知らない物語を読む
朝食を終えたユノは、自室に戻って端末を手に取った。
画面には、数日前にエヴァと交わしたメッセージが残っている。
『数日後、古書店の近くにあるカフェでどうでしょうか』
『その日は空いているので大丈夫です!』
『では、午後に。楽しみにしていますね』
短いやり取りだったが、約束の日が近づくにつれて、ユノは何度か画面を開いていた。
「……今日だったよね」
確認するように呟き、端末の予定表示を見直す。
午後から外出する予定は入っている。時間も場所も間違っていない。
ユノは端末をしまうと、部屋を出た。
*
昼前、ユノは食堂でミナと顔を合わせた。
「今日、出かけるんだっけ?」
「うん。前に会ったエヴァさんと約束してて」
「ああ、この前の本屋さんで会った人ね」
ミナは配膳台の片付けをしながら頷いた。
「本を貸してもらうんだっけ?」
「そうそう。前に話してた旅人の物語。どんな話なのか気になってたんだ」
「ユノ、本に興味を持つなんて少し前なら想像できなかったかも」
「そうかな?」
「うん。最近はいろんなものに興味を持つようになったよね」
そう言われると、確かにそうかもしれない。
以前の自分なら、休日に何をするかと聞かれても、特に思いつかなかっただろう。仕事が終われば家に帰り、空いた時間は端末を眺めて過ごす。それが普通だった。
今は、行ってみたい場所も、知りたいことも少しずつ増えている。
「……まあ、面白そうなことが増えたのは確かかな」
「いいことだと思うよ」
ミナはそう言って笑った。
「でも、帰りが遅くならないようにね。イリスにも伝えておいて」
「分かってるよ」
*
午後。
ユノは指定されたカフェの前に到着した。
古書店から少し離れた通りにある、小さな店だ。大通りの喧騒から外れているためか、周囲は比較的静かだった。
入口の横には小さな看板があり、店内からは落ち着いた音楽が聞こえてくる。
ユノが入口の近くで端末を確認していると、通りの向こうからエヴァが歩いてきた。
「あ、ユノ君」
「エヴァさん!」
エヴァは手に持っていた鞄を軽く持ち上げ、ユノに近づいた。
「待たせてしまいましたか?」
「ううん。僕も今来たところだよ」
「それならよかったです」
彼女の鞄からは、少し厚みのある本の背表紙が覗いていた。
「もしかして、その本?」
「はい。前に話していたものです。少し古い本なので、今の書店ではあまり見かけないかもしれません」
「へえ、そんなに昔の本なんだ」
「発行されたのは、かなり前ですね。でも、今読んでも面白いと思いますよ」
エヴァは穏やかに笑った。
「それじゃあ、入りましょうか」
「うん!」
二人は店内へ入っていった。
*
窓際の席に案内された二人は、それぞれ飲み物を注文した。
店内は落ち着いていて、客の数も多くない。窓の外を歩く人々を眺めながら、ゆっくり話をするにはちょうどいい場所だった。
「はい。これが、前に話していた本です」
エヴァは鞄から一冊の本を取り出し、テーブルの上に置いた。
表紙には、広い草原と、その向こうに続く道が描かれている。
「わあ……」
ユノは本を手に取り、表紙をじっくり眺めた。
「旅人が、いろんな場所を訪れる話なんだよね?」
「そうです。最初は自分の住んでいた街を出て、遠くの土地へ向かうんです。そこで出会った人たちの話を聞いたり、土地ごとの暮らしを知ったりしていきます」
「冒険みたいな感じ?」
「そうですね。ただ、危険な場所を乗り越えたり、何かを倒したりすることが中心ではありません。旅先で出会った人たちと話をして、その人たちがどんな生活をしているのかを知っていく。そんな物語です」
「それって、面白いの?」
「私は好きですよ」
エヴァは少しだけ表情を明るくした。
「同じ世界に住んでいても、場所が違えば暮らし方も考え方も違いますから。旅人がそれを一つずつ知っていくところが好きなんです」
「なるほど……」
ユノは表紙に描かれた道を指でなぞった。
「この前、別の地区に行ったときも、似たようなことを思ったんだ」
「別の地区ですか?」
「うん。僕たちが普段いるところとは、街の雰囲気も、そこで暮らしている人たちも全然違っててさ。身体の機械化の仕方も人によって違うし、古い機械を使い続けている人もいたんだ」
「そうだったんですね」
「同じ街なのに、知らないことがいっぱいあるんだなって」
エヴァは頷きながら、ユノの話に耳を傾けていた。
「そういう発見があると、街を歩くのも楽しくなりますよね」
「うん。前は目的地に着けばそれでよかったんだけど、最近は途中で見かけたものも気になるようになったよ」
