041.女神からの贈り物です
鬱屈とした灰色の暗い通路を進むと、やがて一つの鉄の牢で区切られた広い部屋が見えてくる。
その部屋の中には至る所に拷問器具が転がっており、そして肝心な者は部屋の一番奥の壁に手足を拘束されることで囚われていた。
(――これは……夢、か……)
まるでいつかの記憶が、綺麗に再現されているようだ。
かつての拷問部屋に囚われた黒髪黒目の己自身――霧崎 邪悪の無様な姿を見下ろしながら、ジャックは思う。
ふと、背後に気配を感じて振り返る。
だが視界に映り込んできた存在を目にした途端、ジャックは反射的に顔を憎悪に歪ませた。
(そうか、そうだよな。これが俺の記憶を再現させた夢なら、当然お前もいないはずがない……か。
なぁ――――シェルミール)
――――ギギ゛ィ゛ィ゛ィ゛
懐かしき錆鉄の鈍い音を響かせ、鉄格子の奥より憎きくそ女神が姿を現す。
ジャックの記憶に違わず、相変わらずニタニタと嗜虐に満ち溢れた醜悪な表情だ。
とてもではないが美の女神の浮かべていい表情じゃない。
けれでも、溢れんばかりにキラキラ輝く黄金の髪や澄み切った青空のように透き通っている碧眼と、他にもこれ以上ないほど完璧なプロポーションなど、見た目だけで言えば美の女神としては万人が万人文句なしに合格の言葉を送るだろう。
例えどんなに態度が悪かろうと、本当に見た目だけならシェルミールは完璧な美の女神なのである。
――――コツ、コツ、コツ
そんな見た目だけ完璧な美の女神が近づいてくるのを見て、ジャックはこれまた反射的に身体を構えようとして――止めた。
ゆっくりと深呼吸をして、彼は強引にでも自分を落ち着かせる。
どうせここは夢だ。
干渉したくてもできないのだから、無駄なことはしない。
よく見れば微妙に透けてる己自身の身体を見下ろし、改めてその事実を確認したジャックは拳を強く握り締めながら、何度も深呼吸をしてシェルミールが傍を通り過ぎるのを待つ。
――――コツ、コツ、コツ
(早くしろよ)
自分が囚われていた時は体力やら精神力を消耗しすぎて全く気付いていなかったが、シェルミールはこんなにゆっくりと移動していたのか、と物凄くイライラしながら考えるジャック。
観客も誰もいないのに何を勿体ぶった歩き方をしているのか。壊れかけたペンギンのロボットかキサマは。
シェルミールに対する殺意が、ジャックの中でまた一つ湧き起こった。
それからたっぷり六秒もかけて、ようやくシェルミールはジャックの傍を通り過ぎ、そのうざったい足音と共に歩みを止める。
やっと通り過ぎたか、と舌打ちしながらシェルミールの後姿を忌々しそうに見るジャック。
……。
(……これが現実だったら不意打ちからの一撃で簡単にブッ殺せるのに……)
心底惜しいシチュエーションだ。
脳内で繰り返し背後からシェルミールを殺すのを想像し、それでようやくジャックは少しだけ苛立ちが和らいだのを実感する。
「――飽きたわ」
シェルミールがその一言を呟いたのは、そんな時だった。
(……ん? なんだ……?)
