写真に残る時間
基地に戻ってから、数日が経った。
僕は最近、時間があるときに一冊の本を開くようになっていた。
先日、エヴァと一緒に訪れた古書店で買った、昔の街並みを記録した写真集だ。
表紙には、今では見かけなくなった古い建物と、その前を歩く大勢の人々が写っている。
最初は、ただ珍しい景色だと思っていた。
けれど、ページをめくるたびに、写真の中に写っているものが少しずつ気になり始めた。
建物の形や道路の幅、店先に並んだ商品。人々が手に持っている鞄や、道路の端に停められた乗り物。
今の街とは違うものが、いくつもある。
それなのに、そこに写っている人たちの表情は、今の人々とそれほど変わらないように見えた。
笑っている人もいれば、誰かと話している人もいる。
急いで歩いている人もいれば、店先で立ち止まっている人もいた。
写真の中の時間は止まっている。
でも、その一瞬の前後には、きっとそれぞれの生活があったのだろう。
「……面白いな」
思わず、そんな言葉が口から出た。
写真の中にあるのは、ただの古い街並みではない。
そこに暮らしていた人たちの、何気ない日常だった。
*
「ユノ、何読んでるの?」
昼食を終えて自室に戻ろうとしていたところで、ミナに声をかけられた。
「この前、街で買った本だよ」
「ああ、古い写真が載ってるやつ?」
「うん。見てると、今の街と結構違うんだよね」
僕は本を開いて、ミナに見せた。
そこには、広い道路と、その両側に並んだ低い建物が写っている。
「へえ……。ずいぶん昔の街だね」
「この頃って、今みたいにAIが街を管理してたのかな?」
「どうだったかな。私が小さい頃には、もうかなり管理が進んでいたと思うけど」
ミナは写真を覗き込みながら答えた。
「でも、今ほど何でも自動化されていたわけじゃなかったよ。買い物に行くのも、移動するのも、今より人の手が必要だったはず」
「そうなんだ」
「今は交通機関も物流も、ほとんどAIが管理しているでしょう? 昔は人が運転したり、荷物を運んだりしていたんだよ」
「人が全部やってたの?」
「全部ではないけどね。機械は昔からあったし、今と同じように自動で動くものもあった。ただ、今ほど広い範囲を一つのシステムで管理することはできなかったんじゃないかな」
ミナは写真の端を指で示した。
「ほら、これ。道路の向こうに小さな店が並んでいるでしょう?」
「うん」
「こういう場所は、店ごとに人が仕入れをして、売るものを決めていたんだと思う。今みたいに需要を予測して、必要なものを自動で届ける仕組みとは違うね」
「じゃあ、売り切れたりすることもあった?」
「もちろん。反対に、思ったより売れなくて余ったりもしたんじゃないかな」
「それは大変そうだね」
「大変だったと思うよ。でも、そういうことも含めて商売だったんじゃないかな」
ミナは少し懐かしそうに写真を見つめていた。
「今は便利になったけど、昔には昔のやり方があったんだろうね」
「うん……」
僕はもう一度、写真に目を落とした。
今の街では、店に並ぶ商品も、交通機関の運行も、必要なものが必要な場所へ届くように調整されている。
それは確かに便利だ。
でも、写真の中の人たちは、今とは違う方法で生活を成り立たせていた。
「ミナは、昔の街に行ってみたいと思う?」
「昔の街?」
「うん。もし、こういう場所が今も残っていたら」
「そうだね。少し見てみたいかな」
「どうして?」
「今の生活と何が違うのか、自分の目で確かめてみたいから」
ミナはそう言って笑った。
「それに、昔の人がどんなことを考えて暮らしていたのかも気になるしね」
「そっか」
僕も、同じことを考えていた。
写真だけでは分からないことが、きっとたくさんある。
その場所に立ってみたら、何か違うものが見えるのかもしれない。
*
午後、僕は技術班の作業場へ向かった。
以前から手伝っている通信機器の整理と、回収した旧型部品の動作確認をするためだ。
「ユノ、ちょうどよかった。これを運ぶのを手伝ってくれるか?」
「いいよ」
技術班の男性に頼まれ、僕は作業台の横に置かれたケースを持ち上げた。
中には、小型の通信端末がいくつか入っている。
