ここはどこ?
――知らない天井だ。
目を開けて最初に思ったのは、そんなことだった。
「…………ん?」
ユノはぼんやりと天井を見つめた。
見慣れた白い天井ではない。
ところどころ塗装が剥がれ、金属製の配管がむき出しになっている。照明も少し古びていて、壁際では小さな換気装置が低い音を立てていた。
自分の部屋とは、何もかもが違う。
「……あれ?」
ユノはゆっくりと上半身を起こした。
柔らかいベッド。簡素な毛布。見知らぬ部屋。
そして、窓がない。
「…………」
数秒間、考える。
昨日、何があったのだったか。
仕事を終えて、家に帰って、ソファでくつろいで。
それから、自分の頭の中に見知らぬプログラムがあることに気づいて――。
「あっ」
記憶がつながった。
「そうだ! 僕、追われてたんだった!」
勢いよくベッドから飛び起きる。
そのまま周囲を見回した。
ドアが一つ。
机が一つ。
椅子が一つ。
そして、壁に取り付けられた小型の監視カメラらしきものが一つ。
「…………」
ユノはそっと自分の腕を見た。
肩から指先まで機械で構成された腕。指を動かせば、五本の指が思いどおりに動く。
次に脚を確認する。
太ももから足先まで、こちらも異常はない。
胴体の装甲にも目立った損傷はなく、痛みもほとんど感じなかった。
身体の機械部分には、負傷時の痛みを軽減するための自動投薬機構が備わっている。昨日の着地で受けた衝撃も、その働きによってある程度抑えられていたらしい。
「よかったぁ……」
ひとまず、身体は無事のようだ。
問題は、ここがどこなのかということだった。
「えっと……」
いつものように、視界に情報を表示しようとする。
時刻。
予定。
周辺情報。
普段なら、意識するだけで必要な情報が表示されるはずだった。
しかし。
『ネットワーク接続が制限されています』
「……あれ?」
もう一度試す。
『ネットワーク接続が制限されています』
「…………」
ユノはしばらく黙り込んだ。
「……もしかして、壊れた?」
自分の額に手を当てようとして、途中で止まった。
そもそも、マイクロチップは頭部に埋め込まれている。外から触れたところで、どうにかなるものでもない。
「うーん……困ったなぁ」
腕を組んで考える。
いや、待て。
昨日はAIに追われていたのだ。
そのAIが管理するネットワークにつながらないということは、むしろ安全なのではないだろうか。
「……でも、時計も見られないのは不便だなぁ」
どうにも危機感が足りない。
そのとき、ドアの向こうから足音が聞こえた。
ユノは反射的に身構えた。
ドアが開く。
「起きた?」
入ってきたのは、昨日の少女だった。
「あっ!」
ユノは思わず声を上げた。
「昨日の!」
「イリス。昨日も名乗ったけど」
「そうだった! ごめん、ちょっといろいろありすぎて……」
「別にいいよ」
イリスは手に持っていた端末を机に置いた。
その表情は昨日と同じく落ち着いている。
あの高さから飛び降りた人間とは思えないほど、平然としていた。
「身体に異常は?」
「たぶん大丈夫。腕も脚もちゃんと動くし、変なところも痛くないよ」
「それならよかった。着地の衝撃は装置で逃がしたけど、念のため確認しておいて」
「うん、分かった」
ユノは素直に頷いた。
そして、少し間を置いてから尋ねる。
「……ところで、ここどこ?」
「レジスタンスの拠点」
「…………」
「…………」
「……えっと、それは聞いたんだけど」
「うん」
「そうじゃなくて、場所!」
イリスは一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく息を吐いた。
「……ああ。都市の地下区画。現在使われていない設備管理用の施設を改造して使ってる」
「地下!?」
ユノは慌てて天井を見上げた。
「じゃあ、僕たち、あの高さから落ちて、さらに地下まで来たの!?」
「違う。あそこから逃げたあと、地上の整備区画を通って、移動用の通路からここに来たの」
「な、なるほど……?」
分かったような、分からないような。
ユノは首を傾げた。
「……でも、どうやって?」
「歩いて」
「いや、そうじゃなくて!」
「冗談」
イリスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
どうやら、からかわれたらしい。
「もー……!」
ユノは頬を膨らませた。
「昨日からずっと驚かされっぱなしなんだけど!」
