僕の身体は僕のもの
――カン、カン、カン。
「……ん?」
規則正しい金属音が、ユノの眠りを妨げた。
目を開ける。
見慣れない天井。
むき出しの配管。
そして、昨日と同じ簡素な寝床。
「…………」
数秒間、ぼんやりと天井を見つめる。
「……あ、そっか。ここ、僕の家じゃないんだった」
昨日までなら、起きてすぐに今日の予定を確認していた。
今は、それもできない。
マイクロチップの基本機能は動いているらしいが、外部ネットワークへの接続は制限されたままだ。時刻も天気も、いつもなら意識するだけで表示される情報が、今は手に入らない。
「うーん……不便だなぁ」
とはいえ、いつまでも寝ているわけにもいかない。
ユノはベッドから起き上がり、軽く身体を動かした。
腕を伸ばす。
指を握ったり開いたりする。
脚を曲げ、足首を動かす。
どこにも違和感はない。
「よし。今日も元気!」
自分に言い聞かせるように呟き、部屋を出た。
◇
昨日、イリスに案内された食堂では、すでに何人かが朝食を取っていた。
ユノが顔を出すと、作業着姿の男性がこちらに気づいた。
「お、起きたか。よく眠れたか?」
「はい! あ、えっと……おはようございます!」
「ははっ。ずいぶん元気だな」
「そうですか?」
「昨日は大騒ぎだったって聞いたぞ。五十六階から飛び降りたんだって?」
「うっ……」
ユノは目をそらした。
「……できれば、思い出したくないです」
「そりゃそうだろうな。俺だってごめんだ」
男性は豪快に笑った。
ユノもつられて苦笑いを浮かべる。
「ところで、イリスは?」
「技術室だよ。朝から何か調べてるらしい」
「技術室……」
昨日、マイクロチップを調べた場所だ。
自分の頭の中に何が仕込まれているのか。
その答えが分かるかもしれない。
「……行ってみようかな」
「その前に朝飯だ。腹が減ってちゃ頭も回らんぞ」
「あっ、そうですね!」
ユノは素直に頷いた。
そして、差し出された朝食を受け取る。
温かいスープと、栄養調整された主食。
昨日と同じように、どこかほっとする味だった。
「いただきます!」
食事を始めてしばらくすると、隣の席に一人の少女が座った。
年齢はユノと近そうだ。片腕は機械化されており、手首の部分には交換式の接続端子が見える。
少女はユノの腕をちらりと見た。
「ねえ、あなたがユノ?」
「え? うん、そうだけど」
「昨日、イリスが連れてきた子だよね」
「そうだよ」
「へえ……」
少女は興味深そうにユノを眺めた。
「そんなに普通なんだ」
「……えっ?」
ユノはスプーンを止めた。
「普通って?」
「もっとこう、すごい人なのかと思ってた」
「すごい人?」
「だって、あのイリスがわざわざ連れてきたんでしょ?」
「えっと……僕、昨日まで普通に働いてただけなんだけど……」
「そうなの?」
「うん。設備管理の仕事をしてたよ」
少女は少し拍子抜けしたような顔をした。
「なんだ。じゃあ、私とそんなに変わらないんだ」
「……たぶん?」
ユノは首を傾げた。
どうやら、ここにいる人たちは自分に何か特別な事情があると思っているらしい。
けれど、本人にはまるで心当たりがなかった。
「ねえ、名前は?」
「ミナ。ここで機械の整備を手伝ってる」
「ミナさんか。よろしくね」
「さんはいらないよ。同い年くらいでしょ?」
「そっか。じゃあ、ミナ!」
ユノはにこっと笑った。
ミナは少しだけ目を丸くし、それから笑い返した。
「……変な人」
「えっ、そうかな!?」
「うん。褒めてるよ」
「褒めてるなら、いいか!」
そんなやり取りをしていると、食堂の入口からイリスが顔を出した。
「ユノ。食べ終わったら技術室に来て」
「あ、分かった!」
「ミナ、あまり変なことを吹き込まないでね」
「変なことって何よ」
「あなたが説明すると、話が三倍くらい大きくなるから」
「失礼ね!」
ミナが抗議する。
イリスは軽く手を振り、技術室へ戻っていった。
その背中を見送ってから、ユノはミナに尋ねた。
「……イリスって、いつもあんな感じなの?」
「いつもあんな感じだよ」