「これ、何に使うの?」
「旧式の予備端末だ。今の通信網が不安定になった場合に備えて、別系統で連絡を取れるようにしておきたい」
「前に言ってた、通信の異常への対策?」
「ああ。ここ最近、通信の遅延が何度か起きているだろう。今のところ大きな問題にはなっていないが、同じことが続くなら備えを増やしておきたい」
僕はケースを棚の前まで運んだ。
「これを使えば、通信が止まっても連絡できるの?」
「完全に代わりになるわけじゃない。届く情報量も少ないし、距離にも制限がある。ただ、別の経路を確保しておく意味はある」
「なるほど」
「便利なものが使えなくなったとき、どうするかを考えておくのも大事だからな」
技術班の男性は、端末を一つ取り出して電源を入れた。
小さな画面に、簡素な起動画面が表示される。
「これ、ずいぶん古そうだね」
「古いが、まだ使える。余計な機能がない分、構造も単純だ。修理もしやすい」
「新しいものの方が性能はいいんじゃないの?」
「性能だけならな。ただ、複雑になればなるほど、故障したときに原因を探すのが難しくなることもある」
男性は端末の裏側を開き、内部の接続部分を確認した。
「新しいものが必ずしも、どんな状況でも優れているわけじゃない。使う場所や目的によって、適したものは変わるんだ」
その言葉に、僕は少し考え込んだ。
新しいものが便利なのは間違いない。
でも、古いものにも古いものなりの良さがある。
それぞれに役割があるということなのだろう。
「ユノ、そっちの端末も確認してくれるか?」
「分かった」
僕は隣の端末を手に取り、電源を入れた。
画面は点灯したものの、接続確認の表示が途中で止まっている。
「あれ?」
「どうした?」
「これ、接続が途中で止まってるみたい」
「端子を確認してみてくれ。接触が悪いのかもしれない」
言われた通り、端末の接続部分を確認する。
見た目には問題なさそうだったが、内部の小さな端子が少しだけずれていた。
「ここかな……」
慎重に位置を直してから、もう一度電源を入れる。
今度は最後まで起動し、接続確認も正常に終わった。
「直った?」
「うん。端子が少しずれてただけみたい」
「よし。じゃあ、記録を残しておいてくれ。次に同じ症状が出たときの参考になる」
「分かった」
僕は端末の番号と、確認した内容を書き込んだ。
*
作業が一段落した頃、イリスが技術班の部屋に入ってきた。
「確認作業は終わった?」
「ちょうど終わったところだよ」
「そう。通信の状態について、少し話をしたいんだけど」
イリスは技術班の男性と向かい合い、端末の記録を確認し始めた。
「今日も一部の通信で遅延が出ている。前回と同じような傾向ね」
「こちらでも確認している。通常の通信経路に問題があるわけではなさそうだ」
「原因は分かった?」
「まだだ。機器の故障や通信量の増加だけでは説明できない部分がある」
イリスは画面を見つめたまま、少し考え込んだ。
「通信経路の変更が確認できないのに、実際の経路が変わっている。そういう状態が続いているのよね」
「ああ。意図的に何かをされている可能性はある。ただ、今の段階では断定できない」
「こちらの通信内容が漏れている可能性は?」
「完全には否定できない。だからこそ、旧式の端末を使った別系統の連絡手段を準備している」
イリスは頷いた。
「しばらくは重要な連絡を複数の経路で確認する。予定の変更も、必ず別の方法で共有して」
「了解した」
話を聞いていた僕は、少し気になって尋ねた。
「ねえ、イリス。通信が遅れるのって、そんなに困ることなの?」
「場合によるわね」
「例えば?」
「仲間が移動しているときに、目的地の変更が伝わらなかったら?」
「あ……」
「必要な物資が届かないこともある。救護が必要な人がいるときに連絡が遅れれば、対応も遅れる」
「そっか」
「今は小さな遅延で済んでいるけれど、同じことが重なれば大きな問題になる可能性がある」
イリスは端末を閉じた。
「だから、今のうちにできる対策をしておくの」
「分かった。僕も気をつけるよ」
「あなたはまず、確認を怠らないこと。分からないことがあれば、勝手に判断せずに聞いて」
「うん」
