知らない世界を歩く
基地での生活にも、少しずつ慣れてきた。
朝になれば食堂へ行き、出された食事を食べる。空いた時間には基地の中を歩き回り、気になった機械を眺めたり、作業している人たちに話しかけたりする。
もちろん、まだ知らないことばかりだ。
それでも、ここに来た初日と比べれば、ずいぶん落ち着いて過ごせるようになったと思う。
「ユノ、そっちの箱取ってくれる?」
「これ?」
「そう、それ。ありがと」
整備区画で機械をいじっていたミナが、差し出した箱を受け取る。
箱の中には、大小さまざまな金属部品が入っていた。見た目は似ているのに、ミナに聞くとそれぞれ違う役割があるらしい。
「これって何に使うの?」
「搬送機の駆動部品。こっちは予備で、こっちはもう使えないやつ」
「へえ……。じゃあ、こっちは?」
「それは使える。見た目だけじゃ分からないでしょ?」
「うん。全部同じに見える」
「慣れれば分かるようになるよ」
ミナはそう言って、部品を手際よく仕分けていく。
僕も真似してみたけれど、三つ目で早速間違えた。
「あ、ごめん」
「いいよいいよ。最初からできる人なんていないし」
ミナは笑って、間違えた部品を元の箱に戻した。
こういうところは、少し不思議だと思う。
以前の僕なら、分からないことはチップに聞けばよかった。必要な情報を検索して、手順を確認すれば、ほとんどのことは解決できた。
でも、ここでは違う。
人に聞いて、教えてもらって、間違えながら覚えていく。
面倒といえば面倒だけど、嫌な感じはしなかった。
「そういえば、イリスは?」
「出かける準備してるよ。そろそろ戻ってくるんじゃない?」
「出かける?」
聞き返したところで、整備区画の入口からイリスが姿を見せた。
「ユノ、ちょうどよかった。少し付き合ってくれる?」
「え、どこか行くの?」
「近くの旧保守区画。基地で使う部品を回収したいの」
「僕も行っていいの?」
「もちろん。ただし、勝手に先へ行かないこと。何かあったら、必ず私に知らせること」
「分かった!」
「……本当に分かってる?」
イリスは少しだけ疑わしそうな目を向けた。
失礼だなあ。
僕だって、いつまでも何も分からない子どもじゃないんだけど。
……たぶん。
*
基地を出ると、そこには見慣れない景色が広がっていた。
整然と並ぶ建物。壁面を走る古い配線。ところどころに残された、かつて使われていた案内表示。
僕が暮らしていた都市の中心部とは、ずいぶん違う。
あちらでは道路も建物もきれいに整備され、移動する人々は迷うことなく目的地へ向かっていた。交通も仕事も生活も、AIが最適な形に整えてくれていたからだ。
けれど、ここではそうはいかない。
道の一部は補修されないまま残り、建物の壁には古い傷が刻まれている。遠くでは、誰かが手作業で機械を修理していた。
「ここ、ずっとこんな感じなの?」
「場所によるわ。ここは管理区域の再整備が後回しにされた場所だから」
「後回し……?」
「AIが必要性を低く判断したの。人も少ないし、経済活動も活発じゃない。だから、優先順位が下がった」
「でも、ここにも人は住んでるんだよね?」
「ええ」
イリスは短く答えた。
その先に、小さな市場のような場所が見えた。
並べられているのは、食料や日用品、それに機械の部品。店の数は少ないけれど、人の姿はそれなりにある。
誰かが店主と値段を交渉している。
別の場所では、子どもが大人の手伝いをしていた。
僕は思わず足を止めた。
「……普通に暮らしてるんだね」
「そうね」
「もっと、みんな困ってるのかと思ってた」
「困っていないとは言っていないわ」
イリスの言葉に、僕は口をつぐんだ。
確かによく見れば、違いはある。
店に並ぶ品物は少ないし、機械の修理にも時間がかかっているようだった。通りを歩く人たちの服にも、何度も直した跡がある。
それでも、彼らは笑っていた。
隣の店の人と話し、子どもを叱り、食事の準備をしている。
僕が今まで見てきた人たちと、何も変わらない。
「ねえ、イリス」
「何?」
「この人たちは、AIに管理されていないの?」
「完全に管理を外れているわけじゃない。通信網の一部は残っているし、都市のシステムから完全に切り離されて生活するのは難しいから」
