029.Another episode デリツィア 「運命の選択」
その日、彼女は機嫌が悪かった。
本当なら休日の予定だったところを、他の受付嬢たちがこぞって風邪を引いたなどという理由で、本日の業務の全てを彼女に押し付けてきたためだ。
とはいえ……それが本当ならば、仕方ない。
彼女も当初は不承不承ながら、それでも同僚たちのためにと惰眠を貪りたかった気持ちを押し隠しつつ勤務先である組合まで向かったのだが……問題は、その途中で件の風邪を引いたという同僚たちを見かけてしまったことにあろう。
それも休みを取ったはずの全員が全員、全力でめかし込んでいる上に一人ひとりが腕をそれぞれの男の腕へと絡ませながら歩いていたのだ!
始めは、ポカーンと何をするでもなくそんな同僚たちの姿を呆然と見つめていたデリツィアだったが、時間が経つにつれて理解が追いついてきた。
即ち……
(あんのクソビッチ共、休日だったはずの私に面倒を押し付けて男遊びですってェ……!?)
怒り心頭。
だけど、この身は既に仕事を代わりに引き受けると了承してしまった身だ。
故に今更あのイチャラブ空間へと突っ込んでいくなんてことも、自分には到底できなかった。
彼女にできることは、精々懐に入っていたハンカチを取り出し、キィーッと噛み続けることだけ。
(うぅぅぅ……悔しい。ハブられたことも、何よりあのビッチ共より美貌を含めての何もかもが優れているはずの自分に、未だ男が全くできないことが物凄く悔しい!)
……と、まぁこうして、話を戻すが彼女は最悪と言っていいほどの不機嫌となったわけなのである。
そして、だからこそ――――
「――ここで組合に加入して仕事が貰えると聞いてきたんだが……俺も是非、その組合の一員に加えてもらえないだろうか?」
ジャックの姿を見た瞬間、彼女は内心で溜まりに溜まったストレスの発散相手に丁度いいと思った。
話しかけられた内容からして、相手は組合初心者であると誰でもすぐに分かる。
普段ならそれこそ、そういった初心者相手にイジメを行うのは組合自体から禁止令として公表されているのだが……関係ない、彼女は不機嫌なのだ。
であるからこそ、初心者をイジメて何が悪い。
加えて、何より――――
(――うわ、こいつ異教徒じゃん)
ヴァリエーレ聖王国民及びシェルミール教の信者であれば、これも同じく誰が見ようと即座に分かってしまう。
ジャックが――異教徒であるということが。
となれば……それはつまり、ジャックは初心者以上にイジメてもいい対象ということでもある。
何故なら、これまたヴァリエーレ聖王国民及びシェルミール教の信者なら誰でも知っている常識なのだが、ヴァリエーレ聖王国及びその属国内では異教徒を殺しても決して罪に問われないからだ。
むしろ異教徒は積極的に叩き潰せというのが彼らの信仰する女神シェルミールの教えにあるくらい、彼らにとって異教徒とは、虫にも劣る存在という認識なのである。
最早、色々な意味で救いようがない……。
でも、それ故にこそ――――
「あ~ぁ、いつも思うけど新人って面倒な存在よねー! 問題は起こすし、弱いせいで問題にも巻き込まれるしで……もう本ッ当にかったるいったらありゃしないわー! やるなら私のいないところでやりなさいって話なのよねー! 本・当・にッ!
ハァァァ……ま、そんなわけで余所者の面倒まで見てられないわよね~。普通に考えて。だから仮に私の所まで来てしまったとしても、どうせならそこで気を利かして私の前から自主的に消えてくれないかしらね~。
あ、勿論もしもの場合の話だ・け・ど」
――彼女は、徹底的に異教徒を虚仮下ろした。
そしてそれは、組合最強の戦力であるベルザリオが組合に入ってきた時も同じ。
「聞いてください、ベルザリオ様~! そこの異教徒ってば腰に下げた剣がちょっと良い物だからっていうのをいいことに、それを使って私たちに脅しをかけてきたんですよ~! ……挙句に私にはセクハラしてきますし、他にもこの組合を乗っ取るとか言ってました~! きゃー助けてくださいぃ~!」
ある事ない事を吹き込み、元から異教徒を見て不愉快そうにしているベルザリオへと更なる怒りを抱かせ、尚且つその怒りを異教徒へと直接向けるように裏で操作する。
その際、サラッと自らを売り込むことも忘れない。
ともかく……そうしてついにベルザリオが異教徒へと掴みかかり、周囲の雰囲気も自然と殺戮の一色に染まり始めてきた。
ここまできたら、彼女としても後はもうそれを愉しそうに見つめるだけ。
全ては、自らのストレス発散と悦楽のために。
そんな思いで、彼女は目の前で繰り広げられる異教徒への死刑を見つめていた。
「このゴミが……生きて帰れると思うなよォ?」
「ぅ、うぉぉぉおおおッ!」「流石はベルザリオさん!」「相変わらず心に響くセリフだぜ!」「かっくいー!」「いいぞー! 殺っちまえーッ!」
「「「「「殺せッ! 殺せッ! 殺せッ!」」」」」
やがてベルザリオも拳を振り上げ、片手に掴んだ異教徒を殴ろうと構えだす。
一瞬の後には、血濡れになって異教徒が斃れているはずだ。
――そう……何より数の暴力と最強戦力のベルザリオが揃った今、万が一にも異教徒が死刑場から逃げ果せるはずはない。
なかった、はずなのに――――
――――プツンっ…………!