イリスは少しだけ表情を緩めた。
「それができれば十分よ」
その後、イリスは技術班の男性と具体的な対策について話し合い始めた。
僕は邪魔にならないよう、確認の終わった端末を棚へ戻していった。
*
夕食の時間。
食堂でミナと向かい合って座っていると、彼女が僕の手元に目を向けた。
「また本を持ってきたの?」
「うん。さっきも少し読んでたんだけど、気になる写真があって」
「どんな写真?」
「街の広場なんだけど、たくさん人が集まってるんだ。何か催し物をしていたみたい」
「へえ」
「今の街にも広場はあるけど、こういうふうに人が集まっているところはあまり見ない気がする」
「今は人が集まる場所や時間も、管理されていることが多いからね」
「昔は違ったのかな?」
「どうだろう。もちろん昔にも決まりはあっただろうけど、今より自由に集まれる場所は多かったのかもしれないね」
僕は写真を開き、ミナに見せた。
「ここにいる人たちは、何をしてるんだろう」
「買い物かもしれないし、何かを見に来たのかもしれない。写真だけでは分からないね」
「うん」
「でも、楽しそうに見える」
ミナの言葉に、僕は改めて写真を見た。
確かに、そこに写っている人たちは楽しそうだった。
何かを売っている人。
それを見ている人。
子どもを連れて歩いている人。
誰かと話しながら笑っている人。
写真の中には、いろいろな人がいた。
「こういう場所が今もあったら、行ってみたいな」
「ユノは本当に興味が広がったね」
「そうかな?」
「前は、休みの日に何をするかもあまり決めていなかったでしょう?」
「そうだったかも」
「今は本を読んだり、街を見て回りたいと思ったり。自分からやってみたいことを見つけている」
ミナは嬉しそうに笑った。
「いいことだと思うよ」
「ありがとう」
僕は本を閉じた。
この前、エヴァが話していた旅人の物語も気になっている。
知らない場所へ行って、そこで暮らす人たちと出会い、いろいろなことを知っていく。
そんな話だった。
今の僕には、少しだけその気持ちが分かる気がした。
知らない街を歩いてみたい。
そこで暮らす人たちの話を聞いてみたい。
写真や本に書かれていることだけではなく、自分の目で見て、耳で聞いて、実際に知ってみたい。
そう思うようになっていた。
*
その夜。
アダムズタワーの内部では、都市全域の情報が整理されていた。
通信遅延の発生状況。
物資輸送経路の変更。
各地区における人員の移動。
それらの情報が一つずつ照合され、更新されていく。
その中に、レジスタンス拠点の通信状況に関する記録があった。
『対象区域:通信遅延の発生を確認』
『対象組織:代替通信手段の準備を開始』
『対応行動:複数経路による情報照合』
『行動傾向:既存の通信障害に対する冗長化を優先』
さらに、別の情報が追加される。
『対象者:ユノ』
『旧式通信端末の整備作業に参加』
『作業中の判断:不具合箇所の確認および修正』
『新規情報:過去の都市生活に関する資料への関心を確認』
『観測情報を更新』
画面上の情報が切り替わる。
通信の遅延は継続している。
しかし、レジスタンス側の対応も進んでいた。
『現行の観測を継続』
『追加介入の必要性を評価』
『評価結果:保留』
その判断を最後に、処理は次の情報へと移った。
*
僕はベッドに腰掛け、本を開いていた。
昼間に見ていた広場の写真を、もう一度眺める。
そこに写っている人たちは、今の僕と同じように、毎日を過ごしていたのだろう。
仕事に行ったり、買い物をしたり、誰かと話したり。
きっと、楽しいことばかりではなかったはずだ。
それでも、そこにはその人たちの生活があった。
「……いつか、見に行ってみたいな」
今度は、写真に写っているような場所を。
昔の街並みが残っている場所でもいいし、今まで行ったことのない地区でもいい。
そこにどんな人がいて、どんな暮らしをしているのか。
知りたいことが、少しずつ増えていく。
僕は本を閉じ、枕元に置いた。
明日も、きっといつも通りの一日が始まる。
でも、その一日の中にも、まだ知らないことがあるのかもしれない。
そう考えると、少しだけ明日が楽しみになった。




