第13話:お風呂は戦場ではない -その②-
三度目は、二人ともすぐには動かなかった。
フローラがわずかに身体を傾けるたび、ヨモギの視線がその動きを追う。
ヨモギの手が湯面の下で動くたび、フローラも身構えた。
湯気の中で、互いに相手の動きを読み合う時間だけが続いた。
先に仕掛けたのは、ヨモギだった。
湯を放つように、右手を勢いよく振り上げる。
右手から飛沫が来ると思ったフローラは、反射的に身体を左へ傾けた。
だが、ヨモギの右手は空だった。
それは、フローラを左へ避けさせるための囮だった。
ヨモギはその動きを待ち、湯面の下に隠していた左手ですくった湯を、フローラが避けた先へ放った。
「えっ?」
次の瞬間、左手から放たれた飛沫が、フローラのタオルを弾き飛ばす。
「二対一」
「今、両手を使ったよ?」
「湯をすくったのは片手だけだ」
「最初のは?」
「動かしただけだ」
フローラは少し考えたあと、納得したように頷いた。
「じゃあ、動かすだけなら両手を使ってもいいんだね」
「真似するなよ」
四度目。
フローラは新しいタオルを頭へ載せ、両手を湯の中へ入れた。
右手が動き、ヨモギが左へ身体を傾ける。
「そっちは動かしただけだよ」
同時に、反対の手から放たれた湯が、頭上のタオルへ当たった。
濡れた布が、音もなく湯面へ落ちる。
「二対二だね!」
「…………」
「ヨモギちゃんが教えてくれたから、できたよ」
「教えてない!」
最後の一点を取った方が勝つ。
ヨモギは濡れたタオルを新しいものへ替え、二人は再び向き合った。
今度は、どちらも簡単には動かない。
互いに、相手の両手から目を離さなかった。
ヨモギが仕掛けようと、右手をわずかに沈める。
その瞬間、フローラの左手が湯面から跳ね上がった。
だが、ヨモギは動かなかった。
左手に湯がないことは、もう分かっている。
「同じ手に二度も引っかかるか」
ヨモギの口元が、わずかに緩んだ。
その瞬間、フローラの右手が湯面を払った。
避けた先を狙ったのではない。
ヨモギが動かないことを読んで、最初から頭上のタオルへ狙いを定めていた。
「なっ――」
細い湯の筋が、タオルの中央へ命中する。
濡れた布は一度だけ頭の上で回り、そのまま浴槽へ落ちた。
「三点!」
フローラが両手を上げる。
「私の勝ち!」
「今のはずるい!」
「どうして?」
「ボクが避けないのを待ってただろ!」
「待ったら駄目って、決めてないよ?」
フローラは、決めた規則を一つも破っていない。
自分の方法を真似され、それを見破るところまで読まれて負けた。
頭では分かっていた。
それでも、納得できるはずがなかった。
「おフローラのくせに!」
浴室が静まり返った。
フローラは両手を上げたまま、何度か瞬きをした。
「……おフローラ?」
「お前のことだ!」
「どうして『お』がついたの?」
「知らない!」
「じゃあ、ヨモギちゃんは、おヨモギちゃん?」
「ボクに『お』をつけるな!」
ヨモギは両手で湯をすくい、フローラへ向けて放った。
「両手は反則だよ!」
「勝負はもう終わった!」
「おヨモギちゃんが、負けたから怒ってる!」
「その呼び方をやめろ!」
フローラも両手で湯をすくい、ヨモギへ浴びせ返した。
大きな飛沫が飛び交い、湯面が激しく波打つ。
その最中、フローラの視線が浴槽の縁で止まった。
そこには、二つの手桶が置かれていた。
ヨモギも、その視線の先に気づく。
「それは使うなよ」
「どうして?」
「片手ですくった分だけって決めただろ」
「でも、勝負はもう終わったんだよね?」
「…………」
フローラが手桶へ手を伸ばす。
ヨモギも反対側の手桶をつかんだ。
二つの手桶が、ほとんど同時に湯へ沈む。
「おヨモギちゃん、まだやる?」
「その呼び方をやめたら、やめてやる」
「じゃあ、やめない」
「おフローラ!」
二人は同時に手桶を振り上げた。
浴槽の中央で二つの水塊がぶつかり、弾けた湯が高く舞い上がる。
大粒の飛沫が二人の頭上へ降り注ぎ、浴槽の縁を越えて白い石の床へ広がった。
それでも終わらない。
二人がもう一度、手桶を湯へ沈めた時だった。
「フローラ様。ヨモギ様」
二人の手が、同時に止まった。
「お嬢様方。入浴は戦闘訓練ではございません」
フローラが、扉の方へ顔を向ける。
「魔法は使ってないよ」
「手桶も禁止してない」
ヨモギも続ける。
扉の向こうで、短い沈黙があった。
「そういう問題ではございません」
二人は浴槽の外へ目を向けた。
白い石の床には、大きな水たまりができている。
ヨモギはフローラを見る。
フローラもヨモギを見た。
どちらからともなく、手桶を浴槽の縁へ戻した。
◇
風呂から上がり、二人は寝間着へ着替えた。
使用人たちに髪を乾かしてもらっている間も、勝敗を巡る言い合いは終わらなかった。
「三対二で、私の勝ちだよ」
「最後は反則だ」
「どの規則にも違反してないよ?」
「規則が足りなかったんだ。次は、攻撃に使わない方の手を浴槽の縁へ置くことにする」
「次は五点にしようね」
「三点だと短すぎる。五点でいい」
「また一緒に入ってくれるの?」
ヨモギは口を閉じた。
フローラが鏡越しに、嬉しそうな顔を向けている。
「……今の勝負に、ちゃんと決着をつけるだけだ」
「今日は私が勝ったよ?」
「次は負けないからな」
「うん。また一緒に入ろうね!」
「そういう意味じゃない!」
部屋へ戻ると、ベッドの上には二つの枕が並んでいた。
ヨモギは持参した枕へ頭を載せ、毛布へ潜り込む。
フローラも隣の枕へ頭を載せた。
「おやすみ、おヨモギちゃん」
「その呼び方はやめろ!」
フローラの楽しそうな笑い声は、部屋の明かりが消されたあともしばらく続いていた。




