【第17話】水場の足元
共同井戸の水面は、昨日つけた印よりもさらに指一本分ほど上がっていた。
朝早くから集まった住民たちは、井戸枠を覗き込み、桶が水へ届く音を聞くたびに表情を緩めた。汲み上げた水には目立つ濁りもなく、セラが板へ量と時刻を書き留めている。
「これなら、前みたいに何度も底をさらわなくて済みそうだね」
「まだ汲む量は変えないよ。昨日より増えたからって、一日で元通りにはしない」
先を争いかけた者へセラが声をかけると、列は井戸の周りへゆるく伸びた。
喜びの声が増える一方で、足元では別の変化が進んでいた。
桶からこぼれた水が井戸枠の外側を伝い、低い場所へ集まっている。昨日までは表面が湿る程度だった土が、何人もの靴に踏まれて粘り始めていた。
列の先頭にいた住民が桶を持ち上げようとして足を滑らせた。隣の者が腕を支え、転倒は免れたものの、桶の水は半分ほど泥へこぼれた。
「止まってください」
レントは井戸へ近づこうとした者たちへ手を上げた。
「水は汲めます。ただ、このまま人数が増えると、井戸枠より先に足元で怪我が出ます」
「昨日までは水が足りず、今日は水が多くて困るか」
オルドが泥へ沈んだ靴跡を見下ろした。
「期待する暇がないな」
「使える水場にするには、ここまで見ないと駄目です」
レントは列をいったん下げてもらい、井戸の周囲を歩いた。
綻び視を使うと、石と木を組み合わせた井戸枠には細かな傷みがいくつも浮かんだ。桶の縄が擦れる上端、濡れた手をつく側板、地面に近い木部。すぐに崩れるほどではないが、水を吸い続ければ傷みは早まる。
しかし、今もっとも危険なのはそこではなかった。
井戸の正面には人が集中し、汲み上げた桶を足元へ置くため、同じ場所へ何度も水がこぼれている。待つ者もその後ろへ並ぶため、泥を避けようとして井戸枠の横へ回り込み、狭い場所ですれ違っていた。
排水、足場、井戸枠。
三つとも直す必要はある。だが、同時に手をつければ井戸を使えなくする時間が長くなる。
「まず水の逃げ道です。次に、汲む人が立つ足場と桶を置く場所。井戸枠は今日傷みを確認して、危険な部分だけ仮に押さえます」
「枠を先に直さなくていいのかい」
セラが尋ねた。
「今の傷みなら、急に外れる状態ではありません。先に足元を乾かさないと、補修している間にも誰かが滑ります」
ミレナは井戸の正面へしゃがみ、泥の深さを指で確かめた。
「足場を置くなら、このまま板を並べるだけじゃ沈むね。水の通り道を決めてから、受けを作った方がいい」
ポルが二人の間を抜け、ぬかるみの縁へ鼻先を寄せた。
湿った土を前脚で一度叩く。
ぽふっ。
少し右へ移り、もう一度。
ぽふっ。
次の場所では耳を伏せ、鼻先を土へ押しつけたまま動きを止めた。
「ポル、探して」
レントが浅い窪みの先を指すと、ポルは泥へ入らず、乾いた縁を回り込んだ。古い溝らしい筋に沿って数歩進み、途中で前脚を短く二度動かす。
その下から、空いた器を叩いたような鈍い響きが返った。
「空洞があるのかい」
「浅いものだと思います。大きさまでは分かりません」
レントは棒で土を軽く突き、音の変わる範囲を確かめた。埋まった溝の下に、土で塞がれきっていない隙間が残っているらしい。
綻び視で地表の傷みと水の偏りを見る。井戸から溢れた水は、その浅い空洞の手前で広がり、土の柔らかい場所へ染み込んでいた。隙間の先は井戸から離れる方向へ続いているが、完全につながっているかは分からない。
「ここを全部掘り返す必要はありません。空洞の上を薄く開いて、水が通る幅だけ戻します」
「崩れたら埋め直せるよう、短い区間ずつだね」
ミレナが答える。
「ポル、そこはもういい。濡れた場所へ入るな」
レントが手のひらを下へ向けると、ポルは泥の縁で鼻を鳴らし、少し不満そうに毛を揺らした。それでも前へは出ず、乾いた石の上へ移った。
住民が鍬と木べらを持ち寄り、古い溝を少しずつさらった。深く掘らず、土の色と硬さが変わるたびに手を止める。
やがて、埋まっていた石の縁が現れた。その間には落ち葉と細かな泥が固まり、水を塞いでいる。
「石は動かしません。詰まりだけ外してください」
