第四〇話 天文十二年七月中旬『欠けたもの』太田牛一side
「これは……貴方の企てですか?」
願文を読み終えるや、まず牛一は一益に問うた。
願文の隣には、誰が首謀者かわからぬよう、円を描くように小姓衆の面々の名が書き連ねられている。
見たところ、小姓衆の実に八割以上が、この願文に賛意を示しているようだった。
そこに滝川一益の名はなかったが、この願文で最も得をするのはこの男である。
当然と言えば当然の疑いだったが、
「俺にとっても寝耳に水の話さ」
一益も肩をすくめてみせる。
さすがにその言葉を鵜呑みにできなかった。
人は保身で嘘をつく生き物だからだ。
「口では何とでも言えますね?」
「まあなぁ。が、俺ならこんな連判状じゃなくて、堂々と咎は全て俺が負うって恰好つけるさ」
「……ふむ」
牛一も小姓衆の長として、預かった者たちの人となりはしっかり観察している。
滝川一益という男は、一言でいえば、なんでも遊戯にしたがるとにかく酔狂極まる男である。
賭けや戦場では策を巡らすこともあろうが、読み合いまで含めてそれが遊戯として楽しいからやるのだ。
確かにこの手の裏での根回しを好むような男ではなかった。
「まあ、首謀者探しよりは、これにどう御沙汰を下すか、でござるかと」
一益がつやに視線を向ける。
その顔はどこか楽し気ですらある。
つやがどんな裁定をするのか、興味津々といったところか。
「さて、どうしたものかしらねぇ。とはいえ、前の事もあるし、起こるべくして起こった事ではあるんでしょうね」
脇息に頬杖を突きつつ、つやは困ったように嘆息する。
「前の事、ござりますか?」
「一益が来る前のことよ。牛一と他の家臣たちが揉めちゃってね」
「成程、想像がつき申すな」
つやの補足に、一益は意味ありげな苦笑をこぼす。
「その時はわたしの鶴の一声で、とりあえずまあ事なきを得たんだけど……」
「時を置いて再燃した、というわけでござりますな」
「そのようねぇ。やれやれ、こんな時に……いえ、こんな時だからこそ、かしらね」
つやはなんとも面倒臭そうに再び嘆息し、天井を見上げる。
何か思案しているようにも、どうしたものかと途方に暮れているようにも見えた。
それを見て、牛一は即座に決意を固める。
「姫様、此度の事は全て、拙者の不徳の致すところ。願文の通り、拙者は筆頭の役目を辞し、一益殿に譲りたく思います」
つやの顔を見据え、決然と言う。
つやは少しだけ驚いたように目を見開く。
「……随分あっさりと受け入れるのね?」
その声は少しだけ悲しそうだった。
「それが理に適っておりましょう? 拙者が長のままでは小姓衆は烏合の衆と成り果てます」
わざわざ血判状までこしらえるぐらいだ。
もはや牛一の命令に唯々諾々と従うとも思えない。
それは戦場においては致命的といえる。
役に立たないどころか、下手をすれば味方に仇為す害になりかねない。
適任がいるのなら、地位に固執することなく潔く速やかに譲り渡す。
それが古来、堯舜の時代から讃えられてきた正しき道である。
他人に散々正論を押し付けておいて、今さら我が身可愛さで正しさに背き保身に走るなど言語道断、彼の矜持が許さなかった。
「それでいいのね?」
「はっ。人を率いるなど、拙者には向いていなかったのでしょう。拙者にできることといえば、愚直に諫言を申し上げ続けることぐらいです。それが分相応かと」
そもそも牛一に出世する気はない。地位や名誉にも興味はない。
だが、だからこそそういうものに囚われず、言うべきことはしっかり言える。正すべきところを正せる。
それが彼の貫いてきた信念であり、誇りでもあったのだが……
「残念ながら、今の貴方ではそれすら満足に出来ているとは言い難いわね」
つやの冷たい言葉が胸を貫く。
はっと顔を上げると、その眼差しにさらに心臓が跳ねる。
「どういう、意味でしょう?」
