【第15話】流れを取り戻す手順
作業日の朝、古い取水路の入口には、板、縄、桶、籠、手鍬が並べられていた。どれも同じ形ではなく、各家で使われてきた傷や補修跡が残っている。
オルドは集まった住民を斜面の下へ並ばせ、紙に書いた名を確かめながら役割を告げた。
「入口の周りへ入る者は三人までだ。泥を受け取る者は足場の下。運ぶ者は排土場所との往復。道具を使ったら、勝手な場所へ置かずここへ戻せ」
少し離れた共同井戸では、朝の水汲みが続いていた。セラは作業用の水差しと布に包んだ固焼きパンを並べながら、井戸へ向かう者と斜面へ向かう者を見分けている。
「飲み水はこっち。泥のついた手を洗う水は別だよ。井戸の桶へ手を入れないでおくれ」
レントはミレナとともに、前日に組んだ仮設木枠を確認した。上部の石を持ち上げるのではなく、崩れる方向を外から押さえる形で板材が組まれている。斜面へ敷いた二列の板も、夜露で滑っていない。
「支えは動いていません」
「縄も緩んでない。始められるよ」
ミレナが結び目を引いて答えた。
足元では、ポルが人々の靴の間を落ち着きなく見回していた。籠を置く音がするたびに毛を膨らませ、レントの作業靴の横へ戻ってくる。しばらくすると斜面脇の根元にある浅い穴へ入り、鼻先だけを外へ出した。
「無理に出てこなくていい」
レントが低く言うと、ポルは鼻を一度鳴らした。
作業は、入口を塞ぐ落ち葉を掻き出すところから始まった。
最初のうちは順調だった。乾いた葉や細い枝が籠へ入り、足場の下へ渡されていく。だが、泥へ届くと運び方がばらつき始めた。
浅い木皿へ泥を載せる者もいれば、大きな桶へ一度に詰める者もいる。入口の右から受け取ろうとする者と、左から上がろうとする者が足場の途中で向かい合い、互いに道を譲ろうとして作業が止まった。
「これは下へ持っていくのか?」
「そこへ置けと言われたぞ」
「いや、排土は向こうだろう」
重い桶を運んでいた住民が、斜面の脇へ一度置いた。続いて別の者も、その近くへ籠の泥を空ける。
積まれた泥は、表面に水を含んでいた。
縁がゆっくりと崩れ、黒い塊が斜面を滑る。敷板の下を抜けた泥は、細い流れとなって入口の前へ戻り、掻き出したばかりの落ち葉を巻き込んだ。
「止めてください」
レントはすぐに声を上げた。
手鍬を動かしていた者が振り返る。後ろで桶を受け取ろうとしていた者も足を止めた。
「全員、一度道具を置いてください。入口へ近づかないで」
声を張り上げたわけではなかったが、斜面にいた者たちの動きが止まった。
戻った泥は入口の手前で薄く広がっている。量は多くない。だが、足場の周囲も濡れ、木枠の根元へ泥水が寄っていた。
「最初に決めた排土場所まで運ぶ手順が揃っていませんでした」
レントはしゃがみ込み、入口の石組みへ視線を向けた。
綻び視を使う。
上部の石には、前日に見た傷みの線が残っている。側壁を押している根も変わらない。だが、泥の表面が削れたことで、下側に埋まっていた小石の輪郭がいくつか露出していた。その中には、単なる崩れ石ではなく、上の荷重を受けているものが混じっている。
目の奥へ痛みが集まり始める前に、レントは視線を外した。
「ここからここまでは、落ち葉と柔らかい泥だけを取ります」
細い棒で地面へ線を引く。
「この石には触れないでください。小さく見えますが、上を支えています。こちらの根も切りません。泥の中に手を入れて引っ張らず、表面から薄く取ります」
住民たちは入口を覗き込もうとしたが、レントは手で距離を示した。
「作業は三段階に分けます。入口で掻き出す人、足場の下で受け取る人、排土場所へ運ぶ人です。一人が最初から最後まで運ばないでください。同じ場所へ戻る人と下りる人が重ならないようにします」
「容器はどうする」
住民の一人が尋ねた。
「入口では小さいものだけに揃えます。重くしません。下で大きい容器へ移してください」
「それでも足場で詰まるね」
ミレナは積まれた板材へ目を向けた。
「運ぶたびに手渡しするから、人が寄りすぎる。レント、入口から下まで泥を滑らせても問題ない位置は?」
レントは石組みと斜面の傾きを確認した。
「木枠の右側は避けてください。左の外側なら、石組みから距離を取れます。足場の間ではなく、さらに外へ出せば大丈夫です」
「分かった」
ミレナは板を二枚選び、地面へ並べた。反りの少ない面を内側へ向け、短い板を底へ渡す。縄で締め、継ぎ目へ薄い木片を当てると、入口から低い位置まで続く浅い樋の形になった。
「泥が重いから、長くしすぎると途中で詰まる。ここで一度受けるよ」
さらに余った板を二本並べ、先端を縄でまとめた。上へ泥を載せる浅い枠を取り付け、引き縄を通す。
「これはそりにする。平らなところまで二人で引けば、桶を抱えて斜面を歩かなくて済む」
ミレナは集まった者たちの手元を見た。小さな手鍬を扱い慣れている者には掻き出しを任せ、大きな籠を持ってきた者には樋の下で泥を受ける役を示す。力のある者だけを入口へ集めず、そりを引く役と押す役に分けた。
