014.悍ましき階層と二ヶ月ぶりの食事
謎のダンジョン、第二階層。
一階層目をゴブリンの階層だとすると、そこは一言で言えば“豚”の階層であった。
ただし――――
「――ぅ、わぁ…………コレハヒドイ」
……その全ての“豚”が……――極度の肥満体を持つ、中年を過ぎたぐらいの男の身体に、けれど頭部だけが豚そのものである――これまたとてつもなく醜い、全裸の豚人間だったわけなのだが。
おまけに今回は上のゴブリン共と違い、最初から同じ空間内に千体以上も密集しており……端的に言うと、吐き気を催すレベルで気持ち悪い上に悍ましい光景が、そこには存在していたのである。
あまりのヤバそうな光景に流石の俺も二階層への最後の一歩を踏み出せず、そのまま階段の最後の段に立ち尽くしたまま、今に至るまでずっと呆然としてしまっていたほどだ。
そんな俺の呆けた姿に、もしかしたら多くの人が敵を前にして油断しすぎだろうと思ってしまうかもしれない――――が、むしろ俺はそれに対し、一言だけでもいいから声を大にして言いたい!
『だって仕方ないだろ!?』――――と、視線を目の前に広がる光景へと向けながら……
そうして視界に映るのは――――
「ブヒィィィイイイッ!」
「「「「「ブヒィィィイイイッ!!」」」」」
――――豚。
「ブヒっ! ……ブヒブヒ」「ブヒィ、ブヒィ!?」「ブモっ?」「ブ、ブヒィィィ……」「ブモ♪」「ブヒっ? ――ブヒャ~……(はーと)」
――――それも先ほど説明した通り、毛深いやつから無毛まで揃った醜い中年男の身体に豚の頭部を持つ……ゴブリン以上に気持ち悪い、豚人間。
本当に、気持ちが悪い。
だが……――それだけであれば、俺はまだ我慢はできる。
ただ、問題は――――
「――…………ゥ゛! ――ォェェェエ゛エ゛エ゛ッ……!」
問題は、目に入った光景が到底そのような優しいものなどではなく(そもそも豚人間は存在しているだけで優しくないのだが)、もっと悍ましい……もっと気持ち悪いものであったということだ。
具体的には全裸の豚人間が互いの……と言っても前後左右の全ての方向から、その全身を物理的に押し付け合ったり擦り合わせたりしており……更にはそれだけでも十分以上に気持ち悪いのに、一部の豚人間がオス同士で何やら如何わしい行為を其処彼処で堂々と始めていた――――と、そういう光景を俺は諸に見てしまったのである。
……思わずその場で胃の中身を全力で吐き出してしまっても、それは仕方がない事だよな?
同様の理由で、その後暫く呆然としてしまっても……多分、俺の気持ちを理解できないということはなくなっているんじゃないかと思う。
要するに俺は、それほどまでに気持ち悪くて、悍ましくて、そして何より形容しがたいレベルの最低で最悪の衝撃を真正面から受けてしまった――ということであった。
「あ゛ぁ゛~……くそッ、もう何週間も何も食ってねぇから腹の中も空っぽだってのに……限界を超えてまでこの俺に胃の中身を吐き出させるなんてなァ……――間違いなく、目の前にいる奴らは強敵だ。少なくとも……俺にとっては、な……」
豚人間共が押し合い圧し合い愛し合い(!?)をしている二階層に全力で背を向け、何もない階段の奥を見つめながら独りごちる。
なぜならそうでもしていないと、また喉奥から吐き気が込み上がってきてしまうからだ。
だからこそ俺は、急ぎその場で息を整え、そうして必死に頭の中から先ほどの光景を追い出そうと、別の事について思考を回し始めた。
まず、俺の記憶が正しければだが……目の前の豚人間は、確かゴブリンに続くファンタジー世界における有名なモンスター、“オーク”という存在のはずだ。これも昔、幼馴染に散々聞かされていたから覚えている。
人類の成人男性の肥満体に豚の頭部……それが、話に聞いていた豚人間の特徴だった。
そして確かに、結果としてその特徴は見事なまでに当て嵌まったわけだが――――悪いことに現実のオークは決して幼馴染が語るほどマイルドな存在ではなく、むしろそれ以上に酷い存在であったのである。
だらだらと豚顔から垂れ流し続ける涎に、同じく垂れ流し状態の汚い糞尿。
もちろん人類の成人男性がモデルである下半身は何かで覆い隠すことなく露出したままであり、更に仲間同士のオークで擦りつけ合っていることからも見て分かるように、衛生的にも俺の視覚的にも最悪の光景だ。
……そりゃ、モンスターだって一応生き物(?)に区別されるべき存在だろうし、排泄や食事も当然することなのであろうが……それでも、ここまで現実的にされてしまうとねぇ?