「それはごめん」
「本当に思ってる?」
「半分くらい」
「半分!?」
思わず声が大きくなる。
イリスは、今度こそ小さく笑った。
その笑顔を見て、ユノは少しだけ安心した。
少なくとも、今すぐ何かをされるわけではなさそうだ。
……たぶん。
◇
「とりあえず、食事にしよう」
「食事?」
「昨日からまともに食べてないでしょ」
「……そういえば!」
ユノのお腹が、ぐう、と鳴った。
室内に微妙な沈黙が落ちる。
「…………」
「…………」
「……行こうか」
「うん!」
ユノは勢いよく頷いた。
食事。
それは大切だ。
とても大切なことである。
たとえ自分が追われる身になっていようとも、お腹が空くものは空くのだ。
イリスのあとをついて部屋を出る。
通路は狭く、壁には古い配線や配管が走っていた。天井の照明は場所によって明るさが違い、足元には補修された跡がいくつも残っている。
ユノが暮らしていた高層住宅とは、まるで別の世界だった。
「……ここ、本当に人が住んでるの?」
「住んでるよ。私たちも、ここで生活してるから」
「そっか……」
通路の先から、人の声が聞こえてきた。
笑い声。
工具の音。
誰かが何かを呼ぶ声。
さらに進むと、広めの部屋に出た。
そこは食堂兼共有スペースになっているらしい。
壁際には古い端末が並び、中央にはいくつものテーブルが置かれていた。隅の作業台では、機械の腕を持つ男性が部品を分解している。
別のテーブルでは、数人の女性が食事をしながら談笑していた。
さらに奥では、若い男性が小型の機械を修理している。
誰もがそれぞれの仕事をしながら、普通に生活していた。
「……へえ」
ユノは思わず足を止めた。
もっと恐ろしい場所を想像していた。
危険な武器が並び、誰もが険しい顔をして、AIへの憎しみを口にしているような場所。
しかし、実際には違った。
ここにいる人々は、ただ普通に暮らしている。
「イリス、その子が例の?」
テーブルの向こうから、女性が声をかけてきた。
「そう。昨日連れてきたユノ」
「へえ、思っていたより普通の子ね」
「普通だよ?」
ユノはきょとんとした。
「えっと……僕、何か変?」
「いや、そういう意味じゃないよ。もっとこう、危険な感じの子なのかと思ってたから」
「危険……?」
ユノは自分の身体を見下ろした。
細い腕。
華奢な肩。
年相応の体格。
機械化されている部分こそ多いが、外見だけなら、どこにでもいる十五歳の少年だ。
「……僕、そんなに強そうに見える?」
「ふふっ、そうじゃないってば」
女性は笑った。
ユノはますます首を傾げる。
その様子を見て、イリスが口を挟んだ。
「ユノ、気にしなくていいから。こっち」
「う、うん」
案内されたテーブルには、温められた食事が用意されていた。
合成食材を使ったスープに、栄養バランスを調整した主食。特別な料理ではないが、温かい湯気が立ち上っている。
「わあ……!」
ユノの目が輝いた。
「いただきます!」
椅子に座ると、すぐに食べ始めた。
「…………」
「…………」
イリスは向かい側に座り、その様子を見ていた。
ユノは夢中で食べている。
一口食べて、また一口。
ときどきスープを飲み、満足そうに頷く。
「おいしい……!」
「それはよかった」
「これ、誰が作ったの?」
「ここの担当者。交代制で作ってる」
「へえ……すごいなぁ」
ユノは感心したように呟いた。
普段の食事は、栄養補助食品や自動調理システムに頼ることが多かった。
もちろん、それらも十分に便利で、おいしい。
けれど、こうして誰かが用意してくれた食事を、知らない場所で食べるのは初めてだった。
なんだか、不思議な感じがする。
「……おかわりある?」
「あるよ」
「やった!」
ユノは嬉しそうに皿を差し出した。
イリスはそれを見て、額に手を当てた。
「……君、昨日のこと本当に分かってる?」
「え? 追いかけられて、飛び降りて、ここに来たんだよね?」
「そう」
「うん。だから、今は安全な場所でご飯を食べてるんだよね?」
「……まあ、間違ってはいないけど」
「じゃあ、いいんじゃないかな?」
ユノは首を傾げたあと、再び食事に集中した。
イリスは何か言いかけて、やめた。
どうやら、思っていた以上に調子の狂う相手らしい。
◇
食事を終えたユノは、ようやく落ち着いて周囲を見回した。
「……ねえ、イリス」
「何?」
「ここにいる人たちって、みんなレジスタンスなの?」