オルドは変更された動線を斜面の下から見上げた。
「入口は二人。受け取りは一人。そりは二人一組だ。道具を持ち替える者は、休憩の後で交代する」
名前を呼び、配置を改めていく。
「大きい桶は入口へ持ち込むな。手鍬は三本だけ出す。残りは道具置き場へ戻せ。休憩は一度に全員入るな。半分ずつだ」
「先に休む人はこっちへ」
セラが水差しを持ち上げた。
「飲んだら井戸の列を一度見てきておくれ。作業の人ばかり集まって、生活用の水を運ぶ人がいなくなったら意味がないよ」
乱れていた足場の周りから余分な桶と籠が下げられた。入口へ戻った泥も、決めた線の外から薄く掻き取り、樋の下へ落とされる。
作業が再開すると、人の動きは先ほどより遅くなった。
だが、入口の前に溜まる物は減った。
小さな木皿へ取られた泥が樋を滑り、下の籠へ落ちる。籠が満ちればそりへ移され、二人が縄を引いて排土場所へ運ぶ。戻る者は空のそりを足場の外側へ回し、入口へ向かう者と交差しない。
ポルはしばらく退避穴から出てこなかった。
樋へ泥が落ちる音が一定になると、ようやく穴から這い出し、レントの後ろを横切った。入口には近づかず、石枠の脇にある地面へ鼻先を押し当てる。
ぽふっ。
一度叩き、少し横へ移動する。
ぽふっ、ぽふっ。
低くこもる音に、レントは手を止めた。
ポルは同じ場所へ鼻を寄せたが、斜面の下で住民が声を上げると毛を膨らませ、すぐ退避穴へ戻った。
「何かある?」
ミレナが尋ねる。
「空洞の縁かもしれません。ただ、位置が近すぎます」
レントは綻び視で地面と露出した石の並びを照合した。表面の下には石枠から外れるように空きが続いているが、形も深さも判断できない。周囲の土は根で保たれており、掘れば足元が崩れる可能性があった。
「そこは掘削範囲から外します」
棒を置き、近づかない線を広げる。
「ポルの反応だけでは掘れません。今日は最初の石枠までです」
「それでいい」
オルドは即座に言った。
「決めた範囲を広げる理由にはならん」
昼が近づく頃には、入口を塞いでいた落ち葉の層がなくなり、泥の奥から最初の石枠がはっきり見えるようになった。
細い根は、石を押していないものだけをミレナが短く切った。支えになっている小石の周囲は残し、中央の泥を薄く削る。住民たちは交代しながら同じ手順を繰り返した。
最後に残った泥は、粘りの強い塊だった。
「一度に引かないでください」
レントが言うと、入口の者は手鍬の先で端を削った。薄く剥がれた泥が樋へ落ちる。
その下から、黒い水が滲んだ。
誰も手を伸ばさない。
泥をもう一層だけ取り除くと、石枠の奥から濁った水が細く押し出された。糸のような流れは泥の跡をなぞり、石枠の下を通って入口の外へ現れる。
斜面の下で小さなどよめきが起きた。
「水だ」
「通ったのか?」
レントは流れから目を離さなかった。
最初は濃く濁っていた水が、少しずつ薄くなる。けれど勢いは増えず、しばらくすると細い流れはさらに弱くなった。石の隙間から途切れず滲んではいるものの、井戸を満たす量とはとても言えない。
「ここで終わります」
レントは立ち上がった。
「最初の石枠までは開きました。水も通っています。ただ、奥でまた流れが弱くなっています。別の閉塞が残っている可能性があります」
「今日はそこまでだ」
オルドが住民たちへ向き直る。
「入口へ入らず、触れないと決めた石を動かさず、最初の枠まで開けた。水が出たからといって、勝手に奥を掘るな」
誰かが残念そうに石枠の暗がりを見たが、道具を持ち直す者はいなかった。
セラは空になった水差しをまとめながら、共同井戸の方角を見た。
「井戸の順番は、まだ変えない方がよさそうだね」
「水位を見てからです」
レントは答えた。
「この流れが井戸へ届くかも、どれくらい続くかも分かりません」
ミレナは泥のついた樋を外し、板の歪みを確かめた。
「洗って乾かせば、また使える。そりも縄を替えれば残せるよ」
「共同倉庫へ戻す」
オルドはそう言ってから、入口の前に残った細い水へ視線を落とした。
「期待は、井戸の水位を見てからだ。だが今日の作業は勘定に入れておこう」
住民たちは泥のついた道具を洗浄用の水で順に洗い、借りた物を道具置き場へ戻した。斜面には余分な泥が残らず、入口の周囲には近づいてよい線と、触れてはいけない範囲がそのまま残されている。
ポルは人の声が減ってから退避穴を出た。
入口へ数歩近づき、流れ出た水へ鼻先を寄せる。濁った雫が鼻につくと、驚いたように顔を上げ、前脚で二度拭った。
レントはその様子を見てから、開いた石枠の奥へ目を向けた。
水は戻った。
ほんのわずかに、最初の境目を越えただけだった。
それでも、朝には入口へ戻っていた泥が、今は決められた場所へ運ばれている。ばらばらだった道具と人の動きも、最後には一つの手順として流れていた。
暗い取水路の奥には、まだ見えない詰まりが残っている。
その手前で細く続く水音を聞きながら、レントは今日確かめた範囲を記録紙へ書き留めた。