おまけにモンスターの中でも随一の性欲を誇るとも言うし…………まぁ、実際にオス同士なのに何やらヤリ始めているくらいだしなぁ……
……。
うん。余計なことを思い出してしまった。
くそッ、本当に気持ち悪い……
「……ォェッ……」
故に、自然の流れとして俺は吐いた。
最早胃の中には何も残っていないはずなのに限界を超えてまで俺は、その場で再び吐いたのである。
――そして、それから約一時間後。
「……とにかく、だ」
口元をスーツの袖でグイッと拭いながら、ようやく俺は重度の精神的な衝撃から立ち直る。
『第十五兵装:最終究極紳士服』の固有能力である【再生】と【反射】と【快適】により、口元に付着した汚れも一瞬にして消え去った。
具体的な理屈は不明だが、このスーツの固有能力のお陰で俺は常に清潔な状態を保てている。実に便利で素晴らしい代物だ。
何より……これで俺も、心置きなく動ける。
「そろそろ始めるとするかァ……第二階層の制圧――オーク狩りをなッ……!」
宣言すると同時にサッと背を翻し、悪夢のような光景へと向き合った。
……相変わらず、精神的に大きな負担をかける酷い光景である。が、しかし!
目の前に敵が立ち塞がる限り、例えそれがどんな相手でもぶっ殺すと俺は心に誓ったのだ。
だから……――俺は絶対に退かない!
下等な豚ごとき……とそれに付随する障害(精神的なダメージ)など、この俺の敵ではないということを今ここで証明して見せよう!
「……ッ……ぅ、うぉォォォオオオッ……!」
雄叫びを上げながら、意を決して階段から第二階層へと飛び出した。
すると――――
「――う゛ッ……!?」
途端に、強烈すぎる汚臭が俺の嗅覚を襲う。
かつて俺がまだ地球という平和な世界で暮らしていた頃に嗅いだ、世界で最も臭い食べ物のシュールストレミングよりも倍以上に酷い汚臭である。
或いは、それも一種の化学兵器と言えよう……
多分この汚臭も、汚いオーク共が超長時間も密集しすぎたせいで、ある種の缶詰め状態を生み出された末に起こった、原因不明で理屈不明の摩訶不思議な化学変化により出来上がったモノなのかもしれない。
実にファンタジーで、けれども恐ろしい話だ。
なぜならば……その意味不明なモノにより俺の足は完全に――強制的にオーク共の目の前で止まらされることとなってしまったのだから。
そう――つまり今の俺は、わざわざ敵に無防備すぎる隙を晒してしまっているという、非常にマズイ状態であったのだ。
当然、即座にそのことに気づいた俺は、一度態勢を整えようと後方の階段へ下がろうとするが……動かない。
汚臭が酷すぎたせいか、ショックで身体が完全に硬直してしまい……結果、何と――全身を自由に動かせなくなってしまったのである!
(くッ……この、くそがッ……!)
肝心な時に何故こんな……!
儘ならぬ自身の肉体に、内心で悪態を吐く。
懸命に身体を動かそうとするも、ビクともしない。
そして、ふと意識を敵の方へ向けてみれば……
「フゴ? ……ブヒッ!? ブヒィィィッ!」
(あぁ……くそッ! 気づいてやがる……!)
既に何体かのオークが俺の存在を認め、興奮したように鼻息を荒くしていた。……うん、普通にキモイな。
恐怖心はなく、けれど後悔だけが心に渦巻く中、ゆっくりと近づこうとするオーク共を見ながら……しかし俺はそれらを一旦思考の隅に置くことで半ばほど無視し、そうして冷静になった意識を己の内側へと向ける。
それで分かった事だが……恐らく身体自体の支配権は、すぐに戻ってくることだろう。そこだけは、自分のことだから何となく感覚だけで理解することができた。
しかし、だからといって素直に喜んでもいられない。
なぜなら、今の俺が問題としているのは、僅かとはいえ敵の前で決定的な隙を晒すような真似を仕出かしてしまったことであるからなのだ。
なんせ、もしも一般人だったなら即死していただろう強烈すぎる汚臭であっても、完全に気を張ってた状態の俺であれば身体の支配権を奪われることなく普通に耐えられたはずだったのである。
それなのに、このような体たらく――――
「――くッ……そがァァァアアアッ!!」
――全く。本当に怒りしか湧いてこないな。
ようやく肉体の支配権を取り戻すと同時に、俺は内より溢れ出る自身への怒りを吼えることで解放させた。
これによって一部だけだったはずが、ついにほとんど全てのオークが一体何事かと一斉に俺の方へと意識を向けてしまう――――が、別に構うまい。
どうせ、後にはもう退けないのだ。
ここまで無様を晒してしまった以上、最早俺に取れる手段は完全な八つ当たりになってしまうが……仕方がない。
証拠隠滅として――皆殺しを決行する……!
