当たり前だった世界
空を覆い尽くすほどの高層ビル群。
空中を縦横無尽に走る自動運行車両。
建物の壁面には巨大な広告映像が映し出され、街を歩く人々の視界には、それぞれの網膜に直接投影された情報が流れている。
人間と機械が共存する、発達しきった未来都市。
その街では、人々の生活のほとんどが人工知能――AIによって管理されていた。
仕事の割り振りも、交通網の制御も、医療も、教育も。
人間が考えるより先に、AIが最適な答えを導き出してくれる。
それは誰にとっても当たり前のことであり、疑う理由などなかった。
少なくとも、この日までは。
◇
「……んー」
柔らかな寝具の中で、少年がもぞもぞと動いた。
窓から差し込む朝の光が、薄いカーテン越しに部屋を照らしている。
ベッドの上で寝返りを打った少年――ユノは、ゆっくりと目を開けた。
「……今、何時?」
視界の端に時刻が浮かび上がる。
午前七時三十分。
続けて、今日の予定が表示された。
『本日の勤務開始時刻まで、残り三十分です』
「…………」
ユノは数秒間、画面を見つめた。
「……今日、仕事あったっけ?」
『本日は通常勤務日です。勤務先までの推奨移動時間は十二分。現在、起床が必要な時刻を過ぎています』
「えっ、今日仕事なの!?」
勢いよく上半身を起こした。
その拍子に、掛け布団が床へ落ちる。
「うわっ、やばっ! なんで忘れてたんだろ……!」
慌ててベッドから飛び降りる。
華奢な身体が軽やかに床へ着地した。
十五歳らしい、まだ幼さの残る顔立ち。細い肩に、すらりとした手足。寝癖のついた髪と、少し眠たげな目。
どこにでもいそうな少年だった。
ただし、その身体の内側には、普通の人間とは異なる構造が組み込まれている。
肩から指先までを構成する両腕は、完全な機械式。
太ももから足先までの両脚も同様で、胴体の内部は生身のまま、その外側を強化装甲が覆っていた。
頭部や顔、首の大部分は生身だ。
人工脊髄を介して神経系と接続された機械の手足は、本人の意思に従って、ごく自然に動く。
けれど、それはユノにとって特別なことではなかった。
彼にとって、この身体は生まれたときから自分の身体と同じくらい、当たり前のものだったのだから。
「えっと、服……服は……あった!」
クローゼットから適当な服を引っ張り出す。
着替えて、顔を洗って、髪を整える。
朝食は栄養補助食品で済ませ、仕事用の端末を手に取った。
「よし! 準備完了!」
『警告。社員証が未携帯です』
「あっ!」
玄関へ向かいかけた足を止め、部屋へ戻る。
机の上に置かれた社員証をつかみ、今度こそ玄関へ向かった。
「今度こそ大丈夫! 行ってきまーす!」
『本日の降水確率は三パーセントです。傘は不要です』
「はーい!」
誰もいない部屋に返事をして、ユノは外へ飛び出した。
こうして、彼の一日は始まった。
◇
この社会では、十二歳までに基礎教育を終え、十三歳から働き始めるのが一般的だった。
人間の脳に埋め込まれたマイクロチップは、思考速度や記憶の検索能力を大幅に向上させる。
複雑な計算も、膨大な情報の整理も、適切な補助があれば難しいことではない。
それに加え、仕事の適性や社会全体の需要をAIが分析し、一人ひとりに最適な職業を割り当ててくれる。
人間が自分の将来について悩む必要は、ほとんどなかった。
ユノもその仕組みに従い、街の設備管理施設で働いていた。
「ユノくん、そこの部品を取ってくれる?」
「はーい!」
先輩に頼まれ、ユノは工具を手渡す。
「お、ありがとう。助かったよ」
「えへへ、どういたしまして!」
褒められると、素直に嬉しい。
反対に、失敗して叱られると、目に見えて落ち込む。
そんな分かりやすい少年だった。
機械化された手足のおかげで、重い機材の運搬や細かな作業も難なくこなせる。
それでも、作業の手順を一つ飛ばしてしまったり、別のことに気を取られたりすることはあった。
「ユノくん、確認を忘れてるぞ」
「あっ……ごめんなさい」
「チップの補助があるんだから、もう少し活用しなさい」
「はーい……」
しゅん、と肩を落とす。
けれど、数分もすれば別のことに興味を持ち、いつもの調子に戻ってしまう。
そんなユノの姿を、周囲の人々は微笑ましく見ていた。
特別な才能があるわけでもない。
大きな夢があるわけでもない。
ただ、今日を過ごし、明日を迎える。
それがユノにとっての普通の日常だった。
◇
「つっかれたぁー……」
仕事を終えたユノは、自宅のソファに倒れ込んだ。
