第六話:足音と鏡
二階を誰かが走り回る音を、わたしたちはもう驚かなくなっていた。
ドタドタドタ……ドタドタ……
一階の居間で、父と母とヨシコとタマがそろっているときだけ、決まってその音はする。
しかも、誰も二階にはいない。タマが一匹で二階にいるときでさえ、足音なんて一度も聞こえたことがない。
最初にこの音を聞いたときは、さすがにみんなで顔を見合わせた。
「ネズミかな。いや、ちょっと大きいか。ハクビシンとかかもな」
父はそう言って、懐中電灯を持って天井裏をのぞこうとした。
母は「やめときや、何か出てきたら怖いやん」と止めながらも、どこか半分は苦笑いだった。
けれど、天井裏にも、押し入れにも、それらしい気配は見つからなかった。
それから二度、三度と同じような足音が続き、やがてヨシコたちは「またか」と、聞き流すようになっていった。
森家がこの家に引っ越してきて、ちょうど三か月が経とうとしていた、ある夜のことだった。
その日も、いつもと変わらない夜だった。
一階のダイニングテーブルで夕ご飯を食べ、片づけを終えたあと、父はソファでテレビをつけ、母はその隣で刺し子を始める。
ヨシコは図書館で借りたミヒャエル・エンデの作品を一心に読んでいる。
そしてヨシコの隣にタマが優雅に寝そべっている。
時計の針が23時を回ったころ、いつものように、二階から足音が聞こえ始めた。
ドタドタドタ……ドタドタ……
「あ、また走ってる」
思わず口にすると、父はテレビから目を離さないまま「せやな」とだけ答え、母は手を止めずに小さくため息をついただけだった。
けれど、その夜の足音は、いつもと少し違っていた。
一直線に廊下を駆け抜けるのではなく、どこかで立ち止まっては、また別の方向に走り出しているような、途切れ途切れの音だったのだ。
ドタドタ……ピタ。
……キュッ。ドタドタドタ……
誰かが部屋の中をうろうろと探し回っているようにも聞こえる。
「なんか、今日は落ち着きないな」
わたしがそう言うと、ひざの上のタマが小さく尻尾を振って、じっと天井を見上げた。
タマの黄色い目が、薄い明かりを映して細く光っている。
そろそろ寝るか、と父がリモコンを手に取ろうとした、そのときだった。
ガシャーン!!!
二階から、ものすごい音が響いた。
ガラスが派手に割れる音が、家全体を震わせるように広がる。
「え? 窓割れたんちゃう?」
思わず立ち上がったわたしの声が、震えていた。
さっきまでおとなしくしていたタマが、ビクッと肩を震わせて、ソファから飛びおりる。
音のした方角は、父と母の寝室ではない。
迷うまでもなく、ヨシコの部屋のほうだと分かった。
「え? 泥棒ちゃう? 一階に人おるから、二階の窓壊して入ってくるとか……」
口にすると、自分で言ったくせに、ぞっとした。
父は眉をしかめて首を振る。
「あんな音させたら、わざわざ二階から入る意味ないやろ。近所中にバレるで」
母も「そらそうや」とうなずく。
けれど、ヨシコの胸の鼓動は早くなるばかりだった。
「……ちょっと見てくるわ」
そう言って、父が一人で階段を上がっていく。
ヨシコはタマを抱き上げようとして、やめた。タマはもう、居間の隅の暗がりに身を低くして、じっと階段のほうを見つめている。
階段を上りきったところで、父の足音が止まった。
短い沈黙。
次の瞬間、二階から父の声が響いた。
「おい、来てみ。窓ちゃうわ。ヨシコの鏡が割れとる」
鏡――その言葉を聞いた途端、背中に冷たいものが走った。
ヨシコは重い腰を上げるようにして立ち上がり、母と一緒に階段を上がった。
タマだけが一階に残り、まだ天井をにらむように見上げている。
自分の部屋の前で足がすくんだ。ドアは半開きになっている。
父が中から手招きしているのが見えた。
「早よ、見てみい」
おそるおそる部屋に入ると、まず視界に飛び込んできたのは、部屋の隅の壁に立てかけてあった全身鏡だった。
いや、鏡だったもの――と言ったほうが正しい。
鏡は、すっかり割れていた。
床に倒れているわけでもない。壁に立てかけられているそのままの姿で、表面だけが、細かいひびだらけになっている。
「……なに、これ」
思わずつぶやく。
鏡の真ん中から、放射状に罅が広がっていた。
どの線も、だいたい二ミリほどの間隔をあけて、きれいに、均等に広がっている。
まるで、巨大な蜘蛛の巣がガラスの上に描かれたみたいだった。
なのに、足元の床には、ひとかけらのガラスも落ちていない。
粉々になっているはずなのに、鏡の破片がどこにも見当たらないのだ。
「勝手に、こんな割れ方するもんか?」
父が鏡に顔を近づけて、慎重に指で縁をなぞる。
触れたとたん、わずかにピシ、と音がして、ひびの一本がほんの少しだけ伸びた気がした。
「やめとき。怪我する」
母が父の手を押さえる。
ヨシコは、ただ黙って鏡を見つめるしかなかった。
この鏡は、もともとヨシコの部屋にあったものだ。
引っ越してきたとき、部屋の角に立てかけて、それきり動かしていない。
地震もなかった。窓も閉めてあった。風が吹きこんだわけでもない。
鏡が勝手に割れるなんて、あるはずがない。
誰かが、割ったのだ。
でも、その「誰か」は、いったい誰だろう。
ヨシコたち家族は、さっきまで全員、一階の居間にいた。
タマも、長椅子のヨシコの隣で寝ていた。
二階には、誰もいなかったはずだ。
ヨシコは、背筋がじわりと冷たくなるのを感じた。
さっきまで居間で聞いていた、あの足音を思い出す。
部屋の中を、何かが探すように走り回っていた音。
あの足音の主が、ここに来て、この鏡を――。
鏡のひび割れた表面に、自分たち家族の姿がゆがんで映っている。
父の顔も、母の顔も、わたしの顔も、細かい線で切り刻まれたようにバラバラに見えた。
その中に、知らない誰かの影が紛れ込んでいるような気がして、ヨシコは思わず目をそらした。