どこか既視感を覚える場面。
けれどそれ以上にジャックはその一言を聞き、強烈な違和感を覚える。
ニタニタとしたシェルミールの醜悪な顔は、いつの間にか嘲笑と侮蔑を浮かべた酷く冷たい眼差しとなっており、両の手足を鎖で壁に縛りつけられたかつてのジャックである霧崎 邪悪を見下ろしていた。
「聞く姿勢がなってないわね……。ほら、せっかく偉大なる栄光と美と享楽の女神様がゴミでしかない異世界人のあなたに話しかけてあげているのよ? ――面を上げて聞きなさい」
バシャンッ、と。
恐らく神の力か何かで生成した水の塊(やや紫色)が、霧崎 邪悪の頭に向かって勢いよく叩きつけられる。
――すると、一拍を置いて。
「っ、ぐあああぁぁぁあッッ!!」
ちょっと尋常じゃないくらいの煙を全身から噴き出しながら、苦痛に満ちた断末魔の叫びを上げる霧崎 邪悪。
見れば、叩きつけられた頭部を中心に皮膚や肉が、挙げ句の果てには骨やその中身までもがドロドロに溶かされていっている。
これには、目の前の光景を含めたありとあらゆる拷問を受けた経験のあるジャックですらドン引きしていた。
第三者視点から改めて見ると、いくら昔の自分とはいえその衝撃は計りし得なかったのである。
これを見てケラケラと愉快そうに笑えるのは、真性のクズであるシェルミールくらいだ。
「……ァァ、ァ……ァァァ…………――――」
やがて骨の髄まで溶解し、とうとう自重に耐え切れず頭部がボトリと地面に堕ちた――――ところで恒例の瞬間再生が発動。
確実に死ぬはずだった霧崎 邪悪を、しかし死の淵から強制的に生還させ、肉体的、精神的といった全ての傷がなかったことにされる。
「ッ――――はぁッ、はぁッ、はぁッ……!」
だが、死にかけたことへのショックまでは消せない。
その結果、復活直後にも関わらず容赦なく襲ってくる精神的なショックに霧崎 邪悪の肉体も否応なく反応し、危うく再び死にかけてしまうほど盛大な過呼吸へと陥ってしまう。
口の端から大量の涎や胃液らしきものがだらだらと流れ落ちているあたり、本気で死にかけているのが見て分かる。
普通なら、ここで暫くは様子を見るくらいしそうな光景だが……残念ながら、この女には全く関係のないことだった。
「――で、もういいかしら?」
慈悲もなく、情もなく。何より血も涙も欠片もなく。
どこまでも家畜以下の存在を見るような目で霧崎 邪悪のことを見下ろしながら、シェルミールは口を開いた。
過呼吸でまともに返事すらできなかろうと、このくそ女神は意にも介さない。
むしろ反応を示さなかった事をこそ自分に対する無礼と受け取り、嬉々として拷問を再度仕掛けてくるだろう。
経験則でそれを知っていたジャックは、だからこそシェルミールのその言葉を聞くと同時に爆発した怒りで自らの歯をぐしゃりと噛み砕き……同じくかつてのジャックである霧崎 邪悪も、これ以上の苦痛を避けるためか、よろよろとした動きだが今できる最速の動きで顔を上げる。
(……あ?)
それを情けない反応だとは、決して思わない。
霧崎 邪悪という人間は、表面上はどうであれ敵対者に対しては絶対に屈服したりしないような人間であることを、同じく張本人たるジャックは知っていた。
故に、物凄く気に食わないが……それを思えば目の前の光景も、理性を総動員することで何とか許せるのである。
けれど――だからこそ、ジャックには決して見逃すことのできない点が一つだけあったのだ。
(――怯え……? この、俺が?)
シェルミールの言葉に従って上げられた、かつての自分の顔。
その瞳にありありと映し出された怯えと心から屈服してしまった者特有の諦観の色を見て、ジャックの違和感は瞬時に確信へと変わる。
(違う。これは、俺じゃない)
目の前の光景を、ジャックは即座にそう断じた。
シェルミールだけは、ない。
それだけは絶対に有り得ないのだ。
何せ、ジャックが死ねば次は彼の縁を辿ることで、彼の姉や幼馴染をターゲットにするとまで宣言していた存在なのである。
あのくそ女神の性格上、間違いなくそれが宣言通り実行されてしまうと分かりきっているのに、まさかジャックに屈するという選択肢があるはずもなかった――――のだが……。
「――喜びなさい。あなたのことは、もう解放してあげる」
バチバチッ、と。
手のひらに神の力で生み出した消滅のエネルギーらしきものを纏わせながら、にこやかにそう語り掛けているシェルミール。
ジャックとしては、もう反射的に唾を吐きかけてしまいたくなるほどムカつく態度でしかなかったが――かつてのジャック、霧崎 邪悪にとっては違ったらしい。
「――――」
ホッと安堵したかのような、小さな笑み。
信じ難いことだが、彼は喜びの感情を露わにしたのである。
シェルミールの言葉がどういう意味かを全て承知した上で、まるでそれを受け入れるかのような態度……いや、その絶望感が欠片もなくただただ諦観しきった態度を見るに、彼は間違いなくシェルミールのこれまでとこれから行うであろう全ての行為を受け入れてしまっていた。
(なんだ、これは……)
あまりにもあんまりな展開だ。
ジャックも思わず驚愕を通り越して呆然としてしまう。
この後、自分の魂を消滅させられてしまうことはともかくとして、姉や幼馴染たちまでもが狙われているのにどうしてここまで大人しく受け入れてしまえるのか。
ありえない。絶対に、ありえない!
