第三九話 天文十二年七月中旬『最悪の秩序と最良の無秩序』太田牛一side
「最後に、ご所望された絡繰浪漫砲をお持ちいたしました。お納めください」
安祥城に戻るや、牛一は早速、主君であるつやに一連の報告を済ませていた。
絡繰浪漫砲とは、つやが弓胎弓の後に考案し試作した弓の名前だ。
思いつく弓の改良案をとりあえず全部ぶち込んでみた、というのが彼女の弁である。
パッと見でまず目につくのは、弓の両端につけられた小さな鉄の車輪であろう。
この車輪を使って女子どもでも水を比較的簡単に汲み上げる仕組みの井戸の事を鶴瓶井戸というが、それをまさか弓に応用するとは、初めて聞いた時には目から鱗が落ちたものである。
実際、七人張りの強弓でも遠矢で三町(約三二七メートル)前後だったというのに、四町(約四三六メートル)前後まで伸びた。
他にもいくつかの絡繰が組み込まれており、この長射程にもかかわらず、抜群の精度も誇るというとんでもなく画期的な弓である。
とはいえ試作ゆえか課題も多い。
泥や砂、草などで車輪部分が詰まりやすく、弦も普通の弓より摩耗が激しく切れやすいという構造上の問題があり、また修理も従来の弓に比べ煩雑極まる。
実戦で使うにはあまりに信頼性に欠けるとして、造られたのはこの試作の一張のみ。数を揃えるのは見送られ蔵の肥やしとなった代物であった。
「それは貴方がそのまま持ってて。ただ実戦で使うのは禁止ね。あっ、でも試射して感覚だけはしっかりつかんでおくこと」
「はっ、承知いたしました」
この欠陥の多い試作品をいったいどう使うのか。自分は後で何を求められるのか。
正直、興味がないと言えば嘘になるが、牛一は問い返すことなく頭を垂れる。
今川方の大軍がすぐそこまで迫ってきている中、陣代を任せられた彼女の時間を奪うわけにはいかなかった。
なにより戦時は、上の命令には唯々諾々と従うのが鉄則である。
たった一人の独断専行が、戦局を左右することもしばしばある話なのだから。
「んじゃ、下がって休んでいいわよ。尾張までの往復強行軍、大変だったでしょう? お疲れ様」
「はっ、有難きお言葉なれど、その言葉を頂く資格は拙者にはございませぬ」
つやのねぎらいの言葉に、しかし牛一は首を振る。
つやはやれやれといった感じで苦笑をこぼし、
「なに? まだ成経のこと気に病んでたの?」
「この下河原織田家の規律を守り正すのが、拙者の役目と任じておりますゆえ。我が身の力不足を恥じ入るばかりです」
「あいつに言うこと聞かすのは至難の業と思うけどね。わたしの言うことだって、聞かないときは聞かないし」
言って、つやは苦笑をこぼす。
だがその声には苛立ちは全くない。しょうがないやつだなぁ、という諦めと、そして親しみだ。
「姫様、僭越ながら申し上げます。当主たる貴女が、家臣の独断専行を咎めず、笑って看過なさるのはいかがなものかと」
「んー、でもあいつの勘は当たるしね。現場には現場の空気ってのがあるし」
「それを全て認めていては、第二、第三の成経殿が生まれましょう。それでは家中の統制が取れませぬ」
「ふむ、それはもっともな話ね」
言われてつやは口元に手を当てしばし考えこみ、
「じゃあ、今後、馬廻先手衆筆頭には、危急の時にはわたしの命令を無視して良い裁量を与えることとします。成経だからではなく、あくまでこの役職の権限とします」
「っ! それは詭弁ではありませぬか!?」
「そうね、じゃあ成経には罰金一〇貫文(約一二〇万円)を課しましょう。法度は遡及せず、が原則。命を破ったことには変わりないのだから相応の罰は受けてもらわないと、ね」
「それは良いことと存じますが、しかし、成経殿だけ特別扱いするのは……」
「理由あってのことです。早駆けできる馬廻先手衆は、その軍の仕立てからも別働隊の側面が強い。臨機応変に事態に対応できるようにしたほうが理にかなってない?」
「…………」
思わず牛一も押し黙る。
言われてみれば、清須の戦いでも市江川の戦いでも、成経率いる隊は、つやの命ではあるが、つやから離れたところで戦っていた。
それはすなわち指示を受けている暇もないということだ。いちいち指示を仰いでいては、刻一刻と変化する状況に対応できないのは確かである。
しかし――
「やはり反対です。そのような特例を作るべきではないと、拙者は思います。そこから掟は意味をなさなくなってゆくのです」
そう、堤に一か所でも亀裂が入ればそこから堤全体が崩壊するように。
そしてその結果が、この戦国の世ではないか。
各地の守護たちが好き勝手せず、幕府の命を守り、臣下の務めを果たし、将軍を盛り立てていれば、今も日ノ本は太平の世だったはずなのだ。
「貴方の言いたいこともわからないでもないけどね。でも……」
つやは苦笑とともに肩をすくめ、
「人や物も古くなるとガタがくるように、決まりや掟も、古くなれば弊害が多くなるものよ。目に見えないからわかりづらいかもだけどね」
「それは確かにそうかもしれませぬ。が、木を見て森を見ず。その弊害よりも、掟が正しく運用されるほうが……」
「逆よ、牛一」
底冷えする声とともに、つやがスッと目を細める。
「古い掟に固執することが、最も人を殺すのよ。飢えという形で、ね」
「っ!?」
牛一は思わず目を見開く。
民を飢えさせるのは、牛一が最も嫌悪することである。
掟が人を飢えさせる?
