第13話:お風呂は戦場ではない -その①-
――シンクレア家・本邸/フローラの自室
ベッドの上には、二つの枕が並んでいた。
一つは、淡い桃色の柔らかな枕。
もう一つは、ヨモギが自宅から持ってきた、硬さも高さも自分に合わせた枕だった。
フローラは見慣れない方の枕を両手で持ち上げ、嬉しそうに胸元へ抱き締めていた。
「ヨモギちゃん、本当に持ってきたんだね!」
「次は自分の枕を持ってくるって言っただろ」
「うん。だから、また泊まりに来てくれると思ってたの」
「枕の話をしただけだ」
「でも、持ってきてくれたよ?」
ヨモギは答えず、フローラから枕を取り返した。
元の位置へ戻し、角度まできっちり整える。
「今日は、こっちまで使うなよ」
「使わないよ」
「前もそう言ってた」
「言ってないよ?」
「言ってなくても使うな」
フローラは笑いながら、自分の枕をヨモギの枕の隣へ寄せた。
その時、部屋の扉が静かに叩かれた。
「フローラ様、ヨモギ様。お風呂の準備が整いました」
扉の向こうから聞こえた使用人の声に、フローラが振り返る。
「はーい!」
明るく返事をすると、すぐにヨモギへ向き直った。
「ヨモギちゃん、一緒に入ろう!」
「断る」
返事は早かった。
「どうして?」
「一緒に入る必要がない。順番に入ればいいだろ」
「でも、うちのお風呂は広いよ?」
「広さの問題じゃない」
「前に泊まった時も、一人で入ってたよね」
「それが普通だ」
フローラは少し考えるように首を傾げたあと、ヨモギの顔を覗き込んだ。
「もしかして、一人じゃないと入れないの?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあ、私と一緒でも入れる?」
「当たり前だ」
「よかった。じゃあ行こう!」
フローラはヨモギの手をつかむと、そのまま扉へ向かって歩き出した。
「待て! 入れるとは言ったけど、入るとは言ってない!」
「入れるのに、どうして入らないの?」
「一緒に入る必要がないからだ!」
「私は一緒に入りたいよ?」
ヨモギは足を止めた。
ここで手を振りほどけば、フローラと一緒には入れないから逃げたと思われる。
そうではないと説明したところで、フローラはきっと同じ質問を繰り返す。
「……一回だけだからな」
「うん!」
フローラは満面の笑みで頷いた。
ヨモギは、自分で逃げ道を塞いだことに、まだ気づいていなかった。
◇
シンクレア家の浴室は、二人で使うには広すぎた。
白い石を敷き詰めた床の先に、大きな浴槽が広がっている。
壁一面の窓の向こうには小さな中庭があり、魔導灯に照らされた木々が、湯気の奥に浮かんでいた。
ヨモギは浴室を見回した。
「ここまで大きくする必要があるのか?」
「みんなで入れるよ」
「誰と入るんだ」
「今日はヨモギちゃんと」
「二人しかいないだろ」
二人は並んで髪と身体を洗い、先に終えたヨモギが浴槽へ向かった。
湯が大きく揺れないよう、縁へ手をつき、ゆっくりと中へ入る。
肩まで浸かると、壁際へ背を預けた。
しばらくして、フローラも長い髪をまとめ、浴槽へやってきた。
「待っててくれたの?」
「一緒に入れるって言っただろ。お前が来る前に上がったら、逃げたみたいになる」
「そんなこと思わないよ?」
「誰のせいで入ることになったと思ってるんだ」
フローラはヨモギの向かい側から浴槽へ入った。
そのまま、勢いよく腰を下ろす。
ざぶん、と湯が大きく波打った。
浴槽を渡った波が、ヨモギの顔へまともにぶつかる。
「…………」
ヨモギは目を閉じたまま、顔についた湯を拭った。
「ごめんね。そんなに揺れると思わなかったの」
「静かに入れ」
「次から気をつけるね」
悪気がないことは分かっていた。
それでもヨモギは、指先へ湯を一滴だけ載せる。
向かい側のフローラへ向けて弾くと、小さな水滴が頬へ当たった。
