【第22話】見えないまま進まない
橋の上には、朝の冷えがまだ残っていた。
前日に組んだ橋脚まわりの石は崩れておらず、木枠の隙間から水が細く抜けている。だが、上部へ目を移せば、仮板の下には傷んだ梁と古い接合部が残ったままだった。
ミレナは床板を一枚ずつ踏み、沈み方を確かめている。ガルドは橋の端へ道具を並べ、錆びた金具を布で拭った。岸ではオルドが住民を呼び分け、運搬と橋上作業の人数を整えていた。
「材を持つ者は岸までだ。橋へ上がるのは呼ばれた者だけにしろ」
オルドはレントへ顔を向けた。
「それから、お前は端から端まで一息に見るな。区切れ」
「分かっています」
答えたとき、目の奥には前日の鈍い痛みが残っていた。
眠れば消えると思っていたが、完全には引いていない。それでも橋脚の作業は終わった。次は梁と床板の交換順を決めなければならない。
レントは橋の手前から、最初の梁へ視線を向けた。
「まず、この辺りだけ見ます」
「本当に、その辺りだけにしてよ」
ミレナは仮板の留め具を確かめながら言った。
レントは綻び視を開いた。
木目の上へ淡い筋が浮かぶ。床板の割れ、梁端の潰れ、金具の周囲へ集まる力の偏り。近い範囲だけなら、まだ輪郭は明瞭だった。
一本目、二本目と状態を追う。
しかし、交換する順を決めるには、隣の梁とのつながりも見なければならない。一本だけ替えて荷重が移れば、その先が傷む可能性がある。
レントは視線を少し先へ伸ばした。
さらに、その次へ。
橋の中央から向こう側まで、綻びの筋が一度に浮かび上がった。
無数の細い光が木部と金具を渡り、重なり、揺れた。こめかみが強く脈打つ。川面の反射が視界へ入り込み、白い膜のように広がった。
「レント、どこまで見てる」
ミレナの声がした。
「全体の順番だけです。すぐ終わります」
返事が自分でもわずかに遅れたと分かった。
梁を一つずつ分類する。
交換が必要なもの。補強で残せるもの。金具だけ替えるもの。
中央より少し岸側にある一本は、綻びの筋が薄かった。表面の傷みはあるが、荷重を受ける部分には大きな線が見えない。
「この梁は、急いで替えなくてもよさそうです」
レントは印を付けようとした。
「待って」
ミレナの声が短く落ちた。
彼女はレントの手ではなく、顔を見ていた。
「こっちを見て」
言われた方へ目を向けたが、ミレナの輪郭が一瞬二重になった。
「焦点が合ってない」
「少し揺れているだけです。休めば――」
「その前に、この梁」
ミレナは問題の梁へしゃがみ込み、表面の汚れを削った。暗い木肌の中に、わずかに色の沈んだ部分が現れる。
「ここだけ湿り方が違う」
柄の短い工具で、梁の側面を軽く叩く。
乾いた音ではなかった。内部へ吸い込まれるような鈍い音が返った。
ミレナは位置を変え、もう一度叩いた。隣は硬く響く。だが、レントが安全側へ分けかけた部分だけ、音が重かった。
「中が傷んでいるかもしれない。表面から見える範囲じゃないよ」
レントはもう一度綻び視を向けようとした。
「見るな」
ミレナが立ち上がった。
「全員、橋から下りて!」
橋上にいた住民が動きを止める。
「道具は置いていい。岸へ戻って。ガルドさんも一度下りて」
声は大きくなかったが、迷いがなかった。
オルドもすぐに杖を上げた。
「聞こえた通りだ。順に下りろ。押すな」
住民たちは資材をその場へ置き、仮板を確かめながら岸へ戻った。ガルドも金具を持たず、足元だけを見て橋を渡り切る。
最後にミレナが下りると、橋上から人の重さが消えた。
「少し休めば、もう一度確認できます」
岸へ戻ったレントは言った。
「今なら、見落とした場所を――」
「見えていない状態で続ける方が危ない」
ミレナは言葉を重ねなかった。
「一本を安全だと言いかけた。その一本の上へ人を乗せるつもりだったんだよ」
レントは反論しかけ、口を閉じた。
梁の上には交換用の材を運ぶ予定だった。住民が二人、重さを分けて通る。もし内部の劣化が進んでいれば、床板ごと沈む可能性がある。