……。
…………。
(それに、何より……)
ふとそこで、俺は最後に付け加えるようにして思った。
『例えどのような精神攻撃を受けようと、今度こそ俺は絶対に止まらないだろう』――――と。
なぜなら――――
――――ぐぅぅぅ~……
今、再び餓死という危機が俺の身に迫ってきていたからだ。
この非常事態を前にしては、気持ち悪すぎる光景や臭すぎる環境で目と鼻がどうのこうのは些細な問題となる。
ここで重要なのは、ただ一つ。
俺がいかにして餓死という危機を回避するか……それに尽きた。
とはいえ、食料などはどこにも見当たらないし……――はっきり言って、助かる方法なんて何も浮かばない。
実際に、『空腹を誤魔化すためのガムは今に至るまで休むことなく噛み続けていたわけだし……今更空腹をどうにしようとしても、流石にどうしようもないのでは?』――と、少し前には本気でそのように考えており、半分以上は諦めていた。
が、しかし。
突如として、目の前に群がるオーク共を見て俺は閃く。
そういえばファンタジー料理の中でも、豚人間って割と高級食材として取り扱われていたという話を何回も幼馴染から聞いたなぁ……と、思い出したのである!
「……。じゅるり……」
目の色が変わったのが、自分でも分かる。
でも食欲は、どうしても抑えられないのだ。
着々と距離を詰めてくるオーク共が、全て採集前の美味そうな豚肉(理性が薄れてきたため、意味不明状態)にしか見えない。
俺は思わずニヤリとした笑みを浮かべて……
……。
……ともあれ、こうして謎のダンジョンの第二階層における戦いは始まったのであった。
一歩目。
ザッと片足を前へ踏み出す……と同時に全力でもう片方の足で地面を蹴り、急加速。
一瞬で音速の域に到達した勢いのまま、俺は最も近い位置で叫び声を上げようとしていたオークの首元に巨剣……『第二兵装:我喰』をそっと静かに添えて――――
――――バヅンッッ……!!
「ブヒ――――ィ!? ブ、モ? ……。……」
躊躇なく首を一息に刈り取った。
大きく目を見開いたまま、オークの首が空中に飛ぶ。
一拍遅れて噴き出た血の色は……――よかった。ゴブリンとは違って赤色だ。
もしこれで血の色が緑色だったとしたら……まぁ餓死してしまいそうな今だからこそ、最終的に結局は食べるんだと思うが、それでもやっぱり食欲自体は大いに減衰することだろう。
逆に赤い血は、魂自体に“復讐”という強い想いが刻まれてしまったせいか、どれだけ見ても問題はない。むしろ俺の抑圧された様々な興奮を強制的に呼び覚まされるくらいである。
本当、オークが赤い血で助かったぜ。
「クハハハハハハハッ!」
どうせ、どのような汚れであろうと『第十五兵装:最終究極紳士服』によって一瞬で消えてしまうことだし……という理由もあり、俺は全身でオークの真っ赤な血を盛大に浴びながら愉快愉快と大声で笑う。
そうして笑いながら四メートル長もある巨剣『我喰』の切っ先を、スッ……と両手で左腰へ入れるようにして構え直した俺は、すぐ近くにまで接近した何体ものオークを視界の端に留め……――――
――――二歩目。
ドンッと右足を全力で地面に叩き付け、思いっきり溜めた腰をその場で大きく捻る。
それと同時に、右手も巨剣『我喰』の柄を握り締め、そのまま居合の要領でそれを――抜き放った。
――――バシュゥゥゥンッ……!!