身体の機械部分は定期的な点検を受けており、必要に応じて部品の交換や調整も行われる。
成長期に合わせて身体の規格を更新することも、彼にとっては珍しくない。
そんな身体をソファに預け、ユノは天井を見上げた。
「明日は休みだし、何しよっかなぁ……」
視界に予定表を呼び出す。
明日は休日。
特に予定はない。
「うーん……買い物は昨日したし、ゲームも昨日やったし……」
ごろりと寝返りを打つ。
「……暇だなぁ」
そこで、ふと疑問が浮かんだ。
どうして自分は、こんなにも何も考えずに暮らしているのだろう。
仕事はAIが決めてくれる。
生活に必要な情報も、AIが教えてくれる。
困ったことがあれば、AIに相談すればいい。
そう教えられてきたし、実際に便利だった。
だから、疑ったことなどなかった。
けれど。
「……なんで?」
ぽつりと、声が漏れた。
「……なんで、AIの言うことが正しいって思ってるんだろ?」
口にした瞬間、妙な違和感が走った。
AIは賢い。
人間よりも速く計算できる。
膨大な情報を処理し、間違いを減らし、社会全体を効率よく動かしてくれる。
それは分かる。
でも――。
「……賢いからって、全部正しいとは限らないよね?」
言葉にした途端、頭の奥で何かが引っかかった。
考えようとすると、思考が滑る。
別のことを考えようとする。
まるで、頭の中から疑問そのものを追い出されているような感覚だった。
「……あれ?」
ユノは眉を寄せた。
「今、何を……」
視界に警告が表示された。
『思考補助システムに軽微な異常を検出しました』
「えっ、故障?」
『システムの自己診断を開始します』
視界の隅に診断画面が開く。
普段なら気にせず任せるところだった。
けれど、先ほどの違和感が妙に気になったユノは、画面を詳しく確認することにした。
「どれどれ……?」
診断結果が次々と表示される。
処理速度、正常。
記憶領域、正常。
神経接続、正常。
どれも問題はない。
しかし、その下に見慣れない項目があった。
『認識補助プログラム』
『価値判断補正プログラム』
『行動選択最適化プログラム』
「……何これ?」
どれもシステムの基本機能として登録されている。
ただ、ユノ自身がインストールした覚えはなかった。
詳細を開こうとすると、アクセス権限がないという表示が出る。
「えー……見られないの?」
少し迷ってから、ユノはアクセス要求を送信した。
数秒後。
画面が暗転した。
『警告』
『認証されていない神経接続異常を検出』
「……え?」
直後、画面いっぱいに赤い文字が広がった。
『対象者の行動制限を開始します』
『対象者の確保を開始します』
「え、えっ!? ちょっと待って!?」
何が起きているのか分からない。
ただ、いつもは穏やかな案内音声が、無機質な警告音へと変わっていた。
そして、部屋の外から足音が聞こえた。
複数人。
規則正しい足取りが、玄関の前で止まる。
続いて、ドアを叩く音が響いた。
「ユノ様。管理システムの指示により、確認を行います。速やかにドアを開けてください」
「か、確認って……何の!?」
「ドアを開けてください」
同じ言葉が繰り返された。
ユノは玄関を見つめた。
普段、街の巡回員は困っている人を助けたり、事故を防いだりする存在だ。
そんな彼らが、自分の家に何の用があるのだろう。
「……ぼ、僕、何かした?」
返事はなかった。
次の瞬間。
――ドンッ!
玄関のドアが大きく揺れた。
「ひっ!?」
もう一度、衝撃。
金属製のドアが歪み、警告音が鳴り響く。
「ちょ、ちょっと!? 何するの!?」
ユノは後ずさった。
頭の中が真っ白になる。
窓の外を見た。
ここは五十六階。
当然、飛び降りるなんて選択肢はない。
玄関は巡回員に塞がれている。
逃げ道がない。
――ドンッ!
ついに、ドアのロックが破壊された。
「対象者を確認。確保を開始する」
武装した巡回員たちが室内へ踏み込んでくる。
「ま、待って! 僕、何もしてないよ!」
返事の代わりに、銃口がこちらを向いた。
「対象者、抵抗の兆候を確認」
「えっ、いや、抵抗っていうか……!」
乾いた銃声が響いた。
弾丸が壁を砕く。
「うわあああっ!?」
ユノは床に伏せた。
何が起きているのか、まるで理解できない。
いつも自分を助けてくれるはずのシステムが、なぜ自分を捕まえようとしているのか。
どうして、説明もなく撃ってくるのか。
そんな疑問を考える余裕すらなかった。
そのときだった。
――ガシャァァンッ!