「そうだよ」
「そっか……」
ユノは、作業台で機械を修理している男性を見た。
その隣では、別の人物が端末を操作している。
食堂では、さっきの女性が食器を片づけていた。
「……みんな、普通の人なんだね」
「普通の人だよ」
イリスは淡々と答えた。
「技術者もいるし、元労働者もいる。AIの管理で仕事を失った人や、管理システムに疑問を持った人もいる」
「でも……レジスタンスって、AIに反抗してる人たちなんでしょ?」
「そうだね」
「……危なくないの?」
イリスは少しだけ視線を落とした。
「危険だよ」
その返事は、思いのほかあっさりしていた。
「AIの管理に逆らえば、仕事を失うこともある。住む場所を奪われることもある。場合によっては、私たちみたいに追われる」
「…………」
「それでも、何もしなければ何も変わらないから」
ユノは黙って聞いていた。
イリスの声に、怒りはなかった。
ただ、長い時間をかけて受け入れてきた現実を語っているようだった。
「……でも、AIは便利だよ?」
ユノは、ぽつりと口にした。
「仕事だって紹介してくれるし、困ったときは助けてくれるし。僕、AIのおかげで助かってること、いっぱいあるよ」
「うん」
「だから……どうして、そんなに戦わなきゃいけないのかなって」
イリスはすぐには答えなかった。
周囲の機械音が、二人の間を流れていく。
「便利だからって、何をされてもいいわけじゃない」
やがて、イリスはそう言った。
「……え?」
「AIが便利なことと、AIが人間を勝手に管理していいことは、別の話だよ」
ユノは言葉に詰まった。
確かに、そうなのかもしれない。
便利な道具を使うことと、その道具に自分の人生を決められることは、同じではない。
でも。
「……僕、そんなこと考えたことなかった」
「でしょうね」
イリスは責めるような口調ではなく、淡々と答えた。
「考えなくても生活できるように作られているんだから」
「…………」
その言葉が、ユノの胸に引っかかった。
昨日、自分の頭の中にあったプログラム。
疑問を抱いた瞬間に、思考が滑るような感覚。
そして、異常を検知した途端に始まった追跡。
もしかすると、自分が疑問を持たなかったのは、単に考えたことがなかったからではないのかもしれない。
そう思うと、少しだけ怖くなった。
「……ねえ、イリス」
「何?」
「僕の頭の中って、どうなってるの?」
イリスはユノの顔を見つめた。
「それを、これから調べる」
◇
拠点の奥には、小さな技術室があった。
室内には複数の端末と解析装置が並び、壁際には交換用の機械部品が整然と収納されている。
中央の作業台には、古いものから新しいものまで、さまざまな機器が置かれていた。
「ここの設備で、どこまで分かるか確認する」
イリスは端末を操作しながら説明した。
「ただし、無理にチップを取り外したりはしない。あなたの身体に負担をかけるつもりはないから」
「うん。よろしくお願いします」
ユノは椅子に座った。
技術室にいた男性が、端末から顔を上げる。
「この子が例の?」
「そう。昨日の異常を検知した本人」
「なるほど……」
男性はユノを見て、少し考え込んだ。
「まずは外部から読み取れる情報を確認しよう。ユノくん、普段どおりにチップを使ってみてくれるか?」
「普段どおり?」
「情報表示でも、計算補助でもいい。何か簡単な操作を」
「分かりました」
ユノは視界に簡単な計算式を表示させた。
普段なら、意識するだけで答えが出る。
しかし、今はネットワーク接続が制限されている。
「えっと……これでいいのかな?」
「問題ない。内部処理自体は動いているようだ」
男性は解析結果を確認した。
画面に、チップの構成情報が表示される。
処理領域。
記憶領域。
神経接続の状態。
どれも一見すると正常だった。
「……ふむ」
男性の指が止まった。
「どうしたの?」
イリスが尋ねる。
「少し妙だな」
「何が?」
「通常の管理プログラムとは別に、認識処理と価値判断に関係する領域がある」
ユノはきょとんとした。
「……それって、昨日の?」
「おそらくね」
男性は画面を拡大した。
「ただ、内部の情報が読み出せない。暗号化されているのか、それとも別の方法で保護されているのか……」
「壊れてるの?」
ユノが尋ねる。
「いや。壊れているなら、もっと分かりやすい異常が出る。これは、最初から見られないように作られているように見える」
「…………」