ジャックの混乱はついに極地へと到達する。
(――あ。いや、だが待てよ……?)
けれどその時、不意にジャックは夢から醒めた気分になった。
違和感が強すぎるあまり、逆に冷静さを取り戻せたのであろう。
即座に答えを求めて回り出すジャックの思考。
夢と現実の差異から、虫食いやパズルのピースのように欠けた違和感の答えを出していき――そうしてジャックはようやく違和感の正体に気がついた。
(……あぁ、そうか。――そういうことか)
既視感と、覚えのない展開。
同じ登場人物だが、現実とは異なる中身。
他にも細かな違いは多々あれど、大きな違いはこの辺りだろう。
そして――冷静になったジャックの頭脳にとって、ヒントはそれだけで十分だった。
(――if……もう一つの未来か、これは)
胸糞悪いが、そう仮説を立ててみれば目の前の光景も何とか理解できる。
なぜ唐突にもう一つの未来なんて夢を見せつけられているのかまでは知らないが、細かい原理は正直どうでもいい。
重要なのは、今このタイミングで夢として見せつけられていることだろう。
そう考えたジャックは未だ収まりきらない苛立ちを抑えつつ、それでも先程よりも格段に落ち着いた様子で目の前の光景を見始めるのだった。
果たして、その後――霧崎 邪悪はその魂ごとシェルミールに消滅させられ、ジャックの記憶通りにアンリミット超神帝国にて復活を果たす。
狂気と正気の狭間に長時間置かれていた影響で、不幸中の幸いか『狂天』の天能には覚醒していたが、記憶と違って霧崎 邪悪の狂天は弱かった。
もしかしたらシェルミールに屈していたせいなのかもしれない。
あれで意思力が相当下がったのだとすれば、狂天の力が同様に下がった理由も説明できよう。
「――では、このまま日本に戻るということでよろしいのですね?」
そして、もう一つ。
ジャックにとって、完全に未知な展開が始まりを告げる。
「はい。お願いします」
「そうですか……少し残念ですが、仕方ありませんね」
目の前にいる白銀の美女――アンリミット超神帝国の宰相、シャルロット=D=S=アンリミットへと、霧崎 邪悪はシェルミールに復讐することも異世界へ行くことも口にせず、ただ日本への帰還を希望していた。
寂しそうに笑うシャルロットだったが、彼女には否定する理由もないので素直にその要望を聞き入れる。
本来であれば一週間ほど帝王城で修行するはずが、この未来ではすぐに離れることになるのだった。
かくして、霧崎 邪悪は念願が叶ってついに異世界から日本へと帰還する。
帰還した当初は、それこそ夏休みが明けて暫くの時が既に経ってしまっていたため、姉や幼馴染を始めとした様々な人たちが騒ぎ立てたものだが……それも半年が過ぎれば、周囲もすっかり落ち着きを見せていた。
姉や幼馴染とも以前と同じく……いや、それ以上に親密な関係になれている。
特に姉とは夏休み前での一件も誤解(?)とされ、それまでのぎこちない関係もこの半年でほとんど解消できた。……具体的に何が誤解で、姉が何を考えているのかは相変わらず分からなかったが。
ともあれ、もう一人の霧崎 邪悪に終始イライラさせられっぱなしだったジャックにとっても、この半年の様子は大きな癒しだった。
久方ぶりに見た平穏な日常。
それは、彼が心の底から夢みてきた光景で、けれど今では決して手に入れられないもの。
泡沫の夢と知りつつも、決して否定できない尊き光景である。
故に、それだけに――ジャック=キリサキは残念でならない。
彼は知っていた。
シェルミールという最悪の女神の性格と、その目的を。
けれど霧崎 邪悪は忘れていた。
この仮初めの平和に実現した日常が、嵐の前の静けさでしかないことを。
だから――未来はもう、どうしようもないレベルで確定してしまったのだろう。