「く、クハハッ……クハハハハハハハハハハッ! クハハハハハハハハハハハハハハハハハッ……!!
――It's show time」
――でも、それなら……この光景は一体、何?
彼女の予想では、血濡れで斃されるのは確かに異教徒のはずだった。
或いは億が一にも有り得ないが……異教徒が無事な可能性は、何とかベルザリオの攻撃と拘束から逃れ、周囲にいる面々でできた壁を突破して組合から脱出することだけ。
それでも無傷なのは有り得ないだろう。精々大怪我(確定)でも負いながら逃げ続け、そうして途中で力尽きるか、何とかギリギリ生き残るくらいしか有り得ないはずなのだ。
しかし、実際はどうか?
異教徒は――逃げ出さなかった。
では血濡れで斃されているのかと言うと、それも違う。
――結論から言って、異教徒は無傷だった。
そう……予想でも、現実的に考えても一番有り得ないはずの選択肢――無傷だったのである!
(……どう、して……?)
むしろ血濡れで斃されていたのは、異教徒の周りを囲んでいた組合の面々の方であって……正直、それだけでデリツィアとしてはもう何が何だか全く分からない。理解できない。
何故なら、全てが一瞬の出来事だったからだ。
気が付けば、周りを囲んでいたはずの面々が不自然なことに、まるで見えないナニカに攻撃されたかのような不自然な吹っ飛び方をし……。
気が付けば、そんな吹っ飛んで行った面々がいつの間にやら更なる暴力でも受けたかのような、或いは超強力な圧力で物理的に押し潰されてできたかのような傷を全身の至るところに負っており……。
そして更に気が付けば――――
――――ガシッ……ミシミシ、ベギィィィッ!
「あ、ガッ……!? ――ぐぁぁぁあああッ!!」
――異教徒を掴んでいたはずのベルザリオが逆に顔面ごと鷲掴みにされ、尚且つ徐々に力を込めて握り潰されていく光景が、彼女の視界に映り込んだ。
その片目は……既に異教徒の親指で、本来は眼球が収められていた場所を外側の頭蓋骨ごと潰されたために、ずるりと鼻水のように垂れ下がっている状態である。
あまりの激痛に、ベルザリオも時折思い出したように身体をピクつかせることしかできない。
……どう考えても、それは逆転のしようもない最悪な光景だった。
そもそもが瞬殺であったのだし、正直これ以上は過剰攻撃でしかないだろう。
混乱が収まらない思考の中、それでもデリツィアは自らの常識に従ってそう思ったのだが……どうやら異教徒にとっては違うらしい。
親指は押し込んだが他の指はまだ残っているとばかりに、彼は激痛のあまり失神までしてしまっていたベルザリオへの私刑を続ける……。
「…………あ゛、あ゛ぁ゛…… あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーッ!?」
小指から中指が順に、ゆっくりとベルザリオの顎へと押し込まれていく。
それにより、反対方向からの圧力がないためにブチブチと筋肉やら骨を無理矢理引き裂きつつ、盛大に真横へとずれて崩壊する組合最強(笑)の鼻・頬・顎。
果たして、再び激痛を覚えたベルザリオは悲鳴と共に失神から目覚めるも……喉から出された音声を言語音にするための構音器官(下顎、舌、唇、軟口蓋)が軒並み破壊されているせいで、最早どんなに頑張っても声にならない声しか出てこない。
……。
思わずベルザリオは、絶望のあまりにまた失神した。
だが――――
「――ん……? おいおい、何を呑気に寝てやがるんだ? 俺はまだこれっぽっちも満足しちゃいないし、愉しい時間もまだまだ終わりじゃないぞ?