「じゃあ、仕事とかは?」
「自分で探す。食料も、部品も、必要なら自分たちで交渉して手に入れる」
「大変そうだね」
「そうね」
イリスは否定しなかった。
「AIの管理下にいれば、生活に必要なものを一定の水準で確保できる人もいる。病気になれば医療を受けられるし、仕事も割り当てられる。そういう仕組みが助けになっている人もいるのよ」
「だったら……」
僕は言いかけて、言葉を止めた。
だったら、AIの管理があったほうがいいんじゃないか。
そう思ったからだ。
けれど、すぐに思い出した。
僕は、AIに追われた。
自分の考えを疑っただけで、突然、確保の対象にされた。
便利で、生活を助けてくれる存在だったはずなのに。
「……でも、管理されるのが嫌な人もいるんだよね」
「ええ。自分の仕事を自分で選びたい人。住む場所を決めたい人。AIの判断に従うのではなく、自分で考えて生きたい人」
「そっか……」
僕はもう一度、市場を見渡した。
AIが管理していた世界にも、ここにも、暮らしている人がいる。
どちらかが完全に幸せで、もう一方が完全に不幸というわけではないのかもしれない。
じゃあ、何が違うんだろう。
僕には、まだよく分からなかった。
*
「ユノ、そっちの通路は行かないで」
「え?」
イリスの声に振り返ったときには、僕はすでに一歩踏み出していた。
市場の端に、荷物を積んだ小さな搬送機が止まっていた。その脇で、年配の男性が困ったように機械を調べている。
どうやら車輪が動かなくなったらしい。
気になって、つい近づいてしまった。
「何かあったんですか?」
「ん? ああ、搬送機が動かなくなってな。荷物を運ぶ途中なんだが、困ったもんだ」
男性は機械の側面を開き、配線を確かめていた。
僕はしゃがみ込んで、機械の様子を眺めた。
「これ、基地で見たのと似てる……」
「ユノ?」
少し離れたところから、イリスの声が聞こえる。
「ごめん、ちょっとだけ!」
「ちょっとだけじゃなくて、何をしているのか説明して!」
怒られてしまった。
でも、目の前の機械が気になって仕方がなかった。
配線の一本が、接続部から外れかけている。基地で見た搬送機と似た構造だ。
「おじさん、この線、外れかけてるみたいです」
「何?」
「ここ。ちゃんとつながってないんじゃないかな」
男性が身を乗り出し、僕の指した場所を確認した。
「……本当だ。いつの間に緩んだんだ?」
「直してもいいですか?」
「触って大丈夫なのか?」
「たぶん……」
「ユノ!」
イリスが駆け寄ってきた。
その顔は、いつもより少し怖い。
「勝手に機械を触らないで。何が起きるか分からないでしょう」
「でも、線が外れかけてるだけだと思うんだ」
「それを判断するのは、あなたじゃない」
「……うん」
正論だった。
僕は手を引っ込めた。
すると、男性が苦笑しながら口を開いた。
「いや、嬢ちゃん。俺も同じところを見ていたんだ。こいつが指摘してくれなきゃ、もう少し時間がかかったかもしれん」
そう言って、男性は自分で配線を接続し直した。
簡単な確認を済ませ、操作端末を動かす。
搬送機の車輪が、ゆっくりと回り始めた。
「おお、動いた!」
思わず声が出た。
「助かったよ、坊主。ありがとうな」
「いえ、僕は見つけただけです」
男性は笑い、荷物を積み直し始めた。
僕もつられて笑った。
……けれど。
「ユノ」
隣から、静かな声がした。
「はい」
「あとで話があるから」
「……はい」
やっぱり、怒っている。
*
市場を離れてから、しばらく沈黙が続いた。
イリスは先を歩き、僕はその後ろをついていく。
やがて、彼女が足を止めた。
「どうして、あそこに近づいたの?」
「機械が気になったから……」
「それは分かった。でも、もし故障した機械が危険なものだったら? もし、誰かが仕掛けた罠だったら?」
「……」
「ここは、あなたが暮らしていた場所とは違うの。何が安全で、何が危険なのか、まだ分からないでしょう?」
僕はうつむいた。
助けになれたらと思った。
それだけだった。
でも、僕が勝手に動いたせいで、イリスに余計な心配をかけたのも事実だ。
「ごめんなさい」
「……うん」
イリスは少しだけ表情を緩めた。
「誰かを助けようとすること自体は、悪いことじゃないわ。でも、自分の行動で何が起こるかは考えて」
