【第18話】井戸を守る手
共同井戸の足場には、朝から濡れた靴跡がいくつも重なっていた。
短い板を組み合わせた足場は沈まず、桶台も昨日と同じ位置で水を受けている。汲み終えた者が横へ抜け、次の者が前へ出る流れも、すでに住民の動きへ馴染み始めていた。
「前よりずっと楽になったよ」
水を容器へ移した住民が、桶台の上板を軽く叩いた。
「これからもレントに見てもらえば安心だな。溝が詰まっても、板が傷んでも、すぐ分かるだろう」
周囲で何人かが頷く。
レントは井戸枠へ伸ばしかけた手を止めた。
頼られること自体は嬉しかった。直したものが使われ、その先まで任せたいと思ってもらえる。それは、前の暮らしでは得られなかった実感でもある。
だが、井戸を使う者は毎日ここへ来る。レントが確認できるのは、そのうちのわずかな時間だけだった。
「俺が時々見るだけでは足りません」
住民たちの顔が、少し意外そうに向く。
「大きな傷みを調べることはできます。でも、落ち葉が溝に溜まった日や、滑車の音が変わった瞬間に、俺がここにいるとは限りません」
「では、誰が見る」
オルドが井戸脇の記録板を抱えたまま尋ねた。
「使う人が、気づける形にしたいです。難しい修繕をしてもらうんじゃありません。いつもと違うところを見つけて、早めに知らせてもらうんです」
レントは板の空いた面へ、炭で三つの印を書いた。
井戸枠。滑車。排水溝。
「枠は、手を置いたときにぐらつかないか。縄が擦れる場所の木が欠けていないか。滑車は、回したときに引っかかる音が増えていないか。排水溝は、水が途中で広がらず、井戸から離れる方へ流れているか」
「水を汲むついでに見られる程度だな」
オルドが印を目で追う。
「はい。分からなければ触らず、板へ印を残してください」
「触らず、というのが大事だね」
ミレナが足場の端へしゃがんだ。
彼女は上板の一枚を指で押し、次に木栓の周囲を爪先で軽く示した。
「木は濡れたからすぐ駄目になるわけじゃない。押して沈む、表面が毛羽立つ、端が黒く柔らかくなる。そういう変化が出たら、上から板を足したり、釘を増やしたりしないこと」
「留めれば持つんじゃないのか」
一人が尋ねると、ミレナは首を横へ振った。
「傷んだ場所へ留めても、下まで弱っていれば一緒に外れるよ。交換できるように木栓で組んである。抜き方が分からないなら工房へ持ってきて。ここで無理に直さない」
彼女は乾いた端材と、水を吸って柔らかくなった古材を並べた。住民が順に指で押し、硬さの違いを確かめる。
「見た目が似ていても、こっちは爪が入る」
「音も違うな」
「叩きすぎると余計に傷むから、確かめるのは軽くでいい」
ミレナの言葉に、伸びていた手がすぐ止まった。
レントはその様子を見ながら、井戸枠に浮かぶ細かな綻びから意識を外した。
「綻び視なら、表から見えにくい傷みも確認できます。ただ、毎日の変化まで能力任せにはできません。音や手触りを覚えている人の方が、早く気づけることもあります」
「修繕屋より先に気づいたら、仕事を奪うことになるか」
オルドが低く言う。
「次に困らないなら、その方がいいです」
レントが答えると、オルドはわずかに口元を緩めた。
足元では、ポルが排水溝の縁を忙しなく歩いていた。
鼻先を石へ寄せ、乾いた土を前脚で一度叩く。次の場所では何もせず通り過ぎ、足場の横で立ち止まった。
ぽふっ。ぽふっ。ぽふっ。
短い音が三度続く。
近くにいた子どもが足場へ寄ろうとしたが、レントが手で制した。
「待って。ポル、戻れ」
ポルは耳を伏せながらも、足場から二歩離れた。
レントが棒で地面を確かめると、昨日さらった溝の外側に、桶からこぼれた水が染み込んだ柔らかい場所があった。大きな空洞ではない。ただ、踏み続ければ土が崩れ、溝へ流れ込む可能性がある。
「今の三回は、危ないときの合図です」
「なら、ポルにも当番をさせればいい」
住民の一人が笑いながら言った。
「それはしません」
レントはすぐに答えた。
「ポルが知らせることはあります。でも、全部分かるわけではありませんし、危険な場所へ入らせるつもりもありません」
ミレナも頷く。
「見つけたら助かる。それ以上は人が確かめる。小さいのに任せて、こっちが見なくなったら意味がないよ」