「それは素敵な変化ですね」
「そうかな?」
「はい。目的地だけではなく、そこへ向かう途中にも面白いものがあると気づけたんですから」
ユノは少し照れたように笑った。
「エヴァさんは、昔から本が好きだったの?」
「昔から、というほどではありません。最初は一冊の物語を読んだことがきっかけでした」
「どんな本?」
「遠い土地を旅する人の話です。今お貸しする本とは別のものですが、それを読んでから、知らない場所や、そこに住む人たちのことに興味を持つようになりました」
「それで、古い本を探すようになったんだ」
「そうですね。古い本には、今ではあまり使われない言葉や、当時の人たちの考え方が残っていることがあります。それを読むのも好きなんです」
「僕が買った写真の本にも、昔の人たちの暮らしが載ってたよ」
「前に古書店で見ていた本ですね」
「そうそう。昔の広場の写真とか、街の交通機関とか。今とは全然違うんだけど、そこで暮らしていた人たちがいたんだなって思うと、なんだか不思議で」
「写真に写っている人たちは、きっとそのときの日常を過ごしていたんでしょうね」
エヴァは窓の外へ視線を向けた。
「写真を撮られるために立っていたわけではなくて、買い物をしたり、仕事へ向かったり、誰かと話したり。何気ない時間が、後になって記録として残ることもあるんですよね」
「うん。そう考えると、今の街の写真も、ずっと後になったら昔の暮らしを知るためのものになるのかな」
「そうだと思います」
運ばれてきた飲み物を口にしながら、二人はしばらく写真や本の話を続けた。
ユノは、旅人が訪れる土地について尋ねた。エヴァは本の中に登場する市場や住居、交通手段について説明し、時には自分が好きな場面を少しだけ話してくれた。
話しているうちに、ユノは本を読む前から、その旅人がどんな場所へ向かうのか気になり始めていた。
「早く読んでみたいな」
「気に入ってもらえるといいのですが」
「大丈夫だと思う。エヴァさんの話を聞いてたら、もう面白そうだもん」
「ふふ。それなら、紹介した甲斐がありました」
エヴァは嬉しそうに笑った。
*
しばらくして、ユノは自分が持ってきた本を鞄から取り出した。
「そうだ。僕もこれを持ってきたんだ」
「これは?」
「前に古書店で買った写真の本。昔の街の暮らしが載ってるやつ」
ユノはページを開き、気に入っていた広場の写真を見せた。
「この広場、今はもう残っていない場所なんだけど、昔は市場が開かれていたみたいなんだ」
「まあ……」
エヴァは写真を覗き込み、少し身を乗り出した。
「建物の形も、今の街とはずいぶん違いますね」
「うん。ここに写ってる乗り物も、今のものとは全然違うんだって」
「この時代の交通機関は、まだ個人用の移動装置が普及する前だったのでしょうか」
「たぶん。説明には、決められた路線を走っていたって書いてあったよ」
「路線……。決まった道を通って、人を運んでいたんですね」
「そうみたい。僕も詳しくは知らないんだけど」
ユノは写真の端を指さした。
「この人たちは何をしてるんだろうね」
「市場で買い物をしているのかもしれませんね。荷物を持っている人もいますし」
「そう考えると、今とあんまり変わらないのかな」
「暮らしの形は変わっても、人が買い物をしたり、誰かと会ったりすることは、きっと変わらないのでしょうね」
エヴァは写真を眺めながら、静かにそう言った。
ユノは改めてページを見た。
古い写真の中にいる人たちは、今の自分たちと同じように、何気ない一日を過ごしていたのだろう。
そう考えると、少しだけ身近に感じられた。
「今度、ほかの写真も見せるよ」
「ぜひ。私も本を読み終えたら、好きな場面をお話ししますね」
「約束ね」
「はい」
*
カフェを出る頃には、外の光が少し傾き始めていた。
エヴァは貸し出す本をユノに渡した。表紙には傷みがあるものの、丁寧に手入れされている。
「大切な本だから、汚さないように気をつけます」
「そこまで気にしなくても大丈夫ですよ。普通に読んでもらえれば」
「でも、ちゃんと返すからね」
「ふふ。分かりました」
二人は店の前で立ち止まった。
「今日はありがとうございました。ユノ君と本の話ができて楽しかったです」
「僕も楽しかったよ。知らない本の話を聞くのって面白いね」
「また感想を聞かせてください」
「うん。読み終わったら連絡するよ」
「楽しみにしていますね」
エヴァはそう言って、通りの先へ視線を向けた。
「このあと、少し時間はありますか?」
「え?」