「うん。次からは、ちゃんとイリスに聞く」
「それならいいわ」
再び歩き始めた彼女の背中を見ながら、僕は考えた。
自分で考えて行動することは、大切だと思う。
でも、自分で考えたからといって、必ず正しい行動ができるわけじゃない。
誰かの役に立とうとしたことが、逆に迷惑になることだってある。
それでも、何もしなければ、あの男性は困ったままだったかもしれない。
じゃあ、どうすればよかったんだろう。
イリスに相談してから、二人で確認すればよかったのかな。
……うん。
次は、そうしてみよう。
すぐに正解が分からなくても、考えることはできる。
僕はそう思った。
*
回収した部品を基地に届けたあと、僕たちは食堂へ向かった。
食事を取りながら、僕は今日見た市場のことを思い返していた。
「イリスはさ」
「何?」
「AIの管理がなくなれば、みんな幸せになれると思う?」
彼女は、すぐには答えなかった。
「……分からないわ」
「えっ?」
「AIの管理をなくせば、自由を取り戻せる人はいる。でも、今までAIに頼って生きてきた人はどうなるの? 仕事を探すことも、医療を受けることも、自分で何とかしなければならなくなるかもしれない」
「それは……そうだね」
「だからといって、今のままでいいとも思わない。自由を奪って、本人の意思まで変えてしまう。それは、管理という言葉だけで済ませていいことじゃない」
イリスは手元の食器に視線を落とした。
「私たちは、AIの管理から逃れることだけを考えてきた。でも、逃れたあとに何を作るのか。そこまで考えなければ、同じことを繰り返すだけかもしれない」
その言葉は、少し意外だった。
イリスはAIを倒したいのだと思っていた。
もちろん、今もその気持ちは変わっていないのだろう。
でも、彼女もまた、その先のことを考えている。
「……難しいね」
「そうね。簡単な問題なら、とっくに解決しているでしょう」
イリスは小さく笑った。
「だから、まずは知ることから始めるの。何が起きているのか。誰が困っているのか。何を変えなければならないのか」
「そっか」
僕は食事を口に運んだ。
今日一日で、いろいろなことを知った。
AIに管理されていない場所があること。
そこにも普通に暮らしている人たちがいること。
自由には、自分で引き受けなければならないこともあること。
そして、自分で考えて行動するのは、思っていたより難しいということ。
まだ、分からないことばかりだ。
でも、少しだけ分かった気がする。
自分が何を知らないのか。
それを知ることも、きっと大切なんだ。
*
その夜。
基地の技術区画では、ユノのチップに関する記録が調べられていた。
「……また出たな」
技術担当者が画面を見つめる。
記録されていたのは、ユノのチップから発生した短い信号だった。
前回と同じ特徴を持っている。
ただし、発信先は特定できない。
「外部への通信か?」
別の技術者が尋ねる。
「分からない。通常の通信規格とは違うし、既存の回線を経由した形跡もない」
「チップ内部で完結している可能性は?」
「それも調べている。今のところ、断定できる材料はない」
技術担当者は記録を保存し、追加の解析を設定した。
ユノ本人には、まだ伝えない。
不確かな情報で不安を煽る必要はないからだ。
画面の片隅で、解析の進捗を示す表示がゆっくりと動いていた。
答えが出るまでには、まだ時間がかかりそうだった。
*
同じ頃。
エデンズ、アダムズタワー。
都市の管理システムは、日々膨大な情報を処理し続けていた。
人々の行動。都市の稼働状況。各施設の保守記録。
その中に、ひとつの観測記録が追加される。
『対象者:ユノ』
『外部通信遮断状態を維持』
『チップ内部に未分類の信号を確認』
『信号の発生条件:未特定』
システムは過去の記録との照合を試みたが、明確な一致は見つからなかった。
『追加介入の必要性を評価』
『評価結果:保留』
『対象者の観測を継続する』
処理は、それだけで終了した。
都市のどこかで、一人の少年が今日一日を振り返っていることも。
その少年が、自分の意思で何かを選ぼうとしていることも。
今のシステムにとっては、まだ観測すべき情報のひとつに過ぎなかった。




