屋を一つだけ確保する。
入口から順に調べ、奥の小部屋で足を止めた。
壁際は乾いている。天井の染みも薄い。寝床を置くなら、ここがましだった。
ただし、部屋の中央には大きな古家具が残されていた。
棚と収納を兼ねたような重い木製家具で、片側が沈んでいる。綻び視を向けると、脚の下から床板へ強い赤い線が広がった。
そのまま引けば、床が抜ける。
レントは家具の扉を開いた。中には割れた器、古布、湿った木片が残っている。まずそれらを一つずつ取り出し、軽くする。次に、外れかけた棚板を抜き、背板の釘を慎重に外した。
使えそうな釘は脇へ分け、腐った木片は別に積む。
家具が軽くなってからも、すぐには動かさなかった。
床の安全な部分へ厚めの板を渡し、その上に荷重が逃げるよう位置を調整する。家具をわずかに傾け、板を差し込み、戻す。一度に持ち上げず、少しずつ脚の位置をずらした。
木が軋み、床下で乾いた音がした。
レントは手を止める。
静寂の中、かり、かり、と小さな引っかき音が聞こえた。
床板の下だ。
「何かいるのか」
返事はない。
耳を近づけようとした瞬間、奥のほうで短く物が転がる音がした。それきり、気配は遠のいた。
小さな獣が潜んでいるのかもしれない。
だが、姿も見ていない。床を傷めているのか、ただ隠れているだけなのかも分からない。
レントは床を叩かず、穴を覗き込むこともしなかった。
「今は、こっちを先にする」
家具を分解し、外へ運び出す。最後の枠をどけると、下の床板は端が崩れ、黒く柔らかくなっていた。
レントは周囲の板へ綻び視を使い、体重を預けてもよい場所を確かめる。安全な板へ膝をつき、腐った部分だけを外した。
床下から冷たい土の匂いが上がってくる。
再利用できそうな板を家の中から集め、一本ずつ状態を見る。端が腐っていても、中央が乾いているものは切り分ければ使える。割れが荷重方向へ伸びている板は避け、比較的ましな二枚を選んだ。
加工道具が足りないため、完全には合わせられない。
それでも、穴の縁へ力が集中しないよう板を渡し、上から別の板で仮留めする。踏み抜かないための応急処置としては十分だった。
作業を終えた頃には、外の光が傾いていた。
壁際へ古布を重ね、その下に乾いた板を敷く。荷物を枕代わりに置き、入口までの動線をもう一度確認する。
家全体は、まだ壊れたままだ。
煙突は使えず、かまどにも火は入れられない。水回りも屋根も手つかずで、床下には正体の分からない何かがいる。
それでも、一晩眠れる場所はできた。
レントは壁へ背を預けた。
誰かの点検報告へ印をつけて終わるのではない。自分で見つけた危険を、自分の手で減らした。その結果が、目の前に残っている。
小さなことだったが、胸の奥に静かな安堵が広がった。
夜半、屋根を叩く雨音で目を覚ました。
暗闇の中、ぽつり、と水滴が落ちる。
レントは身を起こした。寝床から少し離れた床に黒い点ができ、すぐ次の雫が重なった。天井の染みはじわじわと広がっている。
幸い、寝床までは届いていない。
だが、このまま雨が続けば、乾いた一室も長くは保たない。
レントは暗い天井を見上げた。
綻びは見える。危険な場所も分かる。
けれど、屋根へ上がる足場も、土地の木材を扱う技術も、自分にはない。
オルドが話していた木工職人。
まずは、その人へ頼る必要がある。
雨粒がまた一つ、床へ落ちた。
レントは水音を聞きながら、灰樫の家で迎える最初の夜を過ごした。




