第19話:ダンスの練習相手になって -その①-
――午後/シンクレア家・練習室
廊下を歩いてきたヨモギは、扉の向こうから聞こえる曲に足を止めた。
玄関で出迎えてくれた使用人は、フローラならこちらにいると言っていた。
細く開いた扉を押すと、磨かれた床に窓からの光が長く伸び、その中でフローラが一人、踊っている。
向きを変えるたびに淡い水色のスカートが小さく広がり、後ろで束ねたピンクと銀の髪も、ふわりと肩を離れた。
曲の終わりに合わせて足が揃うと、揺れていた髪も背へ戻る。
壁の鏡へ目を向けたフローラは、そこに映るヨモギに気づいた。
「ヨモギちゃん!」
さっきまで静かだった靴音が軽く弾み、フローラが駆け寄ってくる。
ヨモギは肩に掛けた鞄を持ち直した。
「何してるんだ?」
「ダンスの練習。今度のパーティーで、この曲を踊るんだって」
「ふうん」
ヨモギは窓際に二脚並んだ椅子へ向かい、飲み物の盆が置かれた小さなテーブルの脇へ鞄を下ろしかけた。
すると、ついてきたフローラが隣から声を掛ける。
「ねえ。ちょうどよかった。少し相手になってくれない?」
「何の?」
「ダンスの!」
ヨモギは、下ろしかけた鞄をもう一度持ち上げた。
「部屋で待ってる」
「どうして戻るの?」
「練習の邪魔だろ」
「相手をしてくれたら、邪魔じゃないよ」
フローラが扉との間へ回り込み、ヨモギは足を止めた。
「先生とやればいいだろ」
「先生とは、午前中にやったよ」
「じゃあ終わりじゃないか」
「ヨモギちゃんとは、まだ踊ってないもん」
「踊る必要があるのか?」
「一回くらい、やってみようよ」
フローラが片手を差し出した。
ヨモギはその手を見てから、窓際の椅子へ目をやる。
鞄には、二人で遊ぶつもりで持ってきたゲームが入っていた。
「……一曲だけだぞ」
「うん!」
フローラの返事は早かった。
◇
ヨモギが鞄を置き、用意してもらった練習用の靴へ履き替える間に、フローラは曲を最初まで戻した。
再生はせずに部屋の中央へ立ち、ヨモギが来るのを待つ。
「踊ったことは、あるよね?」
「簡単なのならな。挨拶くらいは知ってる」
「じゃあ、すぐできるよ」
「お前が言うと、あまり信用できないんだが」
フローラは笑ってヨモギの横へ並んだ。
「最初は、こう。こっちの足から始めてね」
一歩を踏み出して横へ移り、もう片方の足を寄せる。
ヨモギはその足元を見ながら、同じ順に足を運んだ。
「そう。それから、今度は――」
二度目を見せようとしたフローラより先に、ヨモギの足が動く。
その歩幅までほとんど同じで、フローラは目を丸くした。
「もう覚えたの?」
「今、見た」
「じゃあ、その次もやってみよう」
今度はフローラがゆっくり向きを変えると、ヨモギも一度その動きを確かめただけで、同じように回った。
少し先まで進んでも、足の順番を間違えない。
フローラが途中で止まると、ヨモギも隣へ戻ってきた。
「ここまでか?」
「うん。あとは、これをつなげていくの」
「なら、できるだろ」
ヨモギは、今覚えた動きを一人でもう一度繰り返す。
鏡の中でも靴先が滑らかに向きを変え、戻ってくると、フローラが嬉しそうに手を叩いた。
「上手!」
「足を動かす順番を覚えただけだ」
「じゃあ、二人でやってみようね」
差し出されたヨモギの左手に右手を重ね、フローラは空いた手をその肩へ添えた。
ヨモギも迷わず彼女の背へ手を回す。
ただ、手の中でフローラの指が少し動くと、ヨモギは握り直した。
「そんなに、ぎゅっとしなくていいよ」
「落としたら困るだろ」
「私、荷物じゃないよ?」
ヨモギが少し力を抜くと、フローラは頷いて手を離し、曲を流しに行った。
戻ってきた彼女と向かい合い、もう一度手を重ねる。
静かな前奏が終わるのを待ち、ヨモギは覚えた通りに一歩を踏み出した。
最初の数歩は、問題なかった。
横へ動いて足を揃え、次の拍で向きを変える。
その瞬間、フローラの肩が急にヨモギの方へ引かれた。
「わっ」
フローラが小さく足を踏み直したのを見て、ヨモギもすぐに動きを止める。
曲だけが、二人を置いて先へ進んでいく。
「……何で、そっちへ出た?」
「今、ちょっと早かったよ」
「曲には合ってただろ」
「うん。でも、私はまだ、こっちにいたの」
フローラが残っていた足を軽く動かすと、ヨモギは自分の靴と見比べた。
「次に回るって、決まってるだろ」
「そうなんだけど、急に引かれたから」
「……分かった。もう一回だ」
ヨモギは手を離し、今度は自分で曲を戻しに行った。
◇
二度目は、ヨモギが声を掛けることにした。
「次、回るぞ」
「うん」