「そっかぁ」
「でも、ああ見えて面倒見はいいんだよ。口数は少ないけど」
「うん。それは何となく分かるかも」
昨日、五十六階から飛び降りたとき。
イリスは一度も迷わなかった。
自分を助けるために、危険を承知で飛び込んできた。
あれがどういう意味を持つのか、ユノにはまだ分からない。
けれど、少なくとも彼女が自分を助けようとしてくれたことだけは確かだった。
「……よし!」
ユノは最後の一口を食べ終えた。
「ごちそうさま! じゃあ、行ってくるね」
「うん。頑張ってね、普通の人!」
「それ、絶対からかってるよね!?」
食堂に笑い声が響いた。
◇
技術室では、イリスと昨日の技術担当者が端末に向かっていた。
ユノが入ると、男性が顔を上げた。
「来たか。ちょうどいいところだ」
「おはようございます!」
「おはよう。昨日の検査の続きだが、今日はもう少し詳しく調べたい」
「はい。よろしくお願いします」
ユノは椅子に座った。
作業台の上には、細いケーブルが何本も伸びた検査装置が用意されている。
「……これ、何する機械ですか?」
「チップと神経系の接続状態を確認するための装置だ。身体に負担がかからない範囲で、信号の流れを調べる」
「痛くない?」
「痛くないよ。神経を直接刺激する検査はしない」
「よかったぁ……」
ユノはほっと胸をなで下ろした。
男性が小さなセンサーを額の近くに取り付ける。
続いて、首の後ろと、腕の付け根にも計測用の端子を固定した。
ユノの首はほぼ生身だ。そこを通る神経系と、機械化された四肢をつなぐ人工脊髄の接続状態は、身体を自然に動かすうえで重要な役割を担っている。
「じゃあ、まず右手の指を順番に動かしてみてくれ」
「はい」
ユノは指を一本ずつ動かした。
親指。
人差し指。
中指。
薬指。
小指。
画面上に、それぞれの動作に対応する信号が表示される。
「問題ない。神経信号の伝達も正常だな」
「よかった」
「次は左手。続けて、両脚も動かしてみてくれ」
ユノは指示どおりに身体を動かした。
機械の腕も脚も、意識したとおりに動く。
動作に遅れはない。
余計な力が入ることもない。
それは、ユノにとっていつもの感覚だった。
「……すごいな」
男性が画面を見ながら呟いた。
「何がですか?」
「人工脊髄と各部位の同期が、かなり安定している。調整もよくできているようだ」
「そうなんですか?」
「うん。身体の成長に合わせて更新は必要だろうが、現時点では大きな問題はない」
「そっか。よかった!」
ユノは嬉しそうに笑った。
身体に異常がないと分かれば、ひとまず安心だ。
しかし、男性の表情は晴れなかった。
「……問題は、こっちだな」
画面が切り替わる。
そこには、マイクロチップ内部の構造を示す情報が表示されていた。
一般的な処理領域や記憶領域とは別に、複数の不明なプログラムが存在している。
「これが、昨日見つかったものですか?」
「ああ。認識補助、価値判断補正、行動選択最適化。名前だけなら、どれも珍しいものではない」
「普通の機能なんですか?」
「似たような機能を持つチップはある。ただし、通常は本人が設定を確認できるし、必要に応じて停止することもできる」
男性は画面の一部を拡大した。
「だが、君のチップにあるものは違う。内部構造が隠されているうえ、アクセス制限も強固だ」
イリスが横から口を挟む。
「しかも、昨日ユノが疑問を持った直後に異常が検出された」
「そうだ。偶然の可能性もあるが、タイミングがよすぎる」
ユノは二人を見比べた。
「……つまり、僕が変なことを考えたから、こうなったってこと?」
「まだ分からない」
イリスは即座に答えた。
「そこは決めつけない。昨日の異常と、君の思考がどう関係しているのか、今は証拠が足りないから」
「そっか……」
ユノは画面を見つめた。
自分の頭の中にあるもの。
自分の身体の一部であるはずなのに、自分には中身が分からない。
そう考えると、何とも言えない気分になった。
「……ねえ」
「何だ?」
男性が顔を上げる。
「このプログラムって、いつから入ってたんですか?」