気がついた時には全てが手遅れであり、足掻くことすら許されない。
かくして――、世界に悲劇が訪れた。
……
…………
………………
大気が軋み、無数の亀裂が天空の至る所に走ると同時に――砕け散る。
平和の終わりは、果たして突然やって来た。
「空が……いったい何が……」
人々は、砕け散って虚無となった空を見上げ、呆然としながら口々に呟く。
恐らく世界中で唯一この事態について理解しているだろう霧崎 邪悪も、この時、呆然と虚無の空を見上げていた。
「……。まさか、本当に……けど、いくらなんでも流石に……」
この期に及んで、甘い考えを期待する彼だったが、事態は霧崎 邪悪を待たずして最悪な方向へと加速する。
「? あれは……人、か?」
虚無の向こう側から、幾人かの人影が現れる。
弱いとはいえ、狂天の力を得たことで常人より強化されている霧崎 邪悪の視力は、遥か上空に現れた多数の存在をしっかりと捉えていた。
「シェルミールの力を感じる……ということは、つまり――! 使徒かッ!?」
気づくと同時に、霧崎 邪悪に向けてレーザー状の攻撃が放たれる。
辛うじて反応し、それを回避する霧崎 邪悪。
残念ながら彼と同様に近くで空を見上げていた多くの人と建物は、レーザーに呑み込まれて消滅してしまった。
幸いなのは霧崎 邪悪が現在、一人で遠出していたことだろう。
これが実家付近で幼馴染たちも一緒だったと思うと、ゾッとする。
ともあれ、上手く回避に成功したところで、彼は続けて背筋の毛が逆立つ感覚を覚えた。
「――ッ……!」
「あれ? 避けた……?」
その嫌な予感に、咄嗟に上体を右に逸らすと、空気を鋭く切り裂く音がすぐ近くを通り過ぎていく。
急いでその場から距離を取り、さっきまで自分のいた位置を見やれば、そこには神々しい槍を突き出した格好で不思議そうに首を傾げる幼い日本人の少年がいた。
「ん〜、お兄さん本当に人間? 二度も僕たちの攻撃を避けるなんて人間のスペックじゃあ不可能なはずなんだけど……」
言いながら、再び槍による攻撃を仕掛けてくる少年。
その全身からは先ほど以上にシェルミールの力を放出させており、感じ取れる圧と動きも段違いだ。
しかし、その攻撃を易々と受ける義理もない霧崎 邪悪は、狂天(弱)を全力で発動させながら回避し始める。
避けて、避けて、避け続け……。
やがて、埒があかないと悟ったのか、少年はピタリと攻撃の手を止めた。
「――おっかしいなぁ……ここまでやっても当たらないなんて、やっぱりお兄さん人間じゃないよね?」
少年の全身から噴き出るシェルミールの力も、既に物理的な圧力を伴うほど濃密なものとなっている。
そこまで強化しても、攻撃が当たらないことに少年はようやく霧崎 邪悪が普通の人間じゃないことに気がついたのだ。
具体的には、少年達と同じく物理法則から解き放たれた幻想側に住まう人間であると。
「……」
「ま、そうと分かればそれ用に対処法を変えるだけなんだけど。――“『神敵認定』”、そして“『使徒化』”」
瞬間、少年の全身から噴き出ていたシェルミールの力が収束する。
物理的な圧力を伴っていた力は全て少年の体内に戻っていき……。
「うん、変身完了。ではこれより、神敵を討伐する」
――気がつけば黒一色だった少年の毛髪と瞳の色が、溢れんばかりに輝く金髪碧眼へと変化していた。
それは、あたかもシェルミールの如く……何より放たれる圧力がまた跳ね上がり、その圧力も先ほどと違って少年自身から感じる。
確実に、強くなっているだろう。
その少年が、今、足を踏み出し――――
「――ッ、グゥッ……!?」
「ハハッ! よく反応できたね? でも次はどうかなぁ!?」
金色の閃光が迸る。
狂天(弱)の力で強化しても、避け……きれない!