岸側で待っていたポルが、レントの作業靴へ寄ってきた。
「ぷる」
レントが立ち上がろうとすると、ポルは前脚を靴先へ乗せた。
「ポル、まだ戻らない」
横へ足をずらすと、ポルも動き、また靴先へ触れる。
胸を張るでもなく、ただ足元へ丸く座り込んだ。
ガルドは橋の手前に置かれた接合金具を見た後、自分の道具箱を岸へ引き寄せた。
「俺もレントの判定を先に置きすぎたな」
外した金具を一つ取り、錆を削る。
「梁が残せるなら、ここは後でいいと思っていた。全部見直す」
ガルドは木片へ線を引き、緩み、錆、打ち直しの要否を順に記し始めた。
オルドは集まった住民を見回した。
「今日の橋上作業はやめる」
落胆した顔がいくつか上がったが、オルドは声を変えなかった。
「中止は遅れではない。事故を出さないための工程変更だ。運んだ材は雨に濡れない場所へ移す。二人は仮板の見張り、残りは岸の資材整理へ回れ。橋の利用制限もそのままだ」
「明日は再開するのか」
「決めるのはレントの目が戻り、梁と金具を調べ直してからだ。期待は確認が済んでからにしろ」
住民たちは橋へ戻らず、それぞれ別の作業へ散っていった。
レントは乾いた地面へ座り、目を閉じた。
白い滲みはゆっくり薄れたが、梁を安全だと分類しかけた感覚だけが残った。見えなかったのではない。見えているつもりで、誤った。
やがて目を開けると、ミレナとガルド、オルドが少し離れた場所で橋を見ていた。
「ミレナさん、ガルドさん、オルドさん」
三人が振り返る。
「すみませんでした。あのまま進めていたら、交換すべき梁を残していたかもしれません」
「かもしれない、では済まんところだったな」
オルドの声は低いままだった。
「はい」
レントは否定しなかった。
「点検の方法を変えます。橋を短い区画に分けて、一つ見たら記録を残します。私の確認だけで安全側へ分けず、ミレナさんの目視と打音、ガルドさんの金具確認が終わるまで次へ進みません」
ミレナは腕を組んだ。
「休みは」
「区画ごとに入れます。痛みや視界の揺れが出た時点で、その日は中止します。続けられるかどうかを自分だけで決めないようにします」
「記録役も要るな」
ガルドが木片を持ち上げた。
「俺が金具を見ながら書くことはできるが、木部まで同時には追えん」
「橋へ上がらない者を一人、記録に回そう」
オルドが答えた。
「確認済みの区画と、途中で止めた区画が混ざらん形にする。再開日は今日決めない」
「分かりました」
四人は橋をいくつかの短い範囲へ分け、確認の順を決めた。レントが状態を見る。ミレナが木部を確かめる。ガルドが接合部と金具を見る。記録が揃ってから、次の区画へ移る。
異変が出れば即座に橋上から下りる。その判断に反対して作業を続けない。
橋は直らなかった。
だが、直すために守るべき順序は、前より明確になった。
灰樫の家へ戻る支度を始める頃には、川辺の光も傾いていた。
ミレナは道具をまとめ、片手で木槌を持ち上げた。すぐに反対の手へ持ち替える。
少しして、鋸も同じように持ち替えた。
「ミレナさん」
「何」
「手を痛めていますか」
ミレナは一度、道具袋へ視線を落とした。
「大したことじゃない。昨日、枠を押さえすぎただけ」
そう言って袋を持ち上げたが、指がわずかに止まった。
レントはその動きを見逃さなかった。
「今日は私が持ちます」
「休む人間が持つ量じゃないよ」
「では、住民に戻してもらいます。少なくとも、ミレナさんが全部持つ必要はありません」
ミレナは返事をせず、道具袋を地面へ戻した。
ポルが二人の間で鼻を動かし、袋の横へ座る。
レントはまだ重い目の奥を押さえながら、ミレナの手を見た。
止められた自分だけが、無理をしていたわけではない。
次に作業へ戻るときは、見える傷みだけでなく、隣で道具を持つ手の動きも確かめなければならないと思った。




