第5話:泊まる必要はない -その②-
夕日が消え、窓の外に月が昇る。
夕食の時間になり、二人はいったん盤を離れた。
しかし、食事を終えるとすぐに戻り、再びゲームを始める。
菓子の山は少しずつ低くなり、空いた箱が盤の周囲へ積み重なっていった。
二人はその箱まで領地として使い始めた。
最初は大陸を旅するだけだったゲームに、いつの間にか領土の売買や飛行船同士の戦闘まで加わっている。
判定を求められた使用人は、床へ膝をつき、追加規則を古い順に並べていた。
それでも処理しきれず、別の使用人が呼ばれる。
やがて年長の使用人まで加わり、三人がかりで規則の適用時期を確認し始めた。
「王冠を取ったのは、この規則が追加される前だ」
ヨモギが、盤の上に置かれたカードを指した。
「でも、王冠は取れないことになったよ」
「それが決まったのは、ボクが取ったあとだろ」
「王冠は最初から特別なの」
「どこに書いてある」
二人の顔が、同時に使用人たちへ向けられた。
積み上げられた紙を前に、三人は返答に詰まった。
そのうちの一人が説明書を最初から確認し、別の一人が追加規則に番号を振る。
最後の一人は盤上の駒が通った道を、別の紙に書き写していた。
最初は華やかだった部屋が、いつの間にか裁判所のようになっている。
時計の針が、夜の十一時を示した。
「フローラ様。そろそろお休みのお時間でございます」
使用人に告げられ、フローラはようやく時計を見上げた。
ヨモギも盤から顔を上げる。
窓には室内が映り込み、その向こうはすっかり暗くなっていた。
「判定はどうなった」
「明日までに、すべての規則を整理いたします」
「何で一晩かかるんだ」
紙の山を前に、使用人は申し訳なさそうに頭を下げた。
フローラは、ヨモギの前に置かれた王冠のカードを指した。
「今日はここまでにしよう」
「ボクの勝ちだ」
「まだ終わってないよ?」
「財産はボクの方が多い」
「私は王冠を持ってたよ」
「今はボクが持ってる」
「王冠は取れないことになったの」
同じ話が最初へ戻りかけたところで、使用人たちが揃って二人を見た。
フローラは盤上の駒を見下ろし、話を打ち切った。
「じゃあ、決着は明日ね」
「ボクは帰るぞ」
立ち上がったヨモギの足元で、追加規則の紙が鳴った。
「もう遅いよ?」
「車を出してもらえばいい」
「ヨモギちゃんのご両親には、泊まるって伝えてあるよ」
ヨモギの動きが止まる。
「いつだ」
「ヨモギちゃんが来る前」
それは、ヨモギが誘いを断るどころか、屋敷へ来るよりも前だった。
ヨモギは部屋の入口へ目を向ける。
そこには、夕方に廊下で見かけた使用人が、二人分の寝間着を抱えて待っていた。
傍らのワゴンには、新しい歯ブラシとタオルまで用意されている。
「最初から帰す気なかっただろ」
「ちゃんと泊まるか聞いたよ?」
「ボクは一度も泊まるって言ってない!」
しかし、その抗議も聞き入れられないまま、ヨモギは入浴を済ませ、用意されていた寝間着へ着替えることになった。
そのまま使用人に案内され、フローラの部屋へ入る。
部屋の中央には、大きなベッドが一つ置かれていた。
淡い色の天蓋が下がり、その下には二つの枕が並んでいる。
ヨモギは、ベッドの前で足を止めた。
「何で一つなんだ」
「大きいから、二人で寝られるよ」
「客室があるだろ」
「別の部屋で寝たら、お泊まり会にならないよ?」
ヨモギは廊下へ続く扉を見た。
今からでも客室へ移れる。
しかし、そこで言い合いを続ければ、ようやく解放された使用人たちを呼び戻すことになる。
隣では、フローラがすでに毛布へ入り、当然のように空いている側を軽く叩いていた。
「……寝るだけだからな」
「うん!」
ヨモギはベッドへ上がり、フローラへ背を向けた。
枕へ頭を載せると、頬まで埋まりそうになった。
「柔らかすぎる」
「ふわふわで気持ちいいでしょ?」
「首が落ち着かない」
「すぐに慣れるよ」
部屋の明かりが消された。
薄い天蓋越しに月明かりが差し込み、家具の輪郭だけを浮かび上がらせている。
ヨモギは目を閉じた。
