【第13話】井戸の向こう側
朝の共同井戸には、水桶を手にした住民が列を作っていた。
滑車が軋み、縄の先の桶が井戸の底へ下りていく。しばらくして引き上げられた桶から水が移されると、次の者はすぐには縄を下ろさず、井戸の中を覗き込んだ。
「まだ待った方がいいよ。さっきも底を擦ったから」
列の先頭にいた女性が声をかける。後ろでは、空の桶を二つ重ねて持った住民が困ったように足を動かしていた。
以前より、一度汲んだ後に水が戻るまで時間がかかっている。
セラは井戸の脇に立ち、折り畳んだ紙をオルドへ渡した。
「昨日、分かる範囲で聞いてきたよ。朝に何桶、昼に何桶、洗い物にどれくらい使っているか」
紙には、家ごとの利用時間とおおよその量が並んでいた。細かな数字ではないが、急に水を多く使い始めた家がないことは見て取れる。
「家畜の水も畑の水も、今までと大きくは変わってない。朝に重なるのは前からだけど、待つ時間は明らかに長くなってる」
オルドは紙を読み終えると、井戸へ視線を移した。
「水がないからと好きに掘られては、残っている水まで使えなくなる」
低い声で言い、レントを見る。
「レント殿。調べるのは構わん。ただし、井戸は止めない。枠を外さない。深く掘らない。今日は周りを見るだけだ」
「分かりました」
レントは井戸の縁から距離を取り、全体を見渡した。
「原因は、まだ断定できません。井戸そのものだけでなく、使われ方も確認したいです」
「何を記録すればいい?」
セラが尋ねる。
「汲んだ時間と回数、それから次に桶を下ろせる程度まで水が戻る時間です。朝だけでなく、利用者が少ない時間も分かると助かります」
オルドは列に並ぶ住民たちへ向き直った。
「聞いたな。今日からしばらく、使った数と待った時間を残す。説明は私がする。勝手に順番を変えるな」
不満そうな顔をする者もいたが、井戸を止められないための調査だと聞くと、住民たちはそれぞれ頷いた。
レントはまず、井戸枠へ綻び視を向けた。
古い木には細かな傷みの線が浮かんでいる。湿気を吸った縁、縄が擦れる箇所、荷重の偏った支柱。滑車の軸にも摩耗があり、回転は滑らかとは言い難い。
だが、どれも汲み上げに余計な力を使わせる傷みではあっても、水位そのものを下げる破損ではない。
「枠と滑車には手入れが必要です。ただ、水が戻りにくい原因とは別だと思います」
「縄が重いから遅く感じるだけじゃないのかい?」
住民の一人が言った。
「それも一部にはあります。でも、桶を下ろした時の水位が以前より低いなら、滑車だけでは説明できません」
レントは縄の濡れた位置を確かめた。昨日まで使われた跡と、今朝の跡を比べても、水位の変化は小さくない。
井戸の内側を覗き込もうとすると、ミレナが枠へ手を置いた。
「そこへ体重をかけないで。支柱の片側が少し弱ってる」
「はい。別の位置から確認します」
ミレナは持ってきた短い材を地面へ並べた。井戸枠へ固定するのではなく、外側に荷重を逃がす形で脚を組み、縄と滑車を横から見られる簡素な足場を作る。
「これなら枠を引っ張らない。乗るのは一人ずつ」
「助かります」
「見つけただけじゃ直ったことにはならないよ。落ちたら調査どころじゃない」
レントは足場の揺れを確かめてから上がった。
滑車の回転、縄の擦れ、桶が水面へ触れるまでの時間を順に見る。ミレナは下から支柱の状態を確認し、セラは汲み上げた時刻を記録した。
昼近くまで調べても、井戸内部に決定的な崩れや亀裂は見つからなかった。
「単純に水が枯れている、とは言い切れません」
足場から降りたレントが言うと、ミレナは井戸の向こう側を見た。
「昔、あっちから水を引いてたって話を聞いたことがある」
「あちらですか?」
「谷側。父じゃなくて、もっと年上の人たちの話だったと思う。井戸だけ掘って終わりじゃなく、石を組んだ水の道があったとか」
ミレナは地面の傾斜へ目を細めた。
「ただ、どこを通ってたかまでは知らない。今も残ってるかも分からないよ」
「記憶として聞いておきます。確定はしません」
午後、セラが集めた途中の記録を広げた。
朝ほど人が集まらない時間にも、水が戻るまでの間隔は長い。利用量が増えたためだけなら、昼には多少戻ってもよいはずだった。