つーかむしろ、これからが本番なんだろう……がっ!」
失神による苦痛からの逃避を、異教徒たるジャックは決して許さない。
ニヤリと嗤い、そうして彼は汚い物でも振り払うかの如くベルザリオを組合の壁へと投げ捨て、バァァァアンッ……! と叩き付ける。
カフっ……と小さくではあるが、思わず盛大に喀血するベルザリオ。
誰が見ても一目で分かってしまう。
最初からオーバーキル級の攻撃を受け続けたベルザリオは、最早いつ死んでもおかしくないほどの瀕死状態であったのだ。
――が、異教徒はそれでも攻撃の手を止めない。
(……今度は、何? 銀色の……透明な刃!?)
相変わらず全てを見下したような凄惨な笑みを浮かべ、スッと片手を上げた彼はそこに無数の銀刃を一瞬で生み出す。
普通なら幻想的で、いっそ美しさのあまり見入ってしまいそうな光景だが……これまでの私刑をずっと観察することしかできなかったデリツィアには恐怖しか感じられなかった。
故に――――
「――殺れ」
キラキラと乱反射を繰り返す銀刃が一斉に、壁にめり込んで身動きができない状態のベルザリオへと全力で襲い掛かる悪夢を見ながら思う。
――機嫌が、悪かった。だから都合よく現れた異教徒に八つ当たりをしてやった。
言ってしまえば、それだけだったのである。
デリツィアとしては、その行為におかしいところなど欠片もない。
自分たちヴァリエーレ聖王国民が信仰する女神シェルミールの教え通り、潰すべき対象である異教徒に八つ当たりするのは常識でもあるからだ。
そして、だからこそ彼女は当然のように異教徒であるジャックへといつも通り嫌がらせをし、最終的には何が何でも潰えるように公開処刑を裏で始めさせたのである。
いつも通り……そう、それはどこもおかしいところなどない――正しく、いつも通りの事だった。
……そのはず、だったのだ。
(でも現実では異教徒を殺せず、そうでなくとも代わりに私たちの身へと、その暴力と恐怖という名の牙が容赦なく襲い掛かってきた、と。
――まったく、何てこと……まさか今回に限ってこんな事が起きてしまうとは……こんなの、いくら何でも分かるわけないじゃない)
デリツィアは恐怖と戦慄を隠せない。
今更ながらに彼女は理解してしまったのだ。
――自分は、決して手を出してはいけない存在に手を出してしまったのだと。
――目の前の光景は、全て彼女を切っ掛けにして起こったものなのであると。
本当に今更だが、彼女は自らの行いに後悔の念を抱いた。
けれど……結局のところ、これも全部今更な話なのである。
後悔するにしても、最早全てが遅すぎたのだ。
「――ふむ……ピクリとも反応しないところを見るに、どうやら今度こそ完全に動けなくなったようだな。……個人的にはもう少しだけ長続きしてほしかったが、流石にこれ以上やると本当に死んじまうしなぁ……こうなったら仕方ない、か?」
――――ゾワァァァアン……
「……あぁ、そうだよな。全くもってその通りだ。仕方がない……仕方がないからこそ、コレはもう潔く諦めることにして――――」
ぐちゅりっ、と。
宙に浮かせた最後の銀刃をベルザリオの関節に捻じ込んで、そうして何もない空中に向けて話しかけていた異教徒は、ついに酷く冷めた眼差しで――振り向いた。
「――ッ、ぅ……!!」
刹那――交差する視線と視線。
黒よりも黒く、闇よりも深く……。
何故か光を一切宿していない黒の瞳が、呆然と立ち竦んでいたデリツィアを貫く。
(……あ、ヤバイ。これはダメだ)
そのことに気づくと同時、そう思った彼女は慌てて自己防衛本能により目を逸らそうとする……が――無駄だ。
先ほども言った通り、何もかもが遅い。ってか遅すぎる。
故に――――
「――代わりにコイツで我慢してやろう……!」
ニタリ……と、凄絶に嗤う異教徒。
その、まるで獲物を仕留める寸前の絶対的強者の如く宣言に、デリツィアは反射的に身を震わせる。
――ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!
ごく自然に、脳裏でガンガンと鳴り出す警鐘。
(――は、早く逃げないと……殺される……!)
もう視線を逸らすだの、そんな悠長なことをしている場合ではない!