一閃。
ただし、[鬼神の力]によって身体能力が限界を超えるレベルまで超強化されたため、亜光速で振り抜かれたそれは文字通り必殺の一撃となり、空気ごと引き裂く凶悪な音を響かせながら敵を襲う。
当然、たかがオークごときに俺の一撃を止められるはずもなく……
「く、くはッ……クハハハハハハハハハッ!」
近くにまで接近していたオーク共は勿論、だがそれ以上に……何と半径一キロほどに亘って存在していた凡そ一千体ものオークを、その一閃だけで――俺は斬り殺していたのだ。
目視できる範囲内(半径一キロが限界)にいる全てのオークの上半身と下半身が一瞬で断たれてしまう光景は、己の所業でありながらも恐ろしく感じ……けれど同時に、それをも上回る愉快な気持ちを覚えた。
故に、俺は内心を隠さず盛大に笑う。
故に、俺はそのまま流れるようにして――――
――――三歩目。
視界内にいる全てのオークを狩れたのは、僅か数瞬前の事。
なぜなら、数秒も経たずにもうオーク共が洞窟の奥から大量に、それこそ虫の様にうじゃうじゃと湧いて出てきてしまったからだ。
……どことなく前回の、第一階層のゴブリン共を彷彿とさせる光景だった。ついでに、気持ち悪さもまた……方向性は違えど、どちらも悪い意味で突き抜けたモノであった。
ともあれ……その光景を瞬時に認めた俺は、片手だけで巨剣を振り切っていた体勢を実に自然な動作で、頭上に大きく掲げる大上段の構えへと変える。
視線は、相変わらず湧き続けるオーク共を黙ったまま見つめ……やがて敵の数が再び一千体に達する頃、ようやく、俺は口を開き――――
「――“一千体”……か。丁度いい、ならば“二千体”のゴブリンの力……ここで試してみようではないか」
――と、その言葉を機に……大上段に大きく構えた巨剣『我喰』が強く、とても強く光を放ち始めた。
『第二兵装:我喰』の固有能力――【吸収】。
それが、対象をエネルギーとして分解し吸収するという能力であることは、既に言わずとも知れていることだろう。
だが……実はそれに加えて、『我喰』にはもう一つの力が隠されていることは……流石に誰も知らない。
そして、その力こそが――――
「ハァァァアアア……ッ! 消し飛ばせ、『我喰』ッ! ――“護武躙砲”ッ……!!」
――【吸収】の副次効果による力。単純に『我喰』へと吸収されて、溜めこまれたエネルギーを放出する力なのである!
そうして大声で自身の素晴らしすぎるネーミングセンス(と、ジャックは思っている)を披露するのと同時に、俺は、緑色の光……まさしくゴブリンそのものと言える、汚らしい色の光で輝く巨剣『我喰』を――洞窟の奥から湧き出てきた一千体のオーク共に狙いを付けるようにして…………一気に振り下ろした。
刹那――――
――――キュィィィ……ンッ!
――――チュ……ドォォォオオオンッ!!
一瞬で視力を奪うレベルの閃光に、聴覚をも一時的に封じてしまうほどの炸裂音や爆裂音……及びそれに伴う破壊的すぎる威力を誇った爆風や、同じく全てを崩壊させるくらい強力な震動が、行き場のない洞窟内で縦横無尽に暴れまわる。
これには一千体もいたはずのオーク共も一切の抵抗をすることができず、あっという間に爆風と振動に呑みこまれ……木端微塵となりながらも散っていった。
これこそ雑魚だと思っていたゴブリンの魂、二千体分の威力である。
想像以上の威力に、俺は少しばかりゴブリン共を見直した。
とはいえ――――
「――ぅおッ、やべ……!」
その直後には俺自身も『護武躙砲』の影響を諸に受けることとなり、余裕ぶった思考もそこまでとなる。
全方位から襲いかかってくる破壊的な力に関しては、自身が身に纏う『最終究極紳士服』のお陰で無視できるが……正面からぶつかってくる爆風だけはどうしようもない。
そのため……
それに対して即座に反応した俺は、ザンッと自身の手に持った四メートル長の巨剣『我喰』を地面に突き刺すことで柄の部分に素早く掴まり、何とか爆風によって飛ばされそうになった我が身を守りきる。
そして――――
「……。……ようやく終わった、か……」
――全身に感じていた風が、やがて完全に消え去ったことに気づく。
吹き荒れる風で目に砂などといった不純物が入らぬようにと、しっかりと閉じていた目蓋を少しずつ開けながら、俺は誰ともなくそう呟いた。
周囲の様子を探ろうと視線を彷徨わせれば……死体。死体、死体、死体。
『護武躙砲』によって、真っ黒な炭になるまで焼け焦げた死体から、美味そうに焼き上がった豚肉の匂いを漂わせる死体までの各種様々なオーク共(死体)が、辺り一面にごろごろと転がっている壮絶な光景が目に入る。
生き残りは当然――存在しない。
洞窟の奥を見ても、オーク共がまた湧き出るような様子は――なかった。
……どうやら今度こそ本当に、第二階層の敵モンスターは全滅したようだ。
……。……そう――――全滅である!
