第八話:父が見たモノ
ヨシコが恐る恐る声をかける。
父は、こちらを向きもせず、朦朧とした目で、どこか遠くを見つめているだけだった。
後ろから入ってきた母が、お盆を枕元の空いたスペースに置き、父の前に腰をおろした。
「お父さん、お水飲み」
母はそう言い、水差しからコップに水を注ぐ。
コップを父の口元にそっと持っていくと、父は何も言わず、ただ口を開け、水を流し込むように飲んだ。
喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえる。
ひと息で飲み干すと、父は空になったコップを母に差し出した。
「……もういっぱい」
かすれた声が、ようやくこぼれた。
母は黙って、また水を注ぐ。
父はまた飲み干し、また「もういっぱい」と繰り返す。
そのたびに、コップと水差しが行き来し、水面がどんどん減っていった。
ヨシコは、部屋の入り口近くに立ったまま、その光景を呆然と見つめていた。
父が、こんなふうに無言で水を貪る姿など、今まで見たことがなかった。
やがて、水差しの水はすべてなくなった。
父は最後の一滴まで飲み干すと、大きく息をついた。
肩が、少しだけ下がる。
「……ふぅ」
ようやく、人の顔に戻ったように見えた。
「一体、どうしたん?」
母が、慎重に問いかける。
父はしばらく黙ったまま、両手を膝の上に置き、指先をぎゅっと握りしめた。
「……ベッドの上や」
ぽつりと、言葉が落ちた。
「さっき、寝とったらな。ここで、ぐうって……。そしたら、いきなりや」
父は、足元の乱れた布団をちらりと見やった。
「誰かが、このベッドの上を跳ねとる音で、目ぇさめたんや」
ベッドのスプリングが弾む低い音と、床まで伝わる揺れ。
寝ぼけ眼の父は、最初、それを夢かと思ったという。
「でもな、だんだんはっきりしてきて……。重みと、揺れと、ぽん、ぽん、って」
父は手を開き、空中を軽くたたくようにして、その「跳ねる」感じを示した。
「顔は、よう見えへんかった。けどな……」
そこで言葉を切り、父は、ヨシコの方をちらりと見る。
その視線に、ヨシコは思わず背筋を伸ばした。
「小学校、低学年くらいの……男の子に、見えたんや」
その子どもは、ベッドの上を、まるでトランポリンで遊ぶみたいに跳ねていたという。
ぽんっ。
ぽんっ。
「そんな感じでな。俺の横を行ったり来たり、何回も跳ねとった。最初は、『こら、危ないやろ』って、言おうとしたんやけどな」
父の顔が、わずかにゆがむ。
「……声が、出えへんねん」
口を開こうとしても、喉が固まったように動かない。
腕を伸ばそうとしても、布団に縫い付けられたみたいに、指先ひとつ動かない。
「身体の自由が、まったくきかん。夢や思いたかったけど、ベッドの揺れも、重みも、息の苦しさも、ぜんぶ、やけにリアルでな」
跳ねる少年は、笑っているのか、怒っているのかも分からない。
ただ、淡い影のように輪郭だけが揺れ、そのたびに布団が沈み、ベッドがきしむ。
「だんだん、怖なってきて……。はよ終われ、はよ起きろ、って、そればっかり考えとった」
そこで父は、一瞬、息を止めた。
思い出したくない場面に、差しかかったのだと、ヨシコにも分かった。
「そしたらや」
父は、自分の腹のあたりに手を当てる。
「そのガキがな。いきなり、俺の腹の上に、どん、て降りてきたんや」
胸と腹のあいだを、上から力いっぱい踏みつけられたような衝撃。
空気が、一気に押し出される。
「うっ……ってなって、息、できへんくなった。痛いいうより、苦しいんや。肺がつぶれる、って、本気で思た」
声を出そうとしても、喉の奥で何かに押さえつけられているみたいで、空気が通らない。
目だけが、見開かれたまま、少年のぼんやりとした輪郭をとらえている。
「ああ、このままだと、死ぬんちゃうか……って」
父は、そこでひと呼吸おき、低く続けた。
「そう思った瞬間や。そいつ、ふっと消えたんや」
重みも、揺れも、ぱたりと止んだ。
しかし、楽になったはずの胸のあたりは、まだじんじんと痛む。
「代わりに、聞こえてきたんや」
父は、天井を見上げる。
「助けてくれ、っていう声が。遠いんか近いんかも分からん、不思議な声でな」
その声は、次第に父自身の喉の奥から響いてくる声と重なり合い、どっちが本物なのか分からなくなったという。
「自分で叫んどるんか、誰かが叫んどるんか、頭で整理できへんまんま、気がついたら……」
父は、目の前に座る妻と、その横に立つヨシコを見た。
「お前らが、そばにおった」
それきり、父は口を閉ざした。
部屋の中に、しばらく、誰も言葉を差しはさめない沈黙が落ちる。
いつもなら、「酔っぱらって変な夢見ただけや」と笑い飛ばすはずの父が、その夜ばかりは違っていた。
拳はまだ小さく震え、背筋は伸びているのに、どこか頼りない。
母は、その顔をじっと見つめ、ゆっくりと息を吐いた。
「……もう、限界ちゃう?」
ぽつりと、母が言う。
その声には、ここ数か月で積もり積もった疲れがにじんでいた。
「この家、最初はええ思たけど……。ここに住み続けたら、ほんまに、何か悪いこと起こりそうや」
ヨシコも、こくりとうなずく。
父の話を聞いてしまった今、この家で眠る自信は、もうどこにもなかった。
父はしばらく黙っていたが、やがて、観念したように目を閉じた。
「……せやな」
短い返事だった。
それだけで、父の中でも何かが折れたのだと分かる。
「じゃあ、どうする? すぐに引っ越す?」
ヨシコが、恐る恐る聞く。
父は首を横に振った。
「いきなりは無理や。金も時間もかかる。せやけど……」
父は、寝室の天井を見上げ、低く続けた。
「その前に、一回、お祓いしてもらおう」
母も、すぐにうなずいた。
「そうやね。ちゃんとした人に、見てもらおう」
ヨシコも、その意見に賛成だった。
この家で何が起きているのか、どんな「何か」がいるのか、自分たちだけではもう向き合いきれない。
こうして森家は、せっかく建てた新居に、早くも別れを考えながら、
お祓いの日を待つことになった。
ベッドの上で跳ねる少年の影は、その夜を境に、家族全員の記憶に深く刻みつけられたまま、静かに、そのときを待っていた。