今はただ、余計なことは一切考えず目の前の悪夢から逃げ出す事だけに集中しなければ……!
幸い、異教徒の歩みが非常にゆっくりなのは目に見えて分かっている。
ならば後は自分次第だ。
全力で動きさえすれば十分に逃げ切れるはず!
……そう、思っていたのに。
(嘘、どうして……? どうしてこんなに遅いの? どうして私の身体はこんなに遅くでしか動いてくれないのッ!?)
思考の中で想像した速度と実際の現実での身体反応速度が一致しない……言わば理想と現実の乖離に、ただただ混乱して戸惑うことしかできないデリツィア。
どうやら極限の恐怖によって超加速された彼女の思考は、しかし窮地に佇む己の救出をするどころか、余計に自分を追いつめるだけの結果となってしまったようだ。
結果、彼女の中には焦りだけがどんどん募っていく。
おまけに自分の動きだけが鈍化している中、コツ、コツ、コツ、とした歩行音がゆっくりと近づいてくるのを聞いていると、まるで死刑宣告でも聞いているかのようで焦り以上に本能的な恐怖を覚えずにはいられない。
(動け、動け、動け、動け、動け! 動いてっ! お願いだから! 速く動いてよぉっ!!)
だがそんな必死で願った思いも空しく……デリツィアの耳には、カツーンッ……! とした一際甲高い足音が無情にも響き渡ってしまう。
と同時に、あるモノが彼女の視界に映り込む。
――漆黒の……艶が見えるほどピカピカに磨かれている革靴。
即ち、それが意味するところは――この瞬間、ゆっくりと近づいてきていたはずの異教徒がとうとうデリツィアから半径一メートル以内の所にまで接近してしまったということなのである!
そのため――――
(――あっ……終わった……)
いつの間にか、ここまで接近されていた事に対する恐怖。
加えて、今まで溜め続けてきた緊張感と実際に目の前に立たれていると意識している事で生じる膨大なストレスから、ただでさえ崩壊しかかっていたデリツィアの正気は一瞬でピークを迎え……そして――――
「――くははっ! 恨むなら……俺にケンカを売ってしまった過去の己自身を恨め! 自分は何て愚かな事をしてしまったんだ、となァ? クハハハハハハハハハハハッ!」
響き渡るその狂笑と、己の顔面へと迫り来る傷が一つとしてない異教徒の拳という光景を最後に、彼女の意識は抵抗する暇もなく一瞬で深い闇の中へと落ちていくのだった。
……。
…………。
◆ ◆ ◆ ◆
……。
それから暫くの時が過ぎ、数時間後。
「――起きなさい、デリツィア……早く起きなさい!」
「……ぅ、う~ん……」
誰かの呼びかける声と、頬をパチパチ叩かれる感覚にデリツィアの意識は深い闇から浮かび上がる。
重い目蓋をゆっくりと開いていき、そうして暫くは寝起きのせいか無駄な思考を垂れ流したままボーっとする。……あー、ここはどこで、私は誰だっけー?
――と、そこで彼女は、ようやく自身の目の前に途轍もない美しさを持った女性が一人いることに気づいた。
「……。…………え? ――会長っ!?」
呆れたように溜息を吐かれ、反射的にデリツィアの意識は完全覚醒する。
……気が付けば、一筋の汗が頬をたらりと滴っていき、更には心臓もバックンバックンと鳴り出していた。
だが無理もない。
何せ彼女の目の前で呆れたように溜息を吐いている女性こそ、デリツィアの務める組合の全てを取り仕切っているトップ――即ち、組合会長であったのだ!
おまけにこの女、ただの組合会長という枠にも収まらず、他にもヴィーランを動かしている全ての施設や機関など、そのトップを兼任している支配者であり……極論を言ってしまえば、この街で暮らす人々は全てが部下同然と言っていいほどの存在でもあった。
“聖騎士グレゴリオに続く第二の支配者”という話は、実際ヴィーランにおいては誰もが知っているほど有名な話で……つまりどういうことかと言うと、単純な話、彼女に逆らえばこの街では生きていけないということなのである。
「はぁ……やっと起きたようですね、デリツィア」
その支配者が、心底呆れたとでも言いたげな眼差しで自分を見てくる。
――もしかして知らぬ間にヤバい事でもやっちゃった!?
