第8話:りりちゃんを捕まえろ -その①-
――グリフィン家・本邸
玄関ホールへ入ってきたフローラは、両腕で大きなキャリーを抱えていた。
全体が白い布で覆われており、その内側からは、何かが動く気配が伝わってくる。
ヨモギは手にしていた工具箱を床へ置くと、警戒するように目を細めた。
「何を持ってきた」
「ヨモギちゃんに紹介しようと思って」
「その中にいるのか?」
「うん。驚かないでね」
フローラが白い布を取り払う。
現れたキャリーの奥には、濃い灰色の長毛に包まれた大きな猫が座っていた。
首まわりの毛は鬣のように豊かに広がり、その中から覗く丸い金色の瞳が、ヨモギをじっと見つめている。
首元には淡い桃色の首輪が巻かれ、胸元の毛の間で金色の星形飾りが揺れていた。
「この子、りりちゃん」
「猫じゃないか」
「メインクーンだよ。男の子なの」
ヨモギは猫を見たあと、隣に立つフローラへ視線を移した。
「男なのに、りりちゃん?」
「りりちゃんは、りりちゃんだよ?」
フローラは当然のように答えると、キャリーの前へしゃがみ込み、扉を開いた。
「ほら、りりちゃん。ヨモギちゃんだよ」
「ちゃん付けするな」
りりちゃんは外へ出ようとはせず、キャリーの奥に座ったままヨモギを見つめている。
ヨモギが様子を窺うように顔を近づけると、身体の横に添えられていたふわふわの尻尾が、ゆっくりと揺れた。
「ずいぶん大きいな」
「毛がふわふわなの。触ってみる?」
ヨモギが恐る恐る手を伸ばしかけた、その時だった。
背後を通りかかった使用人の持つ銀の盆から、スプーンが一本滑り落ちる。
澄んだ甲高い音が、玄関ホールいっぱいに響き渡った。
りりちゃんの耳が、ぴんと跳ねる。
次の瞬間、キャリーの中から大きな毛の塊が飛び出した。
「りりちゃん!?」
りりちゃんは二人の間をすり抜けると、そのまま廊下の角へ消えていく。
フローラが慌ててあとを追い、ヨモギも工具箱を置いたまま駆け出した。
けれど、二人が角を曲がった時には、すでに猫の姿はどこにもなかった。
長い廊下の両側にはいくつもの扉が並び、その先にも部屋や階段が続いている。
「りりちゃーん!」
フローラの呼び声が、廊下の奥まで響き渡る。
「りりちゃん、出てこい!」
ヨモギも声を張り上げたが、どこからも返事はなかった。
「どこへ行った?」
「分からない……」
二人は手分けして、近くの部屋から探し始めた。
ソファの下。
カーテンの裏。
棚と壁のわずかな隙間。
途中から使用人たちにも声をかけ、屋敷の中を一通り見て回った。
けれど、どれだけ探しても、りりちゃんは見つからない。
三十分後。
二人は玄関ホールへ戻ると、疲れ切ってその場に座り込んだ。
「知らない場所だから、怖くなっちゃったのかな」
フローラが、空になったキャリーの中を覗き込む。
「名前を呼んでも出てこないなら、このまま探しても無理だ」
ヨモギはそう言って立ち上がると、置いたままになっていた工具箱を持ち上げた。
「捕まえるぞ」
「どうやって?」
「罠を作る」
途端に、フローラの表情が明るくなった。
「私も作る!」
二人はすぐさま作業部屋へ向かった。
最初に作ったのは、餌へ近づくと天井から柔らかな袋が落ちる仕掛けだった。
猫を傷つけないよう、袋の内側には厚い布とクッションが丁寧に縫いつけられている。
その真下に置いた皿には、りりちゃんが好きな猫用のおやつを載せた。
「これなら絶対に来るよ」
「紐を踏めば袋が落ちて、口が閉じる。これで中からは出られない」
二人は廊下の角へ身を隠し、皿の周りをじっと見守った。
一分。
三分。
五分。
待っても、猫は現れない。
その代わり、廊下を通りかかった使用人が足を止めた。
「あら、こんなところにお皿が……」
片づけようと皿へ手を伸ばした瞬間、足元の紐を踏んだ。
頭上で、袋を収めた箱の底が開く。
「えっ?」
落下した大きな袋が、使用人を頭からすっぽりと包み込んだ。
そのまま体勢を崩し、袋ごと床へ転がる。
「きゃあああ!?」
「かかった!」
フローラが廊下の角から飛び出した。
ヨモギもすぐにあとへ続き、袋の口を開く。
中から顔を出したのは、髪を乱した使用人だった。
「……お嬢様?」
「対象が違う」
「でも、ちゃんと動いたね!」
「罠そのものは成功だな」
二人は満足そうに顔を見合わせた。
いつの間にか、りりちゃんを捕まえられなかったことよりも、仕掛けが正常に作動したことの方が重要になり始めている。
「一か所だけじゃ足りないのかも」
フローラが立ち上がり、廊下の奥を見回した。
「屋敷は広いからな」
ヨモギは床へしゃがみ込むと、仕掛けに使った紐を巻き取りながら考える。
「もっと範囲を広げるぞ」
「うん!」
それから二人は、作業部屋から工具や布、魔導部品を次々に運び出し、屋敷の各所へ新たな罠を仕掛けていった。
廊下を通ると床板が開き、クッションを敷き詰めた穴へ落ちる罠。
扉を開けると天井から袋が降り、通ったものを包み込んで吊り上げる罠。
棚の前を横切ると、左右から柔らかな壁が飛び出し、その間へ挟み込む罠。
どの仕掛けも、猫を傷つけないよう安全性だけは徹底されていた。
それぞれの罠のそばには、おやつを載せた皿も置いていった。
「階段の前にも必要だな」
「二階へ行ってるかもしれないもんね」
「窓際にも一つ置くぞ」
「中庭へ逃げた時の分も作ろう!」
二人の作業は止まらなかった。
やがて屋敷の中は罠で埋め尽くされ、普通に歩ける場所がほとんどなくなっていた。
最初に落とし穴へ落ちたのは、清掃用具を運んでいた使用人だった。
次に、騒ぎを聞いて駆けつけた警備員が、天井から降ってきた袋に包み込まれる。
それを助けようとした別の警備員は、左右から飛び出したクッションに挟まれ、その場から動けなくなった。
廊下のあちこちから、悲鳴と仕掛けの作動音が次々に聞こえてくる。
「またかかったよ!」
「今度こそ、りりちゃんか!?」
二人が急いで駆けつけると、袋の中から白髪の執事が顔を出した。
「ヨモギお嬢様。これは、いったい……」
「違った」
「惜しかったね」
「どこも惜しくございません」
執事を助け出したあと、二人は罠の前へしゃがみ込んだ。
皿の餌は、そのまま残っている。
近くの床を調べても、りりちゃんの抜け毛一本見当たらなかった。
「これだけ仕掛けても捕まらないなんて、りりちゃんってすごいね」
「罠の位置に気づいて、避けているのかもしれない」
ヨモギは顎へ手を当て、しばらく考え込んだ。
「だったら、どこに隠れていても見つけられるようにすればいい」
「どうするの?」
「紐や床板を使うから避けられるんだ。魔力で直接探す」
その言葉に、フローラのローズ色の瞳が輝いた。
「熱も探せるようにしようよ。りりちゃんは毛が多いから、温かいと思う」
「振動もだ。どれだけ静かに歩いても、床へ触れれば反応する」
「音も!」
「それも入れる」
二人は勢いよく立ち上がると、そのまま作業部屋へ駆け戻った。