「それを調べたいんだが、今のところ分からない」
「僕が小さい頃から?」
「可能性はある。だが、記録が残っていない以上、断言はできない」
ユノは自分の腕を見た。
肩から指先まで、すべてが機械でできている。
両脚もそうだ。
胴体の内側には生身の部分が残っているが、その外側は強化装甲に覆われている。
幼い頃の事故で身体を大きく損傷し、今の身体になった。
それが、ユノの知っている過去だった。
けれど、そのときマイクロチップも交換されたのか。
どんな処置が行われたのか。
詳しいことは、あまり覚えていない。
「……僕、昔のこと、あんまり覚えてないんだよね」
ぽつりと呟いた。
「事故の前後のこと?」
イリスが尋ねる。
「うん。小さかったからっていうのもあると思うけど……気づいたら、この身体になってたって感じで」
ユノは苦笑いした。
「でも、別に困ってなかったし。普通に動けるし、生活もできるし。だから、今まで気にしたことなかったんだ」
「……そう」
イリスは静かに頷いた。
彼女は何かを考えているようだったが、すぐに問い詰めることはしなかった。
「過去の記録を調べれば、何か分かるかもしれない。ただ、今は君の身体に関する記録も含めて、管理システム側にアクセスするのは避けたほうがいい」
「どうして?」
「こちらの動きが知られる危険があるから」
「あ……そっか」
ユノは頷いた。
確かに、昨日まで自分が暮らしていた社会は、AIがあらゆる情報を管理していた。
自分の記録も、その中にあるのだろう。
今それを調べようとすれば、また見つかってしまうかもしれない。
「じゃあ、今は調べられないんだね」
「できる範囲で調べる。焦る必要はないよ」
イリスはそう言って、検査装置の電源を落とした。
◇
検査が終わったあと、ユノは技術室の隅に置かれた部品棚を眺めていた。
大小さまざまな部品が、箱ごとに分類されている。
機械の指。
関節の駆動部。
神経接続用の端子。
どれも、ユノの身体を構成する部品と似た形をしていた。
「……へえ」
思わず手を伸ばしかける。
「触らないで」
「ひゃいっ!」
背後から声をかけられ、ユノは慌てて手を引っ込めた。
イリスだった。
「ご、ごめん!」
「危険な部品もあるから。見るだけにして」
「うん……」
ユノはしょんぼりと肩を落とした。
その様子を見て、イリスは小さく息を吐いた。
「……興味があるの?」
「うん。だって、僕の腕や脚も、こういう部品でできてるんでしょ?」
「そうだね」
「じゃあ、どうやって動いてるのかなって。僕、今まで身体の仕組みなんて考えたことなかったから」
ユノは自分の手を持ち上げた。
指を動かす。
握る。
開く。
それだけの動作が、今は少しだけ不思議に思えた。
「考えたことがなかったのに、動かすことはできるんだよね。変な感じ」
「身体の仕組みを全部理解していなくても、自分の身体だということに変わりはないよ」
イリスは淡々と言った。
「歩くたびに筋肉や神経の働きを考える人はいないでしょ?」
「……確かに」
「機械の部分も同じ。あなたが動かそうと思って、ちゃんと動くなら、それはあなたの身体だよ」
ユノは目を瞬かせた。
「……そっか」
少し考えてから、にっこりと笑う。
「なんか、安心した!」
「それならよかった」
イリスも、わずかに表情を緩めた。
しかし、ユノはすぐに別のことを思いついたらしい。
「じゃあさ、僕の腕って、もっと速く動かせたりするのかな?」
「……何をするつもり?」
「いや、ちょっと気になっただけ!」
「勝手に出力を上げようとしないでね。身体を傷める可能性があるから」
「はーい……」
ユノは素直に頷いた。
そして、少し間を置いてから、もう一度尋ねた。
「……ちなみに、どれくらい速くなるの?」
「ユノ」
「はい、ごめんなさい」
イリスは思わず笑ってしまった。
どうやら、彼の好奇心はなかなか手強いらしい。
◇
昼過ぎ。
ユノは拠点の共有スペースで、ミナと一緒に小型の運搬機械を眺めていた。
「これ、何に使うの?」