「もしよかったら、少し街を歩きませんか? この辺りには、古い建物が残っている通りがあるんです。私も久しぶりに通ってみようと思っていたので」
「いいの?」
「もちろんです。ユノ君がよければ」
「行きたい!」
ユノは迷うことなく答えた。
「それなら、こちらです」
エヴァが歩き出し、ユノもその隣に並んだ。
*
二人が向かったのは、カフェから少し離れた住宅街の一角だった。
大通りから一本入ると、建物の高さが少しずつ低くなり、通りの雰囲気も変わっていく。
新しい建物の間に、古い外壁を残した建物がいくつか見えた。現在の規格とは異なる窓や、使われなくなった看板の跡も残っている。
「この辺り、ずいぶん雰囲気が違うね」
「そうですね。建て替えられずに残っている建物も多いんです」
「壊さずに残してるんだ」
「ええ。今でも使われているものもありますし、外観だけを残して中を改装している建物もあります」
エヴァは歩きながら、建物の一つを指さした。
「この建物は、昔は小さな商店だったそうです。今は別の用途で使われていますけれど」
「よく知ってるね」
「以前、近くの記録を調べたことがあるんです。古い建物を見ると、どんな人が使っていたのか気になってしまって」
「エヴァさんらしいね」
「そうでしょうか?」
「うん。僕もこの前から、昔の街の写真とか見るようになったし。こういう場所を歩くのも面白いな」
二人は建物の前で足を止め、壁に残された古い案内板を眺めた。
そこには、かつてこの通りに並んでいた店の名前が記されている。
「今はもう残っていないお店ばかりですね」
「でも、ここにあったんだね」
「はい。そこで働いていた人も、買い物に来ていた人もいたはずです」
「なんだか、写真の中の人たちと同じだね」
「そうですね。今の私たちが歩いているこの場所も、いつか誰かにとって懐かしい場所になるのかもしれません」
ユノは周囲を見回した。
今は静かな通りだが、ここにもかつて人々の暮らしがあった。建物の形や看板の跡から、それを想像することができる。
「こういうところ、もっと見てみたいな」
「でしたら、また別の場所も案内しますよ」
「本当?」
「私もまだ知らない場所がありますから。一緒に探すのも楽しそうです」
「それ、いいね!」
ユノは嬉しそうに頷いた。
それから二人は、通りに沿ってゆっくり歩いた。
途中で見つけた小さな店の前で足を止めたり、古い建物の窓を眺めたり。特別な目的があるわけではなかったが、話題が途切れることはなかった。
やがて、通りの先にある広場が見えてきた。
そこには数人の人々が腰掛け、端末を操作したり、談笑したりしている。
「ここも昔からある場所なの?」
「そう聞いています。建物は何度か改修されていますけれど、広場そのものはずっと残されているそうです」
「へえ……」
ユノは広場を見渡した。
古い写真に写っていた広場とは違う。それでも、人が集まり、誰かと話し、思い思いの時間を過ごしているところは似ているように感じられた。
「今度、僕が持ってる写真の本を持ってきてもいい?」
「ぜひ見せてください」
「ここみたいな場所も載ってるかもしれないし」
「楽しみにしていますね」
二人は広場のベンチに腰掛け、しばらく街の様子を眺めていた。
ユノの手元には、エヴァから借りた本がある。
これから読む物語のことを考えると、帰ってからの時間も楽しみだった。
*
一方、レジスタンスの拠点では、技術班の作業室に複数の警告音が響いていた。
「通信がまた途切れたのか?」
「いや、今回は途切れたわけじゃない。応答が返ってくるまでの時間が急に伸びている」
技術班の男性が画面を操作し、別の記録を呼び出す。
「こっちの中継経路も同じだ。予備経路に切り替えようとしたが、切り替え処理そのものに遅延が出ている」
「原因は?」
「まだ分からない。設備の故障では説明できない部分がある」
イリスが作業室に入ってきた。
「状況を教えて」
「複数の通信経路で遅延が発生しています。通常経路だけじゃなく、独立した予備経路にも影響が出始めています」
「物資の輸送は?」
「一部の輸送予定が変更されています。こちらで把握していた経路とは異なるルートを通ったものもあります」
「変更の指示は確認できた?」
「いいえ。記録上は、予定どおりの経路を通ったことになっています」
イリスは画面に表示された地図を見つめた。
「実際の移動記録と、管理上の記録が一致していないのね」
「そういうことになります」
「今までの異常と比べて、今回は影響が大きい?」