寝起きのせいで記憶も曖昧なデリツィアは、思わず緊張のあまりに喉をゴクリと鳴らす。
「そう緊張しないでください。ちょっと聞きたいことがあるだけですから」
「……聞きたいこと、ですか?」
組合会長の言葉に、再度ゴクリと喉を鳴らすデリツィア。
(聖騎士グレゴリオ様が有する騎士団レベルの強者で形成された斥候集団を部下に持っているはずの組合会長でも知らないようなことを私に?
もしかして知ってはいけないような情報を知ってしまったがために、私はこれから口封じとして殺されるとか? まさかこれはその事前確認?)
嫌な想像が、サーッと脳裏を過ぎっていく。
そのせいでデリツィアは緊張どころか心の底から湧き上がってくる恐怖に身を震わせることとなったのだが、ここで無視するという選択肢もない。
故に仕方なく、彼女は恐る恐るとだが組合会長に話の続きを促した。
すると、またしてもそんな彼女の態度を察したのか、組合会長は優しく微笑みつつ「それほど難しい質問でもありません」と、デリツィアの緊張や恐怖を解すかのように前置きして――続ける。
「――ここで何があったのか……それだけを教えてください」
ニコニコとした笑顔で……しかし、じぃッと見つめてくる目には、数瞬前までは確かに存在していた緊張や恐怖感といったものを和らげようとする微笑みが欠片も見当たらず、まるで嘘は許さないとでも言いたげな厳しい眼差しと化していた。
最初に大して難しい質問でもない、とは言っていたものの……どうもそんな組合会長の態度を見る限り、それほど軽く考えて済ますことのできる問題でもなさそうだ。
むしろ誰が見ても、これは一発で重い問題であると理解できるだろう。
なのでこれには、流石にこれまでの流れで実は権力者に弱い小心者であると判明したデリツィアも、今度こそ緊張のしすぎでぶっ倒れてしまうんじゃないかと思いきや……
(組合で何があったのか、って……え? どういうこと?)
残念ながら、彼女には組合会長が何を言っているのか理解できていなかったらしい。
……いや、この場合は幸いなことに、と言うべきか。
何せ、そのお陰でデリツィアは無駄にぶっ倒れずに済ますことができたのだから。
ともあれ……彼女は改めて組合会長の質問について考えを巡らす。
そもそも彼女の思考は寝起きのせいもあって、未だに記憶がハッキリしていないのだ。
だから自分がどうして組合の受付で意識を失っていたのかも分からないし、ましてや意識を失う前に起こった出来事なんかも分かるわけがない。
(でも辺りの惨状を見渡せば、“何かがあった”ということだけは確実……本当に何があったんだろう……)
うーん、と首を傾げるデリツィア。
一方で組合会長は、相変わらず笑っていない目でそんな彼女の様子を無言で見つめ続けている。
周囲の惨状が惨状のため、微妙に血の匂いまで漂っている中で、そうして無言の時間だけが過ぎていく……。
……客観的に見て、そこには実に不思議な光景が出来上がっていた。
――と、その時。
「――あっ……」
何かに気がついたかのように、デリツィアは思わず声を上げる。
それは、ふと彼女が何気なく自身の顔に手をやり、そしてやっぱり何の意味もなく顔から手を離した後の事。
べっとりと自身の手に付着した大量の血液……と、そんな思わず冗談かと疑いたくなるような代物が彼女の視界に映り込んできたのだ!
……出血した記憶もない人間が、いきなり流した覚えもない自身の大量の血を目にする。
正直、突然そのような状況とぶち当たっても、当人からすれば混乱以外に反応のしようがない。
故に今度こそ、小心者なデリツィアは一瞬で混乱の極致に達して反射的に悲鳴の一つでも上げるものかと思われた……が、予想に反して彼女は悲鳴を上げるどころか、目を見開いたまま固まっていた。
(血……私の流した、血液……これは――――)
呆然と己の掌を見つめ続ける彼女は、その瞬間――文字通り全てを思い出す。
――突如、組合に現れた“異教徒”……瞬き一つの間に出来上がった“惨劇”……組合最強に容赦なく振るわれた“圧倒的暴力”……そして何より、受付で見ている事しかできなかった自身へと迫り来る“絶望”ッ……!
「あ、あぁ……いやぁああああぁぁぁああぁぁあッ……!」
それら全てを……自らが味わう羽目となった絶望の記憶を、デリツィアは掌にこびり付いた赤黒い血液によって思い出す!
(――間違いない! これは……あの時、最後に異教徒の攻撃を受けた事で流れた私の血……! 周囲の惨状も、間違いなく異教徒が暴力の限りを尽くしたことで生まれた光景ッ……!)