「……く、くく……クハハッ、クハハハハハハハハッ! クハーッハッハッハッハッハッハッハッ!!」
……うん。呆気ないな。
何と言うか――呆気ない。呆気なさすぎる!
あまりの呆気なさに俺は、特に堪えることなくその場で爆笑をし始めた。
だって、その理由も……ねぇ?
(くくッ……まさかたったの三歩と、同じく巨剣を三回振るうだけで敵が全滅してしまうなんてなぁ。……全く――最早呆気なさすぎるのを通り越して滑稽すぎるぜ! クハハハハハハハッ!)
要するに俺が強すぎただけの話なのだが、それでも面白いものは面白い。
そうして暫くの間、俺はずっと笑い続けることになる……
……。
……本当、実に呆気ない戦いであった。
……
…………
………………
……………………
――――ぐぅぅぅ~……!
「――ぬ……」
突如として鳴り響いてきたその音に、ハッとして我に返った俺は数分間に亘って続けていたはずの爆笑もすぐ止めて、ほとんど反射的に自身の腹部――胃の辺りへと目を向ける。
決して忘れていたつまりなんかはなかった……のだが、どうやら笑うことに集中しすぎていたせいで今の自分が空腹で死にそうだという、非常に危険な状態であることをすっかり意識の中から抜け落ちてしまっていたらしい。
気がついてみれば確かに今は、これまで無駄に我慢をしてきた反動のせいか、死にそうなほど腹が減っている。……というか正直、もうこれ以上は立っていられないほどである。
だから俺は力なく、膝から崩れ落ちるようにして(色々と汚い第二階層の)地面の上へとへたり込んだ。
……。
……しかしヤバイな、この状況。
体の力が抜けていく状況とか……いつかの瀕死しそうになった時の再現みたいで、本格的に拙いかもしれない……
(そうだな……とりあえず、何か食べないと)
都合よく周囲には香ばしい臭いを漂わせる“食べ物”がごろごろと転がっていることだし……と、早速俺は一番近くに倒れていたオークの死体へと手を伸ばした。
そして、この極限をも超えた飢餓状態を脱却するため、手に触れたオークの一部分を急いで引き千切り、そのまま素早く顔の前へと持ってくる。
で、いざ口の中に放り込もうとした瞬間――――しかしその時、俺は気づいてしまった。
「…………」
手に持った“食べ物”をまじまじと見つめる。
それは……黒かった。
黒い。ただただ、真っ黒である。
握った感触としても柔らかさなどは微塵もなく、むしろ全体的に軽くて固い上に表面上はパサついていて……まったくこれっぽっちも俺の望んでいた肉の要素が見当たらない。
これは……もしかしかしなくても――――
「――“炭”?」
“炭”……つまりは焼肉における最大の失敗作。
現代の人類が唯一行える錬金術――有機物たる“食べ物”を無機物である“食べもの”へと変える行為の末に生み出されるモノ。
それが……――“炭”。
実際に、試しに一口だけ咀嚼してみても――――
――――ガリッ……! ボリボリ、ゴリッ……
――……と、無茶苦茶硬くて苦い。
何よりこれは、普通に――不味いのだ。
本当に他の言葉が思い当たらないレベルで、クソ不味いのである。
(――なるほど)
顔を盛大に顰めて……俺は思う。
『到底食えたものじゃねぇな……炭は』――――と。
そして更に付け加えて、こうも思った。
即ち、『せっかく周囲にはこんなにも美味そうな肉の匂いが漂っているというのに、なぜわざわざ炭を食わなくてはいけないのか?』――――と。
……。
「……(もごもご)……――ぺっ」
ともあれ、そんなわけで俺はすぐさま手に持っていた炭を放り捨て、口の中のモノも同様に吐き捨てる。
そうしてそのまま力の抜けきった体にも活を入れ、勢いよく上体を起こすと同時に、美味そうな臭いを漂わせている肉が果たしてどこにあるのか……と視線を漂わせ――――あった。
例えどれだけ手を伸ばしたとしても、凡そ倒れた状態では決して手が届かないような位置に、目当ての“食べ物”であるジューシーな肉が転がっていたのである。
……そう。何と――かなり遠い位置に、その肉は転がっていたのだ!