フローラは目を瞬いた。
「今、何かした?」
「同じ分だけ返した」
「さっきのは、もっと多かったよ?」
「全部返したら外まで濡れるだろ」
「じゃあ、今の一滴は別だね」
フローラも指先で湯を弾いた。
今度は、ヨモギの額へ水滴が当たる。
「何で返すんだ!」
「返されたから?」
「元はお前だろ!」
ヨモギは片手で湯をすくい、フローラへ向けて小さく払った。
フローラは両手で顔を隠す。
細かな飛沫が腕へ当たり、そのまま湯面へ落ちていった。
「今のは一滴じゃないよ!」
「最初の残りだ!」
フローラも片手で湯をすくった。
身体を横へずらしたヨモギの肩へ、飛沫が綺麗に当たる。
「避けたのに!」
「当たったね!」
「もう一回だ!」
ヨモギはもう一度湯をすくいかけ、途中で手を止めた。
二人が無制限に掛け合えば、浴槽の外まで水浸しになる。
「待て。このまま続けるのは駄目だ」
「もう終わり?」
「先に規則を決める」
フローラの顔が明るくなった。
「勝負にするの?」
「ただ掛け合うだけだと、どっちが勝ったか分からないだろ」
「分かった!」
ヨモギは浴槽の縁に重ねて置かれていた小さなタオルから、一枚を手に取った。
細長く畳み、自分の頭へ載せる。
「相手のタオルを落としたら一点だ」
フローラも同じようにタオルを畳み、頭の上へ載せた。
「何点取ったら勝ち?」
「三点」
ヨモギは指を一本ずつ立てながら、規則を並べていく。
「魔法は禁止。立つのも禁止。顔は狙わない。一度に使っていいのは、片手ですくった分だけだ」
「避けてもいい?」
「浴槽の中で、座ったままならな」
「手で防ぐのは?」
「それだとタオルまで守れるだろ。手で防いだら反則だ」
「分かった」
「あと、浴槽の外へ湯を出すな」
フローラは、自分の頭へ載せたタオルを両手で整えた。
「先に私からでいい?」
「好きにしろ」
二人は少し距離を空け、浴槽の中で向かい合った。
湯気の向こうで、フローラが右手を湯へ沈める。
勢いよく持ち上げると、扇状に広がった飛沫がヨモギへ向かった。
ヨモギは動かなかった。
飛沫は肩へ届いただけで、頭上のタオルには当たらない。
「低すぎる」
「次は当てるよ」
「次があればな」
ヨモギは湯面へ浅く指先を入れた。
狙うのは、タオルの右端。
手首を素早く返すと、細い湯の筋が一直線に飛んだ。
フローラが反応するより早く、タオルの端へ命中する。
濡れた布が形を崩し、頭から滑り落ちた。
「一点」
ヨモギは得意そうに言った。
「すごい! 真っすぐ飛んだね」
「角度を合わせれば簡単だ」
フローラは湯に浮いたタオルを拾い、浴槽の縁へ置いた。
代わりに、新しいタオルを頭へ載せる。
二度目の攻防が始まった。
今度は、ヨモギが先に仕掛けた。
先ほどと同じように手首を返し、フローラのタオルへ向けて細い湯の筋を飛ばす。
だが、フローラはヨモギの手の動きを見て、先ほどと同じ攻撃だと気づいた。
湯が届く直前に、身体を横へ傾ける。
細い湯の筋は、つい先ほどまでタオルがあった場所を通り抜け、フローラの背後の湯面へ落ちた。
「見えたよ!」
「一回避けただけだろ」
フローラは湯をすくうと、ヨモギの頭上を狙って高く放った。
大きく弧を描いた飛沫が、雨のように降ってくる。
「そんな飛ばし方――」
避ける方向を決めるより先に、タオルが湯を吸った。
端から形が崩れ、そのままヨモギの肩へ落ちる。
「一点!」
「上から落とすのはずるいだろ!」
「顔は狙ってないよ?」
「そういう意味じゃない!」
「でも、禁止って言ってなかったよ」
ヨモギは言い返しかけ、口を閉じた。
確かに、湯を飛ばす方向までは決めていない。
「……一対一だ」
ヨモギは肩へ落ちたタオルを新しいものへ替えた。
向かい側のフローラは、変わらず無邪気に笑っている。
ただ、その視線はヨモギの手首から離れなくなっていた。