うるさいほどに鳴る自らの心音を聞きながら、牛一は問い返す。
嫌な予感がした。いや、これは予感ではない。確信だ。
普段は天真爛漫であどけないぐらいなのに、この少女は時々こういう全てを見透かしたような眼をするのだ。
そしてその言葉は、物事の核心を鋭く突いてくるのである。
「馬の耳に念仏。犬に論語。どんなに有り難いお言葉も、相手に聞く気がなければ、理解する気がなければ、全く意味がないのよ」
「っ! まっ……たく、でございますか?」
「ええ、牛一。貴方の正論にはね、致命的に欠けてるものが一つある」
つやはピンと人差し指を立てる。
ついでそれで自らの心の臓あたりをつんつんと叩き、
「信頼、よ」
厳かに言い切るが、これにはさすがに牛一も納得できなかった。
「っ! お言葉ながら、拙者、下調べは念入りに、それこそ微に入り細を穿つ事を心がけております。信に足らぬ事を述べているとは……」
「言葉の内容が正しいかどうか、じゃなくてね。貴方自身が相手の信頼を勝ち取れないのが、そもそもの問題なのよ」
「……確かに仰る通り、拙者は手の者から信頼されてはいませぬな」
これに関しては、認めざるを得なかった。
こんな急場で長の罷免を要求など、血判を押した小姓衆の面々も処罰されることは覚悟の上だろう。
それほどまでに牛一の下では戦えない、信頼できない、とても命を預けられない、という意思表示であり、配下の者たちから牛一の信頼が地に堕ちていることの証左といえた。
「人はどこまでいっても、感情で動く生き物、よ。信頼を得た人の言葉なら、間違ったことでも人は動く。逆に信頼を得てない人の言葉には、どれだけ正しくても人を動かす力がない」
「つまり、拙者の言葉は相手の心を素通りしていくだけ、と」
「もっと悪い、かな。無駄に相手の反発を生みかねないから」
「~~っ!」
牛一は思わず奥歯を噛み締める。
まさにつやの言葉通り、配下の者たちが意地になって、牛一の言をわざと無視し、真逆の事をしだすことがこれまでも多々あったからだ。
つまり、牛一のやってきたことは無意味どころか逆効果ということである。
「牛一、貴方はもう少し、空気を読むってことができるようになったほうがいいわね」
「……つまりは相手に迎合しろ、ということでしょうか?」
眉間にしわを寄せつつ、牛一は問う。
今のままではよくないのは、痛感している。
だが、だからといって空気に流されるのもまた、絶対に違うと思うのだ。
「あ~、確かに雰囲気を読んで調子を合わせろ、みたいな意味合いのある言葉だけど、わたしが言ってるのは、言葉通りの意味の読め、よ。空気に流されたり従うまではしなくていい」
「? 従わないのであれば、結局は一緒なのでは?」
「大違い。読まずに従わないのと、読んだ上で従わないとでは、ね」
「は、はあ……」
牛一は曖昧な返事しかできなかった。
むしろ読んだ上で従わないほうが、タチが悪く印象が悪いのではないかと思ってしまう。
だが、つやは読めと言う。
意味がわからなかった。
「まあ、平たく言えば、少しぐらいは相手の気持ちに寄り添いなさいってことよ」
「? 相手に同調しろ、という意味ではないのですよね?」
「ええ、そういう側面がないわけではないけど、そういう意味じゃない。少なくともわたしは貴方に衆に迎合してほしいわけじゃないし、貴方もしたいわけではないでしょう?」
それはその通りだった。
ただ、一つだけわかったことはあった。
いや、思い知らされた、といったほうが正確か。
小姓衆の一斉蜂起も鑑みるに、おそらく自分には、見えていない何かがあるのだ。
普通の人間には当たり前に見えている何かが。
そんな牛一の心を見透かしたかのように、つやが真面目な表情に戻り、指を突き付けて言う。
「牛一、貴方に欠けているのはきっと、こういう部分。今わたしが言った事を理解しない限り、貴方の言葉は他人には届かない。それだけは覚えておきなさい」