(――くッそぉ……)
どう見ても遠い!
体に力が入らない俺からしたら、最早そこまで近づくことさえも苦行でしかないのだ。
されど……近づかなければ、この空腹を決して満たせないのもまた事実……!
さぁ――どうする……!?
「――……。……ふぅっ、行くしかないか……」
決意を固める。
どちらにせよ、今の俺は空腹がすぎたせいで、何もしなくても(飢餓と言う名の)精神的苦痛を常に受け続けており……要するに、動こうが動かまいが最終的に力が尽き果てるという結果は同じなのだ。
それに、この程度の苦痛。あらゆる拷問を耐え抜いてきた俺にとっては、完全に無視できる範囲のものだし、全く耐えられないものでもないしな……
だから……うん、仕方ない――――
「――よい……しょ、っと……」
よろよろと、両足に力を込めて立ち上がる。
両の目はしっかりと遠い位置にある“食べ物”を見据え……やがて静かに、俺は歩き出した。
一歩ずつを慎重に、何より足元に気をつけながら、文字通りに屍の上を越えて行く(炭と化したオークの死体を踏み越えていく)。
正確な距離にして、約十数メートル。
けれども、普段であれば一秒もかからずに縮められるはずの距離が今は妙に遠く感じた。
更にその足取りは困難を極め、まるでゾンビの様にふらふら、ふらふら……と、実に危なっかしい。
……それも全ては、空腹による弊害である。
だがしかし。
そんな一秒が一時間にも二時間にも……はたまた数十時間にも感じられる長い長い苦行も、ついに終わりを迎える時が来た……
俺は、この長い道のりを経ることでようやく……ようやく己の希望たる“食べ物”――ジューシーな焼肉の下へと到達することができたのだ……!
ガシャンっ、と大きな音を立てつつ、なぜか今までずっと片時も手放すことのなかった巨剣『我喰』をその場に落とす。
代わりに、もう片方の手にはいつの間にか顕現させていた『第十三兵装:ネオ・メシア』が握られており――それも次の瞬間には光に包まれ、その姿を槍から十徳ナイフのようなものへと変化させていた。
槍では大きすぎて肉を切り難いし、何より食べにくいという咄嗟の判断によるものである。
ともあれ、食事の準備は空腹のあまりに自意識こそ飛びかけているが……瞬く間に完了した。
故に後はもう、残されたのは待望の食事の時間だけだ。
明滅すら始めている視界に対象の“食べ物”を捉え……そうして俺は、震える手も伸ばし――掠れた小さな声で、一言。
「……あぁ……とても美味そうな肉、だ――――」
意識が朦朧としてきていた俺は、ジューシーな肉の匂いを醸し出すオークの焼死体と相互の距離を徐々に詰めていき……やがて――――
……。
…………。
……正直、その後の事は記憶がないため、ハッキリと何があったのかは覚えていない。
ただ……感覚的に、たった一つだけ覚えているものがあるとすれば……
それは、只々久しぶりに食べることのできた食べ物が、これまで生きてきた長い人生の中でも口にしたことがないようなレベルで――美味いと感じたことだろう。
俺はその時、確かにこれ以上ない満足感に心の奥底まで満たされたのだ。
そしてそれは、そう遠くない中に目覚めてから暫くの時が経ったとしてもなお、続くことになる。
兎にも角にも……
悍ましくも気持ちの悪い第二階層だったが、最後の最後だけは幸福感に満ち溢れていた素晴らしいものであったと思う。
……。
……なお、後に確認したステータスは――――
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名前:霧崎 邪悪 (ジャック=キリサキ)
天能:【狂天】
位階:狂天師 46(↑8up!)
称号:神敵,狂天,アンリミット超神帝国民,復讐者
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――と、位階レベルが僅かに上昇したのみで、実に何とも言えない微妙な結果だけが残った。
……。うん、途中で見つけた宝箱の中身(またしても謎の草束)も併せて、本当に微妙すぎる。
結局、第三階層への階段を見つけて下りる頃には、久々に食った(大体オーク五体分の)肉による幸福感もすっかり薄れてしまっていたのだった。