泥を掻き出すと、溜まっていた水が細い筋となって流れ始めた。
最初は濁っていたが、井戸から離れるにつれて筋が定まり、足場予定地の水がゆっくり引いていく。
「これなら載せられる」
ミレナは運ばれてきた板材を見比べ、濡れる場所へ置く材を選んだ。
長い板を一枚で渡すのではなく、短い板を数枚並べ、その下へ横木を通す。表面には浅い溝を刻み、靴底が滑りにくいよう整えた。端は木栓で留め、傷んだ板だけを外せる形にする。
「水に触れるところは先に傷む。全部組み直す形だと、次に面倒だからね」
「桶を置く台も同じ構造にできますか」
「脚まで一体にすると腐ったとき困る。上板と脚を分けるよ」
レントが人の動きを見ながら位置を示し、ミレナが板を仮置きする。
井戸の正面には汲む者一人が立てる足場を置き、その横へ桶台を寄せる。待つ者は泥の少ない側へ並び、汲み終えた者は反対側へ抜ける。狭い井戸周りで向かい合わずに済むよう、出入りの方向を分けた。
「この位置だと、背の低い子は縄を引きにくいね」
セラが足場へ立ち、井戸枠へ手を伸ばした。
「こっち側を少し前へ出せないかい。年寄りも、枠へ体を寄せすぎずに済む」
ミレナは足場の前板をずらし、横木の位置を変えた。
「これ以上出すと端へ重さがかかる。代わりに、ここへ手を置ける板を足そう」
「井戸枠そのものへ寄りかからなくて済みますね」
レントは綻び視で力の偏りを確認し、支えの位置を一本分だけ内側へ直した。
午後には、足場と桶台が形になった。
住民が一人ずつ試す。濡れた靴でも板の溝が踏ん張りを受け、桶を地面へ置かずに水を移せる。汲み終えた者が横へ抜けるため、次の者とぶつかることもなかった。
「列は今まで通り、朝と夕方で分ける」
オルドは集まった住民を見渡した。
「だが、汲み場の掃除は使う家で回す。泥を溜めれば、また同じことになる。溝の落ち葉を除く日も決める」
「高齢の家だけに重い仕事を回さないでおくれよ」
セラがすぐに言った。
「子どもが水を汲む家もある。板の上の泥を払うくらいならできるけど、溝さらいは大人がつかないと危ない」
「勘定に入れておこう。家ごとの人数で分ける。できない分は別の作業と替える」
話し合う声のそばで、ポルが排水の筋を追っていた。
乾いた縁を進んでいたはずが、桶から跳ねた水をまともに受けたらしい。戻ってきたときには背の毛が濡れ、丸い体がさらに大きく膨らんでいた。
「くるる……」
ポルは足場の下へ入ろうとして、濡れた前脚を見下ろした。
「そこへ入ると泥が残るよ」
ミレナは追い払わず、端材を二枚並べて乾いた場所への道を作った。横には浅い器を置き、きれいな水を少しだけ入れる。
「ポル、こっちで足を洗える」
レントが指すと、ポルは器へ鼻を寄せた。前脚を片方だけ入れ、すぐに引っ込める。水滴を飛ばし、今度はもう片方を入れた。
ミレナは布を差し出したが、体へ押しつけず、板の上へ置いた。
しばらくすると、ポルは自分から布へ腹を擦り、濡れた毛を整え始めた。
「働いた分まで泥を持ち帰るつもりだったみたいですね」
「工房の床を洗う仕事は頼んでないよ」
ミレナの声に、ポルは耳だけを動かした。
夕方、井戸の周囲に残る泥は朝よりも薄くなっていた。排水の筋には水が流れ、足場の下へ溜まらず外へ抜けている。
レントは井戸枠の傷んだ箇所、交換できる足場板、桶台の木栓、排水溝の入口を記録した。
「水場としては使えます。ただ、溝が埋まればまたぬかるみます。板も濡れ続ければ傷みます」
「直した後の方が、決めることは増えるものだな」
オルドは清掃当番を書き始めた板を見た。
「ですが、傷む前に手を入れられます」
「なら、その見方も住民に覚えてもらう必要がある」
井戸では、最後の一人が桶を台へ置き、水を容器へ移していた。
足元は沈まず、後ろで待つ者も急かさない。流れ出た水は細い溝へ入り、夕暮れの光を揺らしながら井戸から離れていく。
水が戻っただけではない。
汲む場所が整い、使った後に誰が手を入れるかまで話し合われて、ようやく暮らしの中へ戻っていく。
レントは新しい水位の印を確かめ、記録紙を閉じた。