「物を運ぶための機械。ここの通路は狭いから、小さいやつが便利なんだよ」
「へえー!」
ユノは興味津々だった。
運搬機械は、四つの車輪と小さな荷台を備えた単純な構造をしている。
けれど、制御装置は古く、時折動きがぎこちなくなるらしい。
「これ、ちょっと調子が悪いんだよね。動くには動くんだけど、たまに止まっちゃうの」
「そうなんだ」
ユノは機械をじっと見つめた。
「……どこが悪いんだろう?」
「分からないから、あとで技術担当の人に見てもらう予定」
「僕も見ていい?」
「え? ユノ、こういうの分かるの?」
「ううん。全然!」
「……えっ?」
「でも、見てみたい!」
ミナはしばらくユノを見つめ、それから吹き出した。
「何それ!」
「えっ、だめ?」
「だめじゃないけど! 普通、分からないなら見たいってならないでしょ!」
「そうかなぁ……」
ユノは首を傾げた。
知らないものなら、見てみたい。
分からないことなら、知りたい。
ただ、それだけだった。
ミナは笑いながら、運搬機械のカバーを外した。
「じゃあ、見るだけね。変なところ触らないでよ」
「うん!」
内部には、古い制御基板と複数の配線が収まっていた。
ユノはしゃがみ込み、じっと観察する。
しばらくして、ふと気づいた。
「……ねえ、ミナ」
「何?」
「この線、ちょっと緩んでない?」
「え?」
ミナが覗き込む。
確かに、制御基板につながる細いケーブルの接続部が、わずかに浮いていた。
「……あ、本当だ」
「これが原因かな?」
「可能性はあるね。でも、通電したまま触ると危ないから、先に電源を切らないと」
「そっか」
ミナは電源を切り、接続部を確認した。
ケーブルを正しく差し直し、固定具を締め直す。
その後、電源を入れると、運搬機械は問題なく動き始めた。
「……直った!」
ミナが声を上げた。
「やったね!」
ユノも嬉しそうに笑う。
「いや、すごいじゃん。よく気づいたね」
「えへへ。たまたまだよ」
「それでも助かったよ。ありがと!」
褒められたユノは、分かりやすく顔を輝かせた。
「どういたしまして!」
その様子を、少し離れた場所からイリスが見ていた。
彼女は何も言わなかったが、ユノが機械の動作を観察する様子を、注意深く見つめていた。
特別な知識があったわけではない。
高度な計算をしたわけでもない。
ただ、目の前のものを見て、気づいたことを口にしただけ。
それでも、ユノは自分から考え、判断し、行動していた。
AIの指示を受けることなく。
誰かに答えを与えられることなく。
そのことが、イリスには少しだけ印象に残った。
◇
夕方。
ユノは技術室に戻り、イリスと並んで端末の画面を見ていた。
「今日の検査結果をまとめたよ」
イリスが画面を操作する。
表示されたのは、ユノのマイクロチップに関する解析結果だった。
神経接続は正常。
記憶領域も正常。
機械化された身体との同期にも問題はない。
しかし、不審なプログラムについては、ほとんど何も分からなかった。
「……結局、分からないことだらけだね」
ユノが呟く。
「そうだね」
イリスも否定しなかった。
「ただ、一つ分かったことがある」
「何?」
「このプログラムは、単純に身体を動かすためのものじゃない。少なくとも、通常の身体制御とは別の領域にある」
「……じゃあ、やっぱり考え方に関係してるの?」
「可能性はある。でも、まだ断定はできない」
イリスは画面を切り替えた。
「それと、もう一つ」
そこには、小さな記録が表示されていた。
「昨日、君がチップの内部情報にアクセスしようとしたとき、異常な信号が発生していた」
「信号?」
「うん。管理システム側への通常の通信とは違うもの。送信先も、今のところ特定できていない」
「……それって、誰かに連絡してたってこと?」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。内部の処理が外部に漏れた可能性もある。今は分からない」
ユノは画面を見つめた。
もし、あのときの異常が何かを知らせるものだったとしたら。
誰に?