甦る恐怖に、自然と涙までもが流れ始める。
生き残れた事に対する安堵、悪夢を思い出してしまったショックなど……直接胸に痛みが走るくらい、思うところは言葉に尽くせないほど多い。
故にデリツィアの涙は、それから暫くの間に亘って止まることなく流れ続けることとなり……必然的に組合会長との会話も、それまではお預けとなってしまうのであった。
……。
…………。
「――では、改めてここで何があったのかについての説明をしてもらえますか?」
やがてデリツィアの情緒も安定し、すっかり落ち着いたと判断可能な状態になった頃。
今に至るまでずっと笑顔のまま黙っていた組合会長も、ここで上手く再度問いかけるタイミングを掴んだのか、改めて彼女にそう切り出してきた。
勿論、混乱も恐怖もほとんど収まり、心身共にすっかり回復してきたデリツィアが組合会長の問いを拒否する理由もない。
そのため彼女はすぐさま意識を切り換えると、決して忘れもしないあの絶望の記憶をポツリ、ポツリ、と組合会長に向けて語りだす。
果たして――――
「――なるほど……そういうことですか」
話を最後まで聞き終えた組合会長は、そう言うと少しだけ目を瞑ってから納得したように頷いた。
どうやらその様子を見るに、こうして組合が蹂躙された理由について思い当たることがあったらしい。
……うむ、流石は組合会長! ヴィーランの主要施設から細かい情報までのほとんどを牛耳っているだけはある。
なのでデリツィアもついつい何か説明的なものを期待して、思わず一人だけ納得顔で満足そうにしている組合会長を見上げた。
すると律儀な事に、そんなデリツィアの様子をまたしても素早く気づいた組合会長が、彼女の期待を無視することなく丁寧な口調で説明し始める。
「まず、この組合を襲った異教徒についてですが……これに関しては、話を聞いてすぐにその正体を確定することができました」
「正体、ですか?」
「えぇ、――黒髪黒目に全身を纏う黒い衣装、極めつけは異教徒と……ここまでの特徴を挙げれば、自ずと答えも分かってくるのではないでしょうか?」
「え? それじゃ……もしや、やっぱり……?」
「おや……? ……ふふっ。その様子を見るに、どうやら始めから薄々と気づいていたようですね。
――えぇ、そうです。あなたの考えている通り、その異教徒の正体は“黒の神敵”以外の何者でもありません。
それに組合を一瞬でこのような惨状へと変えられるのも、この街の中で言うと聖騎士グレゴリオ様を筆頭にその騎士たちや私、つまり我々女神シェルミール様の加護を受けし者だけであり……けれど私たちの中の誰かによる攻撃はそもそもメリットなどもなく有り得ないため、当然のようにその選択肢をを除いて考えてみれば……ほら、まず間違いなく彼の“黒の神敵”にしかできない事でしょう?」
(まぁ何より、先ほど敗走してきた第二騎士団の面々から此度の戦闘結果を聞いていたからこそ、こうして確信を持って異教徒の正体が件の“黒の神敵”であると断言できたわけですが……けれどこれは極秘情報でもありますし、どうせ彼女にこの事を言っても混乱を招くだけでしょうから言わない方が良さそうですね)
ともあれそうして話を一段落させたところで、組合会長は会話の流れを一旦切ることにした。
これ以上重要な話を続けても、対話相手であるデリツィアの理解がついてこれないと判断したためだ。
お陰で、このように組合会長から十分に話の内容について思考する時間を貰ったデリツィアは、『“黒の神敵”なら聖騎士グレゴリオ様が率いる数万もの討伐軍によって、もう今までの神敵のように討伐されているか、そうでなくとも終焉の森近くで足止めされているかで、この短時間で街の中にいると考えるのはおかしいのでは?』――と話を聞いている最中に、ついそのような疑問を持ってしまっていたようだったのだが……しかしどうも組合会長の言葉を聞いていると、その“黒の神敵”はどういった手段かまでは知らないが、本当にあの閣下の包囲網をも潜り抜けて既にこの街へと侵入してきているらしいとようやく理解する。
……というかよくよく思い返してみれば、あの異教徒の戦闘力は正しく噂に聞く“黒の神敵”とでも言わなければ納得できないほどの強さだった。
そうだ。確かにあれは“黒の神敵”と言われなければ納得できないし、事実そうであったのだろう。
デリツィアは納得した。と、そこで――――
(……。――あれ?)