それを見て、少年の攻撃も加速していく。
「ほら、ほらほらほらほらァ!」
何とか急所だけを守り、霧崎 邪悪は必死に打開策を探る。
逃走は不可能。
迎撃は困難。
だが――武器さえあれば!
「どこだ、どこだどこだどこだ――ッ、見つけたッ……!」
レーザー攻撃によって瓦礫の山にされた街。
その中を必死に逃げ回り、霧崎 邪悪はついに武器となり得るものを見つけ出す。
――先端の尖った数本の鉄筋。
コンクリートの建物を補強するのに使われていたのだろう。
少しだけ折れ曲がっていたその中の一つを、霧崎 邪悪は少年の攻撃を大きく回避するのと同時に引き抜いた。
「ん? え、何? そんなので僕に抗おうっての? ぷぷぷ。無理無理、無理だって。そもそもそんなのじゃあ僕を傷つけることすらできないよ、諦めなって」
嘲笑しながら近づいてくる少年に、けれど霧崎 邪悪は無言で鉄筋を構える。
その様は、まるで何か勝負を決める手でもあるかのような……。
「……ふん。バカバカしい。最期の悪足掻きがそれ?」
一瞬だけ訝しげに思う少年だったが、圧倒的に優位な立場と絶対的な自信から霧崎 邪悪の行動を無駄な足掻きと断じる。
何せ、所詮は鉄筋だ。
傷つけるどころか、武器にさえなり得ない。
「じゃ、これで終わりだよ。お兄さん」
余裕の笑みを浮かべながら近づいてきた少年は、槍の刃先を同じく鉄筋を構えたまま動かない霧崎 邪悪へと向ける。
両者の距離は、既に2メートル弱。
もはや霧崎 邪悪が避けようとも、絶対に避けられない距離である。
故に、少年も必殺の意思を込めて槍を構え――突き出した。
必殺の一撃はコンマゼロゼロ秒の世界を突き進んでいき、やがて霧崎 邪悪の心臓へと突き刺さろうとして――――
「――“狂え”ッ……!!」
刹那、物理法則が書き換えられる。
槍の刃先から石突きまでが真っ二つに裂け、霧崎 邪悪を避けるように湾曲していく。
驚愕に目を見開く少年。
彼は急いで槍を手元に引こうとするが……それよりも早く霧崎 邪悪が間合いの中に入り込み、逆に先端の尖った鉄筋を少年の心臓へと突き出した。
「ッ、馬鹿な……!?」
そして、幻想の法則も書き換えられる。
本来なら傷つけることは愚か、絶対に突き刺さるはずもない鉄筋が、少年の心臓を貫通していく。
――あり得ないはずのカウンターが、完璧に決まってしまったのだ。
喀血しながら自分の胸元を驚愕の眼差しで見つめ、力ない足つきで一歩、二歩と後退した少年が膝から崩れ落ちる。
「――ば……馬鹿、な……」
そうして最期にそう言い残すと、少年は全身から金色の粒子を撒き散らし、ついにはシェルミールの力を放散させて絶命する。
ギリギリであったが、霧崎 邪悪の――勝利だ。
「……やっ……た、か……」
とはいえ、彼の負ったダメージもデカい。
ほとんど気力だけで立っていた霧崎 邪悪は、そこでようやくこれまでの重傷を思い出したかのように力尽きる。
大地へと倒れ伏し、そうして意識を完全に飛ばしてしまった彼は、果たしてそれから何時間が過ぎても目を覚ますことはなかったのであった。
………………
…………
……
(――バカが……!)