「使う人が少なくても遅いですね」
レントは紙の上の印を指で追った。
「なら、井戸へ入ってくる水そのものが弱くなっている可能性があります」
井戸の周囲から、谷側へ向かって浅い地面を調べることになった。
沈み。
湿り。
土に混じる石の形。
レントは綻び視を使い続けないよう、短い確認を繰り返した。表面に異常がなくても、土の下へ向かう細い偏りが見える場所がある。だが、それが水路なのか、ただの地質の違いなのかは判断できない。
少し離れたところで、ポルが鼻先を地面へ押し当てていた。
井戸の縁では落ち着かずに周囲を歩くだけだったが、そこへ来ると足を止める。右へ少し移動し、戻り、同じ一帯を前脚で叩いた。
ぽふっ、ぽふっ、と乾いた音が続く。
「ポル?」
レントが呼ぶと、ポルは顔を上げた。だが、何かを説明するような様子はなく、また地面へ鼻先を近づける。
「ここに何があるかまでは分かりません」
レントはオルドを見る。
「浅い範囲だけ、棒で確かめてもいいでしょうか」
「表土までだ。石を動かすなら止める」
「分かりました」
細い棒を土へ差し込むと、一部だけ浅い位置で硬いものに当たった。隣ではすぐに土へ入る。線を追うように確かめると、硬い感触は途切れながら井戸とは別の方向へ続いていた。
ミレナが手道具で表土を薄く除く。レントとセラも土を脇へ寄せた。
やがて、湿った土の下から平たい石の角が現れた。
一つではない。間隔を揃えて組まれたような石が、土砂に埋もれている。
「自然に並んだ石じゃないね」
ミレナが表面を拭う。
石の片側は乾いていたが、もう片側には黒く湿った跡が残っていた。周囲の土も均等ではなく、一方向だけ重く湿っている。
レントは目を細め、綻び視を使った。
石の間を走る細かなずれ。土砂の圧力が偏った箇所。水が通ったと思われる筋は見えるが、その先は地中へ消えている。
長く見続ければ、判断を誤る。
レントは視線を外した。
「ここから先は分かりません」
オルドが石組みの前へ立つ。
「井戸ではなく、これが原因か」
「可能性が高い、というところです」
レントは、井戸の記録、セラがまとめた利用量、ミレナの記憶、ポルが反応した位置を順に示した。
「井戸本体には、水位低下を直接説明する破損がありません。利用者が少ない時間にも戻りが遅い。こちらには水が通った跡と、偏った湿りがあります」
露出した石の先へ目を向ける。
「古い取水路が残っていて、その周辺が土砂で塞がれたか、どこかで傷んで流れが弱まっている可能性があります。ただ、閉塞の位置も、石組みの全体も、まだ確認できていません」
「なら、今日はここまでだ」
オルドは即座に決めた。
「見つけた勢いで掘り進めて、井戸まで濁らせては意味がない。必要な人手と道具を勘定に入れてからだ」
レントも頷いた。
「次の範囲は、記録を見て決めます」
夕方、オルドは井戸の前に利用者を集めた。
「朝と夕方は順番を決める。一世帯が一度に汲む量も揃える。洗い桶や道具を洗う水は、混む時間を外せ」
「畑の分は?」
「必要な分は汲め。ただし、何度も並び直すな。まとめて使う量を先に伝えろ」
不便がなくなったわけではない。
それでも、使う順と量が見えるだけで、列の動きは変わった。空の桶を抱えたまま互いの様子をうかがう時間が減り、次に誰が汲むのかで揉める声もなくなった。
レントは、地面から現れた石組みの位置を紙へ写した。井戸からの距離、湿りの範囲、棒が当たった場所。掘っていない箇所は、推測で線をつながない。
そのそばで、ポルは土の匂いを嗅いでいたが、やがて興味を失ったように前脚の土を払った。
「今日は終わりです」
レントが声をかけると、ポルは一度だけ鼻先を上げた。
水はまだ十分には戻っていない。
古い石組みの先も、土の下に隠れたままだ。
それでも、井戸だけを見つめていた朝とは違う。調べるべき場所は、少しだけ狭まっていた。
レントは記録を閉じ、石組みを覆わないよう周囲へ目印だけを残した。
直すためには、まず止めてよい場所と、止めてはいけない暮らしを見分けなければならない。
井戸のそばでは、決められた順に滑車が回っていた。




