二、言ノ葉の心
「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり 花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」
──紀貫之『古今和歌集 仮名序』
文体の中心は心である。心はひとりひとりに違う趣きを持ってその肉体に宿っているものである。ゆえに、文体と云うものの本質が分かるようになれば、作品の趣きを知ることにも繋がる。
別に、或個人を悉く知ることができないように、或作品を完全に理会することはできないかもしれない。受け取り方や、読み手が変われば、作品や個人の印象は変わる。変わり続けることもあれば、変わらないと云うこともある。そういったことには、深く関わることができない。
しかし、或人が「〜なのだ」と云う。別の人が「〜じゃない」と云う。又或人は「〜で、〜で、つまり〜なのだ」と云う。どれも同じことを伝えたい筈なのに、言い方一つで超然としていたり、否定的でナイーヴでいたり、或は屁理屈を捏ねているようにも見えたりする。これは日本語どころか、言語そのものが持つ気質なのである。もちろん、それは人の性格にも依る。作者が作品を書くとき、本人が気づかないところ、つまり言い方に本人の性格が露呈することが能くある。
面白いサイトを紹介しよう。これは、フランツ・カフカの『変身』の冒頭を、他の作者が書いたらどんな風になるだろうかと云う、遊びみたいなものである。しかし、書いている内容が同じであることを踏まえると、実に作者各々の個性が出てくる。多く言葉を費やすよりは、実際に能く観てもらい、その違いを実感してもらった方が早くていい。
『文学館?』
http://www2.ocn.ne.jp/~gimura/zamza.htm#%89%C4%96%DA%9F%F9%90%CE
リンク先に飛ぶのが面倒ならば、以下に私見を載せるので、そちらを参考にしてもらってもよい。
夏目漱石の『吾輩は猫である』と云うタイトルがある。これ自体が独特な気稟を持っているが、このタイトルを変えてみることを考えたことがあるだろうか。『私は猫であります』『わたくしは猫でございます』『俺猫。』……まあ、適当に言葉を入れ換える程度の遊びだが、これをやっているうちに、やっぱり、『吾輩は猫である』の方がしっくり馴染んでいいな、と思うようになれる。少し砕けた感じでやるなら、存外『俺猫。』でも悪くないなと思うのだが、夏目漱石の人生とか、感性を観察してみる限り、「吾輩は猫である」と少し偉ぶっている方がいいなと感ぜられる。その方が、なんとなく滑稽味が増すとでも言おうか。
古典作品の有名な冒頭も、訳次第では「心」、つまり作品本来の趣きを喪うことがある。「春はあけぼの」の冒頭は、『枕草子』であるが、現代語訳だと「春はあけぼのが良い」となるし、漫画版だと「やっぱり春はあけぼのよっ!」とだんだんと軽くなっていく。だが、これは意味だけなのである。「春はあけぼの」とだけ書き、あとに「やうやうしろくなりゆく山際、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。」と綺麗な情景描写に繋げることで、春のあけぼのの景色が、「好い」と云うところを読者に仄めかしている。仄めかしているだけだ。言いたいことは明確であるのにも拘らず、断定的な言い回しをしていない。しかし、そこで表される内容は、読者に有無や賛否を言わせない。ここに言葉を力を感じるのだ。そこを知ろうとしないで、古典の内容や、文の意味だけを求めるのは、藝術観賞の仕方が良くない。仮にそれが赦される場合、『源氏物語』はマザコンロリコン女ったらしの一代記及びその人の生きた社会絵図の展開に他ならない。『平家物語』は平氏が成り上がり、やがて源平合戦で滅びるまでを書いただけに過ぎない。それが、唯にその内容のみにとどまらず、古典として価値有りと見なされるのは、(本当はそれだけではないのだが)言葉の気稟と云うものがあるからだ。それを全てなし崩しにして、「世話に砕けた」言い回しで意味だけが通ずると云うことがどうしてあり得ようか。冠婚葬祭に私服で行く人間のどこに誠意を感じるだろうか? ご飯茶碗にハンバーグを載せて食べるレストランがどこにあろうか? 形の無いものを、人は知覚できないのである。ならば「形」にしていくことが大切なのだ。文体とは「心」を能く映す「形」なのである。
言葉に心を必要とすると云うことを、切実に描いたものがある。以下にリンクを貼っておく。
早川 楓:著『言葉への想い』
http://ncode.syosetu.com/n4303j/