第3話:身代金が安すぎる -その③-
ヨモギも運転席へ座り、座席を前へ動かして背もたれを起こす。
それでも、ペダルにはつま先しか届かなかった。
「……少し遠いな」
「大丈夫?」
「ゲームと違って、座席の調整が面倒なだけだ」
ヨモギは車内にあったクッションを尻の下へ敷き、背中と座席の間にも別のクッションを押し込んだ。
さらに座席を前へ動かす。
今度は、どうにかペダルへ足が届いた。
二人はシートベルトを締める。
ヨモギはブレーキを踏みながら、始動ボタンを押す。
エンジンがかかった。
「本当に動いた!」
「当たり前だろ」
「ヨモギちゃん、格好いい!」
「これくらい普通だ」
ヨモギは得意げにシフトレバーを動かした。
アクセルを踏む。
車が勢いよく後退した。
「逆! ヨモギちゃん、後ろ!」
「分かってる!」
慌ててブレーキを踏み込む。
車は倉庫の壁まで、あと数センチというところで止まった。
ヨモギは何事もなかったように、シフトレバーを動かす。
「今のは操作確認だ」
「うん!」
今度こそ、車は前へ進んだ。
駐車場を抜け、道路へ出る。
最初は左右へふらついていたものの、しばらく走るうちに車体は真っ直ぐ進むようになった。
ヨモギはハンドルを握りながら、得意そうに笑う。
「ほら。簡単だろ」
「ゲームと同じ?」
「だいたい同じだ。ぶつかってもやり直せないだけで」
「それ、すごく大きな違いじゃない?」
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
二人は顔を見合わせる。
後方から、インサイダー協会の車両が複数迫っていた。
赤と青の光が窓へ反射し、車内を交互に染める。
やがて、拡声器から声が響いた。
『前方の黒い車両、直ちに停車しなさい!』
「ヨモギちゃん、止まれって」
「この車、誘拐犯のだぞ」
「うん」
「止まったら、車を盗んだことがばれる」
「もうばれてるんじゃない?」
「逃げるぞ」
ヨモギはアクセルを踏み込んだ。
車が一気に加速する。
フローラの身体が、シートへ押しつけられた。
「速い!」
「これくらいならゲームでもやった!」
「協会から逃げるゲームなの?」
「だいたいそうだ!」
後方のインサイダー協会車両も、一斉に速度を上げる。
ヨモギは前方の交差点を見た。
右へ曲がれば大通り。
左には、車一台がどうにか通れるほどの狭い路地が続いている。
「こっちだ!」
ヨモギはブレーキを踏み込み、ハンドルを大きく切った。
タイヤが甲高い音を立てる。
黒い車体が横を向き、そのまま滑るように狭い路地へ飛び込んだ。
二人の身体が、強烈な力で横へ持っていかれる。
ヨモギは奥歯を食いしばり、両腕でハンドルを押さえ込んだ。
フローラは座席の脇へ押しつけられ、悲鳴を上げる。
「曲がってない! 曲がってないよ! 横に進んでる!」
「ドリフトだ!」
「ゲームで見たことあるけど、こんなに怖いなんて聞いてない!」
すぐ後ろまで迫っていた協会車両も、二人を追って路地へ入ろうとする。
その瞬間、大きく外側へ振られた黒い車の後部が、協会車両の先端へぶつかった。
激しい衝撃が走り、二人の身体が今度は反対側へ揺さぶられる。
「ひゃあああっ!」
追跡車両は横へ弾かれ、路肩に積まれていた空箱の山へ突っ込んだ。
大量の箱が崩れ落ち、車体を覆い隠す。
跳ね上がったボンネットの隙間から、白い煙が噴き出した。
すれ違いざま、膨らんだエアバッグの奥で協会員たちが動いているのが見えた。
「ヨモギちゃん、一台倒したよ!」
「ボクにかかれば、これくらい――」
後方から、残った車両のサイレンが一斉に鳴り響いた。
「……何か怒ってない?」
「仲間を倒されたからだろ!」
「倒したの、ヨモギちゃんだよ?」
「分かってる!」
路肩に積まれていた別の空箱が、黒い車の風圧で次々と吹き飛んでいく。
「ヨモギちゃん、運転上手だね!」
「ゲームなら今ので追加点が入る!」
「今は?」
「修理代が増えた!」
後方の車両は、まだ離れない。
フローラは車内を見回し、助手席の収納を開けた。
中には、二つのサングラスが入っている。
「ヨモギちゃん、これをかけて」
「何で?」
「変装すれば大丈夫だよ」
フローラは身を乗り出し、ヨモギの耳へサングラスをかけた。
続いて、自分ももう一つをかける。
「これで私たちだって分からないよ」
ヨモギはバックミラーに映る自分の姿を見た。
「何が変わったんだ?」
「目元が見えないよ」
「ほか全部見えてるだろ」
『前方の車両、速度を落としなさい!』
「ばれてるじゃん!」
「サングラスをかける前に見られたからだよ」
「そういう問題じゃない!」
路地の先が、二手に分かれていた。
ヨモギは速度を落とさない。
フローラが後ろを振り返り、胸元で両手を重ねた。
(《光の幻影》)
淡い魔力が、黒い車体を包み込む。
分かれ道へ入る直前、黒い車両がもう一台現れた。
幻の車は右へ。
ヨモギたちの車は左へ。
追ってきたインサイダー協会の車両も、二手に分かれる。
それでも、二台がこちらを追ってきた。
「半分しか騙されてないぞ!」
「急に作ったから、細かいところが違ったのかも」
「どこが違ったんだ?」
「偽物にはタイヤをつけ忘れたの」
「それで半分騙せた方がおかしいだろ!」
前方に、工事中の区画が見えた。
道路の先は、高い仮設壁によって完全に塞がれている。
その手前には、資材を搬入するための金属製スロープが斜めに組まれていた。
「ヨモギちゃん、行き止まり!」
「ゲームなら、あれは近道だ!」
「どう見ても壁だよ!」
「飛び越えれば関係ない!」
「これ、ゲームじゃないよ!」
ヨモギはさらにアクセルを踏み込んだ。
エンジンが唸りを上げる。
黒い車体が金属製のスロープを駆け上がり、そのまま勢いよく宙へ飛び出した。
「飛んだーっ!」
フローラの髪が大きく舞う。
車は仮設壁の上を飛び越え、工事区画の反対側へ落下した。
四本のタイヤが、激しい音を立てて地面を叩く。
二人の身体が座席から浮きかけ、車内が大きく揺れた。
車体は左右へ蛇行する。
ヨモギは必死にハンドルを切り返し、どうにか道路へ戻していった。
「着地成功!」
フローラが後ろを振り返った。
一台の協会車両が、同じ金属製スロープへ突っ込んでくる。
だが、進入する角度がずれていた。
車体が中途半端に跳ね上がり、そのまま仮設壁へ正面から突っ込む。
ボンネットの隙間から炎が噴き出し、協会員たちが慌てて車外へ飛び出した。
次の瞬間、背後で激しい爆発が起きた。