「今のところ、通信が完全に止まったわけではありません。ただ、複数の経路を同時に使いづらくなっています。これ以上続くと、拠点間の連絡にも支障が出るかもしれません」
イリスは少し考えたあと、指示を出した。
「拠点内の連絡は有線を優先して。外部との連絡も、可能な限り複数の経路を使って確認する。物資の移動は、予定だけを信用しないで実際の到着を確認して」
「了解」
「それと、各地区の状況を集めて。今回の異常が特定の場所だけで起きているのか、それとも広い範囲に及んでいるのかを調べたい」
技術班のメンバーがそれぞれの作業に戻っていく。
イリスは地図に目を向けたまま、腕を組んだ。
これまでの異常は、個別に見れば小さな問題だった。
通信の遅延。物資の到着時刻の変化。移動経路の不一致。
それらが今、一つの流れのように重なり始めている。
「偶然にしては、できすぎている……」
イリスの呟きに、隣の技術班の男性が顔を上げた。
「何か心当たりが?」
「まだ何も。だから調べる必要がある」
イリスは端末を操作し、拠点内の連絡網を確認した。
「ユノは?」
「今日は外出しています。戻る予定時刻は夕方です」
「そう。連絡が必要になった場合に備えて、予備経路を確保しておいて」
「分かりました」
イリスはもう一度、地図を見つめた。
異常が起きている範囲は、少しずつ広がっているように見えた。
*
広場では、ユノとエヴァがまだベンチに座っていた。
「そういえば、ユノ君は普段どんな本を読むんですか?」
「うーん……実は、あんまり読んだことがないんだ」
「そうなんですね」
「だから、今回借りる本がほとんど初めてみたいなものかな」
「でしたら、読み終わったあとに感想を聞くのが楽しみです」
「期待されるとちょっと緊張するなあ」
「難しく考えなくても大丈夫ですよ。面白かったところでも、分からなかったところでも、感じたことをそのまま教えてください」
「それならできそう」
ユノは借りた本を鞄から取り出し、表紙を眺めた。
「この旅人は、最後にはどこへ行くんだろうね」
「それは読んでからのお楽しみです」
「えー、教えてくれないの?」
「最初から知ってしまったら、少しもったいないでしょう?」
「それもそうか」
ユノは笑いながら本をしまった。
エヴァも小さく笑う。
そのとき、ユノの端末が短く振動した。
「ん?」
画面を見ると、拠点からの連絡が届いていた。
『通信設備の調整を行っています。連絡が遅れる場合があります』
「どうしたんですか?」
「拠点から連絡。通信設備の調整をしてるみたい」
「そうなんですね」
「最近、通信がちょっと不安定なんだよね」
「街の通信網も、ですか?」
「ううん。詳しいことは分からないけど、拠点の中でも少し問題が起きてるみたい」
ユノは端末をしまった。
「まあ、僕がここにいてもできることはないし、戻ったら確認してみるよ」
「そうですね。急いで戻る必要があるなら、遠慮なく言ってくださいね」
「ありがとう。でも、もう少しだけ一緒に歩いてもいい?」
「もちろんです」
エヴァは微笑み、ベンチから立ち上がった。
「では、もう少し先まで行ってみましょうか」
「うん!」
二人は広場を離れ、通りの先へ歩き始めた。
街には、いつもと変わらない人々の暮らしがあった。
*
エデンズ。
アダムズタワーの中枢では、街の各所から集められた情報が整理されていた。
ユノの行動記録。
エヴァとの接触。
レジスタンス拠点における通信設備の変更。
輸送経路の再検討。
それらの情報が一つずつ処理され、既存の予測モデルへ反映されていく。
『対象者:ユノ』
『接触対象:エヴァ』
『接触状況:継続中』
『対象者の行動予測モデル:更新』
『周辺環境への反応:想定範囲内』
続いて、別の情報が表示された。
『レジスタンス拠点』
『通信遅延:複数経路で確認』
『輸送経路の変更:継続』
『対象組織の対応能力:再評価中』
『代替経路への移行:確認』
画面上の地図に、いくつもの区域が表示される。
それぞれの区域には、管理状態を示す情報が付随していた。
『対象区域の管理状態:変更準備』
『周辺通信網:制御権限の調整』
『移動経路:再構成中』
『実行時の環境負荷:許容範囲内』
さらに、別の項目が表示される。
『対象者の行動範囲を限定するための条件を確認』
『関係者の移動傾向:分析中』
『周辺区域の管理権限:移行準備』
『次段階の実行判断:保留』
しばらくして、最後の記録が追加された。
『観測段階:終了準備』
『次段階:実行準備』
画面の表示が切り替わり、街の地図が再び映し出された。
そこには、何事もなく日常を過ごす人々の姿があった。