聖騎士グレゴリオ様のいない時に限って神敵が侵入している……って、これはもしかして非常にマズイ状況なのでは? ――と。
不意にデリツィアは、そう思う。
直接“黒の神敵”の戦闘力を見た身として、彼女は少しだけその問題の深刻さについて少しだけ考えてみて……結果、そう深く考えずともヤバイ事になるとだけが分かり、全身をまだ見ぬ恐怖に震わせることとなる。
(ヤバイ……これは本当にヤバイ! それこそ死ぬ気で何か対策でも立てないと……!?)
全力で思考を働かせるデリツィア。
今の彼女には、精々聖騎士グレゴリオの帰還を期待してその時まで“黒の神敵”をヴィーランに足止めしておくといった方法しか思いつかない。
だが、現実的に考えてそれは無理だ。
そもそも組合最強と思われていたベルザリオですら瞬殺した相手を、一体誰が足止めし続けられるのだろうか。
故にデリツィアは思わず、思考の整理が完了するまではとりあえず自分のことを無言で待ってくれるつもりでいたのだろう、組合会長の顔を涙目で見つめ上げる。
「か、会長……ど、どうすれば……私たちは一体どうしたらいいのでしょう?」
「…………はい?」
とはいえ、突然そのように言われた組合会長としては当然、首を傾げざるを得ない。
……いや、何故デリツィアがこのような事を唐突に言ったのか自体は分かるのだ。
人の顔を見てその表情から考えている事を読むことに長けている組合会長からすれば、彼女が『グレゴリオ到着まで如何にして神敵を足止めしていられるか』といったことを考えているのは最初から全部筒抜けだったのである。
でも……残念ながらこの組合会長、根っからの天才肌だった。
そのため彼女が不安がっている事は分かるものの、何故そうなったのかが全く分からない。
おまけにもう一つ言わせてもらうと、この両者の間には決定的な認識の違いがあったのだ。
即ち――現状、ヴィーランで唯一“黒の神敵”に対抗できるとデリツィアが考えている聖騎士グレゴリオの死。
つまりグレゴリオという名の希望が未だ残っていると思っているデリツィアは現段階に至っても己の生存を信じることができ、しかしその一方で討伐軍及び聖騎士の死亡を知っている組合会長からすると、生きる希望も何も既に絶望的な未来しか残っていないと理解していたのである。
……まぁ、とは言いつつも別に両者の間に認識の違いがあるからと言って、何か問題があるわけでもない。
重要なのは“黒の神敵”に対する彼女たちの最終的な選択であって、その過程における誰かさんたちの苦悩なんてものはハッキリ言ってどうでもよかった。
生きるか、滅ぶか……彼女たちがすべきことは、その究極の二択のどちらかを選択することだけ。
けれど、現実では当然のように選択肢などが現れるわけもなく……それ故にこそ、これからの彼女たちは行動の一つ一つに気をつけて行かねばならないのだ。
それも、例えばこんな時――――
「――報告です。会長」
ふと会話が途切れたタイミングで、狙ったのかどうかは知らないが唐突に組合の扉が開き、やけに気配の薄い男が入ってきた。
――言わずもがな、それは組合会長が率いる大勢の部下たちの中の一人で……更には公然の秘密として有名な諜報部隊の者である。
実はデリツィアと接触する前、敗走してきた第二騎士団から“黒の神敵”について聞いた組合会長がその神敵に危機感を抱き、事前に潜伏場所を調べ上げるよう部下たちに命令を出していたのだ。
なので恐らく、この男も“黒の神敵”の潜伏場所がついに判明したからこそ、諜報部隊を代表して送られてきた者なのであろう。
キリッと真面目な顔になり、そうして部下と向かい合った組合会長。
そのまま無言で報告の続きを促し、促された方の男もそれに逆らわず静かに口を開いた。
「“黒の神敵”の潜伏場所が判明しました。どうやらとある宿屋にて、その宿屋を経営している者から直接匿われているようで……」
「なるほど……このヴィーランで異教徒を匿う者がいるとは驚きですね。ましてや、それが私から許可を出さなければ経営することすらできない宿屋の者が行っているとは……信じ難い話です。
――で、誰ですか? その愚かな裏切り者は?」
全く、本当に信じられない話だ。
その言葉通り、組合会長は部下同然とも思っていた宿屋の経営者たちの中から裏切り者が出た事に、心の底から怒りを感じていた。
故に、思わず僅かに怒りが込められた眼差しを部下である男へと向けてしまったのだが……何故だかそれに対する男は彼女の怒りに反応して怯むことも、或いは迫力に負けて即答したりすることもせず、かなり逡巡した様子を見せる。