「こっちだ」
声と一緒にヨモギの腕が動き、フローラの足が少し遅れてついてくる。
ぶつかりはしなかったが、足を揃えるはずのところで二人の間が狭まり、ヨモギは眉を寄せた。
「言っただろ」
「言いながら、もう引っ張ってたよ」
「もっと先に言うのか?」
「ずっと喋ってなくても大丈夫だよ。手で分かるから」
ヨモギがつないだ手へ目を落として考えているうちに、曲は次のところへ進んでいた。
「ほら、今度は遅れた」
「ヨモギちゃんが止まったんでしょ?」
顔を見合わせた二人は、もう一度、最初の場所へ戻る。
今度はヨモギがフローラの足元を見ながら、動き出すのを待って自分も足を出そうとした。
足元に気を取られるうちに顎が下がり、つないだ腕まで少し前へ伸びてしまう。
「ヨモギちゃん、こっちを見て」
「足を見なきゃ、踏むだろ」
「下ばっかり見てると、背中が丸くなるよ」
「どこにあるか分からない方が危ない」
それでもヨモギはつま先の位置を確かめ、一歩、もう一歩と足を運んだ。
フローラの靴が見えなくなって少し横へ顔を出すと、肩も一緒にずれる。
その動きにつられたフローラが踏み出しかけたところへ、ヨモギの足が重なった。
「あっ」
ヨモギがすぐに足を引くと、フローラは曲を止めた。
二人の間へ、静けさが戻る。
「……痛かったか?」
「ちょっとだけ。大丈夫」
フローラは足を一度動かしてから、ヨモギへ目を戻した。
「見てても、踏んだよ?」
「……一回だけだ」
「うん。だから、次はこっちを見ようね」
ヨモギは何も答えず、鏡へ目を向ける。
一人でやった時には間違えなかったし、今も足の順番は覚えている。
確かめるように空いている場所へ半歩離れ、先ほどの動きを一度だけ繰り返した。
足を止めずに回り、そのまま元の向きへ戻ってくる。
その動きを見ていたフローラが、声を掛けた。
「ねえ。今度は、私が先に動いてもいい?」
ヨモギが顔を上げる。
「お前に合わせるのか?」
「うん。今日は私が教える番だから」
フローラは一歩近づき、先ほどとは反対の手を差し出した。
◇
曲の出だしが、もう一度流れた。
ヨモギはフローラの手を取り、もう片方の手を肩へ添えて位置を確かめる。
背に触れたフローラの掌には、押すほどの力は入っていなかった。
けれど、彼女の身体がほんの少し動くのは、つないだ腕から伝わってくる。
それを感じてヨモギが足を出すと、フローラも合わせて進んだ。
「そう。そのまま」
数歩進むうちに次の拍が近づき、ヨモギは回る用意をした。
けれど、フローラの手はまだ次の向きを示していない。
確かめようと目を下げかけたところへ、短い声が届く。
「こっち」
顔を上げると、フローラが笑っていた。
つないだ手がわずかに向きを変えるのを感じ、ヨモギはそれを追うように身体を動かす。
肩がぶつかることも、引っ張られる感じもなく、二人はそのまま向きを変えていた。
窓は横へ移り、長い鏡が二人の正面へ来ている。
「……今、ボクが遅れたか?」
「少しだけね」
「止まらなかったぞ」
「歩幅を小さくしたの」
フローラは喋りながら次の一歩を出し、ヨモギが少し大きく下がると、その分だけ足を進めた。
間が空きすぎる前に、つないだ腕が元の位置へ戻る。
ヨモギは眉を寄せ、フローラの顔を見た。
彼女は足元に目を落とさず、時々進む先を確かめては、すぐにヨモギへ視線を戻している。
曲の流れに合わせて、スカートの裾が揺れた。
肩へ添えた手にも、背に触れるフローラの掌にも、さっきから余計な力は入っていない。
ヨモギは自分の指へ目を落としかけてやめ、前を向いたまま少し力を緩めた。
フローラの手が、握り直さずに動く。
「そう。それくらいがいいよ」
「……お前、慣れてるんだな」
「ずっと習ってるもん」
「知ってるけど」
ダンスを習っていることは知っていたが、こうして相手をするのは初めてだった。
ヨモギの足が少し遅れても、フローラは顔をしかめず、歩幅や手の向きを変えて二人の動きをつないでいく。
鏡へ目を向けると、そこに映る二人は今も踊り続けていた。
さっきまで何度も足を戻していた場所も、今度はそのまま通り過ぎていく。
「……今、ボクに合わせただろ」
「うん。二人で踊ってるからね」
フローラは、いつもと同じ調子で答えた。
次の曲がり目が近づくと、ヨモギは今度こそ手から伝わる動きを確かめ、彼女が進もうとする方へ足を引く。
少し早かった。
けれど、腕を引いてしまう前に歩幅を小さくすると、フローラの足が滑らかについてきた。
「今の、よかったよ」
ヨモギは答えなかった。
その代わり、次の一歩でも同じようにした。