何を?
そして、なぜ?
「……僕の頭の中って、思ってたより複雑なんだね」
「人間の脳も、チップも、もともと複雑なものだからね」
イリスは静かに答えた。
「だからこそ、簡単に決めつけたくない。あなたが何者なのかも、このプログラムが何なのかも」
「……うん」
ユノは頷いた。
自分が特別な人間だとは思わない。
何か大きな使命があるとも思わない。
ただ、昨日まで知らなかったことを、少しずつ知っていきたい。
それだけだった。
「……ねえ、イリス」
「何?」
「僕、これからも調べてもらっていい?」
イリスは少し驚いたように目を瞬かせた。
「もちろん。そのために協力してもらってるんだから」
「そっか。じゃあ、よろしくお願いします!」
ユノは深々と頭を下げた。
「……そんなにかしこまらなくていいよ」
「えっ、そう?」
「うん」
「分かった! じゃあ、よろしくね、イリス!」
「……うん」
イリスは、ほんの少しだけ笑った。
◇
その夜。
ユノは自分に与えられた部屋で、椅子に座っていた。
視線の先には、机の上に置かれた小さな鏡。
鏡に映るのは、十五歳の少年の顔だった。
少し幼さの残る顔立ち。
華奢な身体。
機械化された両腕と両脚。
胴体を覆う強化装甲。
けれど、顔や首はほとんど生身のままだ。
それが、ユノの身体だった。
「…………」
ユノは右手を持ち上げた。
指を一本ずつ動かす。
次に左手。
両脚も、ゆっくりと動かしてみる。
いつもどおりだ。
何も変わっていない。
昨日までと同じように、自分の意思で動く。
「……僕の身体は、僕のもの」
小さく呟いた。
それは、誰かに教えられた言葉ではなかった。
今の自分が、自分で考えて口にした言葉だった。
たとえ身体の一部が機械でできていても。
頭の中に、知らないプログラムがあったとしても。
それだけで、自分が自分ではなくなるわけではない。
そう思いたかった。
けれど、もし自分の考えそのものが操作されていたとしたら。
今、そう考えていることさえ、誰かに仕組まれたものだとしたら。
「…………」
ユノは、鏡の中の自分を見つめた。
答えは出ない。
だからこそ、確かめていくしかないのだろう。
自分が何を考え、何を感じ、何を選ぶのか。
その一つひとつを。
誰かに決めてもらうのではなく、自分自身で。
◇
同じ頃。
都市中枢、エデンズ。
膨大な情報が行き交う管理システムの奥深くで、一つの記録が静かに更新されていた。
『対象者:ユノ』
『神経接続:正常』
『認識補助プログラム:稼働状態』
『価値判断補正プログラム:稼働状態』
『行動選択最適化プログラム:稼働状態』
その下に、昨日発生した異常信号の記録が表示される。
『未分類信号を検出』
『送信先:不明』
『解析状況:継続』
システムは記録を照合した。
対象者の過去の行動。
マイクロチップの構成。
神経接続の履歴。
そして、今回の異常。
すべての情報を比較しても、現時点で明確な結論は得られなかった。
だが、記録の最後に、一つの判断が追加される。
『対象者の監視を継続』
『追加介入:保留』
都市は今日も、何事もなかったかのように動き続ける。
人々はAIの案内に従い、仕事へ向かい、食事をし、眠りにつく。
その中で、一人の少年だけが、ほんの少しずつ、自分の意思で考えることを始めていた。
それが何を意味するのか。
まだ、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――。
ユノの知らないところで、彼の存在を見つめ続けているものがいるということだった。