ポルは話の内容までは分からないまま、レントの靴の近くへ戻り、得意げに胸を二度叩いた。
「見張り役くらいなら、勘定に入れてもよさそうだな」
オルドが言う。
「正式な担当には入れない。ただし、三回叩いたら近づかず、レントかミレナを呼ぶ。それでどうだ」
住民たちは異論なく頷いた。
昼までに、オルドは清掃、簡単な点検、水量記録の三つへ役割を分けた。
家ごとに人数と日々の仕事が違うため、同じ作業を順番に回すだけでは偏りが出る。溝さらいが難しい家は足場の泥払いを担当し、重い桶を扱えない者は記録板を見る。子どもだけで溝へ近づかないことも加えられた。
「毎日全部やらせれば、三日で誰も見なくなる」
オルドは名前を書き込みながら言った。
「掃除は使った後。細かな点検は朝と夕方に一度。水量は決めた時刻だけでいい」
「記録はもっと簡単にしよう」
セラが炭を受け取り、水位を書く欄を作り直した。
「水面が印より上なら丸、同じなら横線、下なら下向きの印。濁りがあったときだけ、その横へ点を打つ。字を書かなくても続けられる」
「時刻はどうする」
「朝と夕方で板を分けるよ。どちらか見れば間違えない」
高齢の住民が試しに印を入れ、少し離れて確認した。
「これなら見える」
「昨日より下がった日が続いたら、汲む量を増やさない。そこは今まで通りだよ」
セラが念を押すと、記録板は井戸を使う者たちの間を一巡した。
午後には、最初の当番が実際に足場の泥を払い、排水溝の入口から落ち葉を拾った。別の者が滑車をゆっくり回し、縄の擦れる音を聞く。記録役は水面と印を見比べ、夕方の欄へ丸をつけた。
レントは少し離れた場所から、その流れを見ていた。
誰も綻び視を使えない。木工の知識も、修繕の経験も同じではない。それでも、見る場所と止める基準が決まれば、異常を放置しないことはできる。
「手を出したそうな顔だね」
隣に立ったミレナが言った。
「排水溝の端が少し崩れています」
「当番の人も気づいたよ。今、板に印をつけてる」
見ると、住民が崩れた場所を触らず、記録板の井戸枠とは別の欄へ炭の線を引いていた。
「本当ですね」
「全部自分で見つけなくても、壊れたことにはならないよ」
ミレナはそれだけ言うと、桶台の木栓を一度確かめ、住民へ場所を譲った。
作業が終わる頃、井戸の近くには湯気の立つ鍋と皿が持ち寄られていた。
豆と根菜の煮込み、焼いた白芋、固焼きパン。井戸水で煮た料理からは、土と木の匂いに混じって、温かな香りが広がっている。
レントは椀を受け取り、足場の上で水を汲む住民を見た。桶は台へ置かれ、こぼれた水は細い溝を流れていく。その横では、次の清掃当番が板の泥を布で拭っていた。
直した場所が使われている。
そして今は、使う者たちの手で守られ始めている。
「食べないと冷めるよ」
ミレナに促され、レントは椀へ口をつけた。
少し薄い味だったが、作業の後にはちょうどよかった。ポルは二人の足元で炒り豆を一粒受け取り、前脚で抱えて齧っている。
「期待は仕事が済んでからだと言ったが」
記録板を立て終えたオルドが、煮込みの椀を手に近づいてきた。
「これは、済んだことにしてもよさそうだな」
「始まったばかりです」
レントは記録板を見た。
「ですが、俺一人で続けるより、長く使えると思います」
「なら、抱え込む分を一つ減らしたと勘定に入れておこう」
食事の後、取水路の修繕で使った道具と資材の数を確認するため、住民たちは荷車のそばへ集まった。
荷台には余った板と空の縄籠が残っている。レントが車輪へ手をかけると、外周の木部に細い割れが走り、車軸の近くには片側だけ強く擦れた跡が見えた。
荷車を少し押す。
ごとり、と車輪が一度沈み、同じ位置で鈍い音を立てた。
ミレナがしゃがみ込み、割れ目を指でなぞる。
「これで取水路まで何度も運んだのか」
「帰りは軽かったから、持ったんだろう」
オルドの声が低くなる。
レントは綻び視で車輪の傷みを追い、すぐに手を離した。
「今すぐ外れる状態ではありません。ただ、このまま重い資材を積むのは避けた方がいいです」
井戸の記録板では、夕方の水位を示す丸印が新しく増えていた。
その横で、荷車の車輪がもう一度、小さく軋んだ。