意味がわからなかった。
「大陸では、前漢と後漢の間に、新という国があったわ。でもわずか一四年で滅んだ」
「っ!」
その名は、僧として史書を読み漁っていた牛一も知っていた。
そして極めて短期間に滅亡した理由も。
「儒教においては周の礼、すなわち千年も昔の制度が理想とされていた。で、実際にそれをやってみた結果、あまりに時代錯誤すぎて破綻してしまったのよね」
「そう、でしたね」
これは紛れもない事実である。
王莽は儒学を強く信奉した男で、王位を簒奪してからは儒学者を官僚として多く登用し、儒教が理想とする古代の制度をそのまま当時の社会に適用し、国は大混乱に陥った。
だがそれは、既得権益を持つ者たちが私欲に走り、王莽の掲げた理想の制度に反発したからだ。
しっかりと手綱を引き、秦のように法を徹底し理想の制度を体現すれば――
「このわずか一四年で、民の数は一説には半分になったとも言われているわ」
「っ!? そ、それは浅学にて存じませんでした……」
あまりの衝撃に、冷静沈着で知られる牛一も声が震える。
三年前、つまり牛一の妹が飢えて亡くなった天文の大飢饉も、村は死体であふれかえりはしたが、皆、ひもじい思いはしたが、実際に死んだのは村の一割にも満たなかった。
それが半分!?
尋常な数字ではなかった。
「全ての秩序の中で最悪の秩序は、最良の無秩序に勝る……そうよ。まあ、実際そうよね。今の幕府なんて最初から土台がぐらぐらで不安定極まりなかったけど、それでも公方(将軍)様に権威があった頃は、今よりましだった」
「そうですね、だからこそ皆に秩序を守らせることが……」
「それはもちろん凄く大事。でもね、それ以上にまず、秩序を崩壊させないことが最優先なのよ」
「っ!」
「新や今の日ノ本を見てわかるように、秩序が崩壊した時が一番、国が乱れ損害が大きくなるから、ね」
「な、なる……ほど……」
言葉がかすれ、うめくように牛一は言う。
最悪の秩序は最良の無秩序に勝る。その事実に打ちのめされたのだ。
実例まで持ち出されては、詭弁だと切り捨てることもできない。
なにより、今孔明とも言われるつやの言葉であることも拍車をかける。
自分をこれまで支えてきた信念が、足元からぐらつくのが自分でもわかった。
「御談中恐れ入り候!」
「っ!?」
不意に外から芝居じみた仰々しい声が響き、牛一が振り返る。
スパァン! と襖が勢いよく開き、のしのしと入ってきたのは、小姓衆次席の滝川一益である。
「何事です!? 今川が仕掛けてきたのですか!?」
牛一はいぶかしげに問うも、一益は意味深な微笑とともに首を振る。
「いや、それとは別の儀だ」
「別?」
上役二人の話し合いに乱入してくるなど、相当危急の事である。
今川の攻撃以外に思い至るものがなかった。
「小姓衆の連中から願文を預かりましてね。しかも血判付き」
一益が手に持っていた書状をひらひらっと振る。
血判とはその内容に対する決意や覚悟を表すために、自らの指を切り、その血で捺印することである。
戦がすぐそこまで迫るこの時にとは、只事ではなかった。
「ずいぶん穏やかではないわね」
つやも顔をしかめつつ書状を受け取る。
バッと勢いよく開いて読み進めていくうちに、その顔が険しくなっていく。
どうやら予想通り、あまりよろしくない内容らしい。
「牛一、貴方も読みなさい」
真剣な顔つきで、つやがスッと書状を差し出してくる。
「はっ」
牛一は恭しく受け取るや、早速目を通し、
「っ!」
思わずカッと目を見開く。
それは牛一を小姓衆筆頭の座から罷免し、滝川一益を筆頭とすることを求める願文だったのだ。
コミカライズ第2話1 コミックシーモアにて公開されました!
作者的に、お世辞抜きでいい感じになっているのでぜひぜひ