昼間とは違い、屋敷の中には物音一つなかった。
「ヨモギちゃん、起きてる?」
「寝てる」
背後から、すぐに笑い声が返ってきた。
「返事したよ?」
「今から寝るんだ」
「今日、楽しかった?」
「ゲームの判定が終わってない」
「楽しかった?」
「もう寝ろ」
それでもフローラの声は止まらなかった。
一番好きな菓子は何か。
明日の朝は何を食べたいか。
今日のゼリーとチョコレートなら、どちらがよかったか。
ヨモギは何度も寝ろと言いながら、そのたびに返事をした。
ドーナツを二つ食べていたことを指摘された時だけは、なぜ数えていたのかと問い返し、身体を起こしかけた。
しばらくすると、話題は次に二人で何をするかへ移った。
「今度は、一緒にお出かけしたいね」
「人が多いところは嫌だ」
「じゃあ、少ないところにしよう」
「人が少なかったら店がないだろ」
「少しだけ人がいるところ」
「どういう場所だ」
フローラは毛布の中で考え込んでいた。
ヨモギは天蓋を見上げた。
「……工具店なら行ってもいい」
「工具店?」
「新しい部品が入った店がある」
「じゃあ、そこにしよう!」
「お前が行っても面白くないだろ」
「ヨモギちゃんと一緒なら大丈夫だよ」
ヨモギは返事をしなかった。
窓の外では、庭園を照らしていた魔導灯が一つずつ消えていく。
フローラは工具店の近くで寄れそうな場所を並べ始めた。
菓子店。服屋。本屋。
また勝手に決めている、とヨモギが口を挟もうとした時、フローラの声が途切れた。
続きは聞こえてこなかった。
代わりに、穏やかな寝息が届く。
「……自分から話しかけておいて、先に寝るなよ」
ヨモギは身体の向きを変えた。
フローラは目を閉じたまま、ヨモギの腕へ両手でしがみついていた。
腕を引き抜こうとすると、眠ったまま眉を寄せた。
逃がさないように、腕を抱える力が強くなる。
「おい」
呼びかけても反応はない。
ヨモギはもう一度腕を動かしかけ、途中でやめた。
フローラの毛布が肩から落ちている。
空いている方の手で毛布を持ち上げ、その肩へ掛け直した。
「本当に勝手なやつだな」
フローラは何も知らず、ヨモギの腕を抱えたまま眠っている。
ヨモギはしばらく、その顔を見ていた。
もう一度だけ腕を引く。
フローラは離すどころか、頬まで押しつけてきた。
「…………」
今度こそ、ヨモギは諦めた。
起こしてまで離させるほどのことではない。
眠りが深くなれば、そのうち力も抜けるだろう。
そう考えて、柔らかすぎる枕へ頭を戻す。
先ほどまで遊んでいた部屋には、決着のつかなかったゲームが残されていた。
床いっぱいに並んだ規則も、明日までそのままだ。
ヨモギの腕を抱く力は、いつまで経っても弱まらなかった。
寝づらい。
腕も動かせない。
すぐ隣から寝息まで聞こえる。
それでもヨモギは、朝まで一度もフローラを起こさなかった。
◇
翌朝。
ヨモギは、腕の重さで目を覚ました。
フローラは眠っている間も腕を離さなかったらしく、今も両手で抱えている。
それどころか、いつの間にか自分の枕からずれ、ヨモギの枕へすっかり頭を移していた。
ヨモギが使えているのは、端のわずかな部分だけだった。
「起きろ」
「ん……」
「朝だぞ」
フローラが目を開ける。
ヨモギの腕を抱えたまま、その顔が嬉しそうにほころんだ。
「おはよう、ヨモギちゃん」
「腕を離せ」
「あ、ごめんね」
ようやく解放された腕には、ほとんど感覚がなかった。
ヨモギは腕を振りながら、ベッドを降りる。
「よく眠れた?」
「枕が柔らかすぎた」
「私はよく眠れたよ」
「だろうな。ボクの枕まで使ってたからな」
「そうだった?」
フローラに悪びれた様子はない。
伸びをしながら、朝の光が差し込む窓へ顔を向けている。
「またお泊まりしようね」
ヨモギはベッドの上に並んだ二つの枕を見た。
片方は中央が大きくへこみ、もう片方はほとんど使われていない。
痺れの残る腕をさすりながら、扉へ向かう。
「次は、自分の枕を持ってくる」
フローラの顔が、ぱっと明るくなった。
ヨモギは振り返らないまま、朝食が用意された部屋へ歩いていった。