「それが、実は……その……」
「……どうしました? 最後までハッキリと言ってください」
ついに苛立ちを隠しきれず、組合会長は威圧的な口調を表に漏らしてしまう。
どうやら部下同然の者による裏切りを聞き、そこへ更に直属の部下である諜報部隊の者までもが自身の望むハッキリとしたスムーズな報告をしないため、苛立ちが結構なところまできてしまったようだ。……実は隠された性格として、短期であるということが発覚した瞬間でもある。
ともかく、そうして上司から強引に急かされた男は――葛藤の末、ついにその裏切り者の名を口にした。
「……。……っ――リオネリアお嬢様です」
「……はい?」
だが、それを聞いた組合会長は途端に全身の動きをピシリッ……と止め、今までに見たこともない呆然とした様子のまま、ついそのように部下である男へと聞き返してしまう。
しかし――それも無理もない。
なんせ男が口にした裏切り者の名――リオネリアという人物は、紛れもなく組合会長の娘の名であったのだ。
それが例え、自身の娘とは認めがたい存在であるとしても……娘が娘であるという事実に変わりはない。
……できれば聞きたくなかった、そんな現実。
けれど……そんな認めがたい現実も、部下である男の次の一言によって強制的に認めざるを得なくなった。
「ですから! リオネリアお嬢様なのです! よりにもよって最悪の異教徒を……“黒の神敵”を匿い、更に現在も匿い続けているその場所が――リオネリアお嬢様の経営している宿屋なのですッ!」
「…………そう」
短くそう答え、組合会長は必死な様子で訴えかける部下の男を見る。
恐らく……というか間違いなく、彼は嘘を言っていないだろう。
つまり、娘は――リオネリアはどう言い繕っても裏切り者以外の何者でもないのだ。
ギリィッ……! と、全く思いもしなかった予想外の展開に組合会長は思わず歯を食い縛った。
(生まれた時から致命的な欠陥を抱えていたせいで使えない存在になるだろうとは思っていましたが……それがまさかここで裏切り者の名として聞くことになるとは……全くこの娘はどうしてこうも愚かなのでしょうか?)
果てしない怒りと殺意が内心で渦巻く。
――だが、彼女は知らない。
新たに情報が判明する時……即ち、今この瞬間こそ、実は未来の選択が為される時であることを!
生存か、滅亡か……それが今この時からの選択により、全てが決まるのだ!
果たして――――
「――あ、あの……会長? それで、どういたしますか?」
これまでの会話を傍でずっと聞いていたデリツィアが、恐る恐ると組合会長に今後の方針を尋ねる。
“黒の神敵”は放っておけない。だが、その神敵がリオネリアによって匿われている今、自分たちはどうするべきなのか……と。
それは……図らずにも運命の選択となる問いであった。
けれど、当然のようにそのことを知る由もない組合会長は、既に答えは出ていたとばかりに軽く沈黙して格好ばかりの思考する姿を見せ、そうしてすぐに口を開き――――
「丁度いいです。実はこの後タイミングのいいことに娘が私の所へとやってきます。“黒の神敵”に関する詳しい話はどんな手段を使ってでも、そこで全て聞き出してしまうことにしましょう」
「それでは、最終的にリオネリア様と“黒の神敵”は……?」
冷酷な決断を下す組合会長に、デリツィアは更に深く問いかけた。
……その返答が、この街における全ての運命を決定づけることになるとは知らずに。
デリツィアは、ただそうすることが正しいとでも言うかのように、組合会長へと運命の選択となる問いを投げかけてしまう。
果たして、彼女の選択は――――!
「――そうですね……。生まれてから今まで、一度も役に立ってこなかった娘ですけれど……最期くらいは私たちの役に立ってもらいましょう。
情報を引き出し次第、殺害処分してください。
黒の神敵に関しても同様です。どの道、私たちには既にいろいろな意味で退路はありません。リオネリアから情報を引き出した後、彼女の宿屋へと直接夜襲をかけに参りましょう。……流石の“黒の神敵”といえど、睡眠中の不意打ちであれば隙を見せるでしょうからね。
では、――そのように。
全組合所属のメンバー、及び戦闘可能な部隊の面々に通達を――――」
――と、そこで一拍を置く組合会長。
そして、運命の一言は解き放たれた――――
「――我々の手で、“黒の神敵”を討ちます」
――――彼女たちは、滅びへの道を選択した。