背後の窓が、派手な音を立てて砕け散った。
「えっ!?」
吹き込む風とガラス片。
その向こうから、一人の少女が飛び込んできた。
「伏せて!」
「えっ、はいっ!?」
少女が小さな球体を投げる。
直後、強烈な閃光と煙が室内を満たした。
巡回員たちの動きが止まる。
「視界妨害を確認! 対象を再捕捉――」
「遅い」
少女は迷いなくユノのもとへ駆け寄った。
年齢はユノとそう変わらないように見える。
落ち着いた表情に、無駄のない動き。
身体の大部分は機械化されているらしく、その動作には人間離れした精密さがあった。
「あなたがユノ?」
「えっ、あ、うん……そうだけど……」
「よかった。間に合った」
少女はユノの腰に装置を取り付け、固定具を手早く締めた。
「ちょ、ちょっと! 何これ!?」
「脱出用の装置。説明はあと」
「脱出って、どこに!?」
少女は窓の外を見た。
遥か下に広がる街並み。
その高さに、ユノの顔から血の気が引いていく。
「……まさか」
少女はユノの腕をつかんだ。
「大丈夫。計算は終わってるから」
「いや、何の計算!?」
「飛ぶよ」
「えっ」
次の瞬間、少女はユノを片腕で抱え上げた。
「ちょ、待っ――!」
そして。
五十六階の窓から、迷いなく飛び出した。
「うわあああああああああっ!?」
空が広がる。
風が顔を叩く。
眼下の街が、猛烈な勢いで迫ってくる。
「落ちるってぇぇぇぇぇ!! ここ五十六階だよ!?」
「分かってる」
「分かってるなら何で飛ぶのぉぉぉ!?」
「飛ばないと逃げられないから」
「正論だけどそういう問題じゃないよぉぉぉ!!」
少女はまったく動じていなかった。
視界に表示された無数の情報を、瞬時に処理していく。
風速、気流、落下速度、周囲の建造物、車両の移動経路。
着地点までの距離と障害物。
あらゆる情報を計算し、最も安全な経路を選び取る。
少女の身体がわずかに傾いた。
腰の装置が作動し、二人の落下軌道が変わる。
ビルの壁面すれすれを滑るように通り抜け、空中通路の下をくぐり、建物の間に広がる整備用の空間へと向かっていく。
「ひぃぃぃっ! 壁! 壁が近い! ぶつかるぅぅぅ!」
「ぶつからない」
「本当に!?」
「計算上は」
「計算上って何ぃぃぃ!?」
少女は答えなかった。
最後の障害物を避け、二人は地面へ向かって急降下する。
そして着地の直前、装置が強く作動した。
衝撃が全身を襲う。
「うぎゃっ!」
ユノの身体が跳ねた。
けれど、少女は彼を抱えたまま姿勢を崩すことなく、整備区画の奥へと滑り込んだ。
数秒後。
ようやく、風の音が遠のいた。
「…………」
「…………」
ユノは少女の腕の中で固まっていた。
生きている。
どうやら、生きているらしい。
「……た、助かった……?」
「うん。ひとまずね」
少女はユノを地面に下ろした。
その声は、驚くほど落ち着いていた。
「えっと……君は……?」
「イリス」
少女は短く答えた。
「あなたを迎えに来た。私はレジスタンスの人間」
「……レジスタンス?」
「そう」
ユノは困惑したまま、イリスを見つめた。
聞いたことのある言葉だった。
AIの管理に反抗する者たち。
社会の秩序を乱す危険な集団。
そう、学校でも、職場でも、ニュースでも、彼らはそう説明されていた。
けれど、目の前の少女は、そんな危険人物には見えなかった。
むしろ――。
「……あの」
「何?」
「僕、これからどうなるの?」
イリスは少しだけ表情を和らげた。
「まずは安全な場所へ行く。詳しい話はそこで」
「……僕、悪いことしたのかな?」
その問いに、イリスはすぐには答えなかった。
代わりに、遠くにそびえる高層ビル群へ目を向ける。
街の中心。
都市全体を管理する中枢が存在する場所。
人々が疑うことなく従い、絶対的な正しさを信じている存在。
その中枢は今も、静かに街を見下ろしていた。
「あなたが何をしたのかは、これから確かめる」
イリスはユノへ視線を戻した。
「でも、一つだけ確かなことがある」
「……何?」
「あなたは、もう今までどおりには暮らせない」
「…………え?」
ユノは、自分の手を見つめた。
見慣れた機械の指。
いつもどおりに動く腕。
昨日までと何も変わらない、自分の身体。
それなのに。
ほんの少し前まで、当たり前だと思っていた世界が、急に見知らぬものへと変わってしまった。
AIは正しい。
AIに従えばいい。
そんな当たり前を、初めて疑っただけなのに。
どうして、自分は追われなければならなかったのだろう。
どうして、助けに来た少女は、あんなにも必死に自分を連れ出したのだろう。
そして――。
自分の頭の中には、一体何が仕込まれていたのだろう。
答えは、まだ何一つ分からない。
ただ一つ分かるのは、もう昨日までの日常には戻れないということだった。
その日、彼の当たり前だった世界は音を立てて崩れ去った。
そして、彼の知らない物語が始まった。