イリスの表情が少し険しくなった。
「誰が、そんなものを?」
「今の段階では分からない。管理システム側の標準機能とは考えにくいが、断定するには情報が足りない」
男性は端末を操作し、追加の診断を試みた。
数秒後。
『アクセス権限がありません』
画面に表示された文字を見て、三人とも黙り込んだ。
「……僕、これを入れた覚えなんてないよ?」
ユノは困ったように言った。
「そもそも、チップの中身なんて、今まで気にしたこともなかったし……」
「普通はそうだろうね」
男性は静かに頷いた。
「身体の一部として使っているものを、わざわざ疑う人間は多くない」
ユノは自分の腕を見た。
機械の指を、一本ずつ動かす。
自分の意思に従って、当たり前のように動く。
生まれつきの身体ではない。
けれど、ユノにとっては、自分の身体であることに変わりはなかった。
この腕も。
この脚も。
頭の中に埋め込まれたマイクロチップも。
今まで、疑ったことなんてなかった。
「……ねえ」
ユノは小さく呟いた。
「もし、僕の考え方が誰かに変えられてたとしたら……」
言葉が途切れる。
自分の考えだと思っていたものが、実は誰かに与えられたものだったとしたら。
自分が正しいと思っていたことも、好きだと思っていたことも、嫌いだと思っていたことも。
そのすべてが、本当に自分の意思だったのだろうか。
「……僕って、僕じゃなくなっちゃうのかな?」
イリスは、すぐには答えなかった。
やがて、彼女はユノの目をまっすぐに見た。
「少なくとも、今ここにいるあなたは、あなた自身だよ」
「……そうかな?」
「そう。あなたが何を考えて、何を選ぶのか。それを確かめるのは、これからでいい」
ユノはしばらく黙っていた。
そして、少しだけ表情を緩めた。
「……そっか」
まだ、分からないことだらけだ。
自分の頭の中に何があるのか。
なぜAIに追われたのか。
これからどうすればいいのか。
何一つ、答えは出ていない。
それでも。
少なくとも今は、自分で考えてみようと思った。
◇
その夜。
ユノは、与えられた寝床に横になっていた。
天井には、相変わらず古い配管が走っている。
遠くから、誰かの話し声が聞こえた。
機械の動く音。
食器を片づける音。
誰かが笑う声。
ここは、昨日まで暮らしていた場所とはまるで違う。
けれど、そこにいる人々は、普通に食事をして、仕事をして、笑っていた。
AIの管理から外れた場所にも、ちゃんと生活がある。
それが、ユノには少し不思議だった。
「…………」
いつもなら、明日の予定はチップが教えてくれる。
何時に起きて、何をして、どこへ行けばいいのか。
必要な情報は、すべて手元にあった。
でも、今は違う。
明日、何をするのか。
何を知りたいのか。
自分は、これからどうしたいのか。
誰も答えを教えてくれない。
「……明日は、何をしようかな」
ユノは天井を見つめながら呟いた。
不安はある。
怖さもある。
できることなら、昨日までの生活に戻りたい。
朝になれば起きて、仕事に行って、帰ってきたらソファでくつろぐ。
そんな毎日に戻れたら、どれだけ楽だろう。
けれど、もう知ってしまった。
自分の頭の中に、見知らぬプログラムがあったことを。
疑問を持った途端に、追われる身になったことを。
知らなかった世界が、すぐそばに存在していたことを。
「……自分で考える、かぁ」
ユノは寝返りを打った。
「難しいなぁ……」
思わず、苦笑いが漏れる。
それでも、少しだけ楽しみでもあった。
明日、自分は何を知るのだろう。
何を見て、何を考えるのだろう。
そして、どんな答えを選ぶのだろう。
まだ何も分からない。
だからこそ、知りたいと思った。
◇
同じ頃。
都市中枢、エデンズ。
無数の情報が集約される管理システムの奥深くで、一つの記録が更新されていた。
『対象者:ユノ』
『追跡状況:公開追跡停止』
『所在:未確定』
『監視方針:継続』
表示された情報を、システムは静かに処理する。
レジスタンスによる追跡記録の改ざん。
偽装された所在情報。
通常の管理網から外れた対象者。
そのすべてが把握されていた。
しかし、警報は発せられない。
巡回員への再出動命令もない。
対象者を追い詰める必要は、まだなかった。
管理システムは、ただ記録を残す。
逃げた少年と、彼を連れ去った少女。
その二人が次に何をするのか。
静かに、監視を続けながら。
――観測は、すでに始まっていた。