劇的な逆転勝ちが目の前で演出されようと、しかしこの男は誤魔化されない。
地に伏した霧崎 邪悪を見て、ジャック=キリサキは抑えきれないほどの怒りに歯軋りする。
この世界において、もはやシェルミールの力に抗うことのできる存在は霧崎 邪悪を置いて他にいないのだ。
それなのに、その彼が守るべき者も守らずして真っ先に気絶するなんて……。
(この俺に……よりにもよってこの俺に、水萌たちを見殺しにさせるか……!)
視点を変えれば、かつて自分が暮らしていた街と、記憶にある数々の光景が女神シェルミールの使徒と思しき存在によって無差別に蹂躙されていた。
ギリリ、と歯を強く食い縛るジャックだが、彼にできることは何もない。
いくつもの光の柱が地上で生み出され、その度に大勢の人々が死んでいく。
この光景を見て、ジャックにとって大切な人たちだけが例外的に無事で済むと思えるはずもなかった。
(くそがッ! 起きろッ、さっさと起きやがれッ! 何を呑気に寝てやがるッ! お前が助けないで誰が助けるんだよッ!!)
例え夢と割り切っていても、許容できないものはできない。
意識を失っている霧崎 邪悪を反射的に殴り起そうとするジャックだったが、しかし彼の拳はあっさりと対象の肉体をすり抜けてしまう。
どうあっても、彼では夢の世界へと干渉することができない。そのことが改めて証明されてしまったのだ。
(――くそッ……!)
それからジャックは何度も夢の世界にいる霧崎 邪悪や、使徒たちから傷つけられながらも逃げ惑う姉と幼馴染たちを救えないかと干渉を試みていたが、結局は全てが徒労に終わる。
それどころかジャックは、徐々に己の意識が薄れていってることに気がついた。
とうとう夢から現実へと戻る時がやって来たのだ。
(ふざけるなよ……このままで終われるものかッ……!)
だが、ここまで一方的に負の感情を煽られるものを見せつけられては、ジャックとしてもただでは引き下がれない。
せめて一矢報いる何かが欲しい。――そう思った時のことだった。
(! これは……)
ふと、彼は己の能力が使えることに気づく。
正確には、今、意識が完全に消え去る間際となったこのタイミングでのみ、この夢の世界へと干渉できる気がしたのだ。
けれど残念ながら、今のジャックには物理攻撃か『第二兵装:我喰』を用いた特殊な攻撃手段しか持ち合わせておらず、この状況に適した有効的な攻撃手段というものがない。
唯一何とかなりそうなのが『狂天』の天能である狂化だが、それも現在は使用限界に達してストック切れだ。
故に仕方なく迅速な報復は諦め、彼は今できる唯一の行動である[悪意把握]の異能を用いて、後の報復対象である元凶を探ることにする。
果たして、その結果は――。
(――ッ、おまえか、シェルミールッ……!!)
ねちっこい上に甘ったるい、この長年をかけて熟成させたようなドンヨリとした紫色の悪意。
間違いなく、シェルミールのものだとジャックは断言する。
同時に、彼は全てを理解した。
なるほど、ifの世界……と見せかけた洗脳か。だとすれば終始イライラが収まらなかったり、過剰に負の感情を抱きやすかった理由もこれで説明つく。
何せこれまでの全てがシェルミールからの精神攻撃だったからだ。
(悔しいが、今の俺は何もできない。だが覚えてろ。いつか、俺に足りない力が揃った時こそ――お前の最期だと知れ)
遠い向こう側から聞こえた気がしたシェルミールの笑い声に、彼は改めて復讐を誓う。
そうしてその思考を最後にジャックの意識は完全に蒸発し、最悪の女神が精神攻撃をするためだけに構築した夢の世界から消え去るのだった。
――彼らが相対する時は、まだ遠い。




