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ヤバイ家  作者: 森好子


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6/12

第六話:足音と鏡

二階を誰かが走り回る音を、わたしたちはもう驚かなくなっていた。


 ドタドタドタ……ドタドタ……


 一階の居間で、父と母とヨシコとタマがそろっているときだけ、決まってその音はする。

 しかも、誰も二階にはいない。タマが一匹で二階にいるときでさえ、足音なんて一度も聞こえたことがない。


 最初にこの音を聞いたときは、さすがにみんなで顔を見合わせた。


「ネズミかな。いや、ちょっと大きいか。ハクビシンとかかもな」


 父はそう言って、懐中電灯を持って天井裏をのぞこうとした。

 母は「やめときや、何か出てきたら怖いやん」と止めながらも、どこか半分は苦笑いだった。


 けれど、天井裏にも、押し入れにも、それらしい気配は見つからなかった。

 それから二度、三度と同じような足音が続き、やがてヨシコたちは「またか」と、聞き流すようになっていった。


 森家がこの家に引っ越してきて、ちょうど三か月が経とうとしていた、ある夜のことだった。


 その日も、いつもと変わらない夜だった。

 一階のダイニングテーブルで夕ご飯を食べ、片づけを終えたあと、父はソファでテレビをつけ、母はその隣で刺し子を始める。

 ヨシコは図書館で借りたミヒャエル・エンデの作品を一心に読んでいる。

そしてヨシコの隣にタマが優雅に寝そべっている。


 時計の針が23時を回ったころ、いつものように、二階から足音が聞こえ始めた。


 ドタドタドタ……ドタドタ……


「あ、また走ってる」


 思わず口にすると、父はテレビから目を離さないまま「せやな」とだけ答え、母は手を止めずに小さくため息をついただけだった。


 けれど、その夜の足音は、いつもと少し違っていた。


 一直線に廊下を駆け抜けるのではなく、どこかで立ち止まっては、また別の方向に走り出しているような、途切れ途切れの音だったのだ。


 ドタドタ……ピタ。

 ……キュッ。ドタドタドタ……


 誰かが部屋の中をうろうろと探し回っているようにも聞こえる。


「なんか、今日は落ち着きないな」


 わたしがそう言うと、ひざの上のタマが小さく尻尾を振って、じっと天井を見上げた。

 タマの黄色い目が、薄い明かりを映して細く光っている。


 そろそろ寝るか、と父がリモコンを手に取ろうとした、そのときだった。


 ガシャーン!!!


 二階から、ものすごい音が響いた。

 ガラスが派手に割れる音が、家全体を震わせるように広がる。


「え? 窓割れたんちゃう?」


 思わず立ち上がったわたしの声が、震えていた。

 さっきまでおとなしくしていたタマが、ビクッと肩を震わせて、ソファから飛びおりる。


 音のした方角は、父と母の寝室ではない。

 迷うまでもなく、ヨシコの部屋のほうだと分かった。


「え? 泥棒ちゃう? 一階に人おるから、二階の窓壊して入ってくるとか……」


 口にすると、自分で言ったくせに、ぞっとした。

 父は眉をしかめて首を振る。


「あんな音させたら、わざわざ二階から入る意味ないやろ。近所中にバレるで」


 母も「そらそうや」とうなずく。

 けれど、ヨシコの胸の鼓動は早くなるばかりだった。


「……ちょっと見てくるわ」


 そう言って、父が一人で階段を上がっていく。

 ヨシコはタマを抱き上げようとして、やめた。タマはもう、居間の隅の暗がりに身を低くして、じっと階段のほうを見つめている。


 階段を上りきったところで、父の足音が止まった。

 短い沈黙。

 次の瞬間、二階から父の声が響いた。


「おい、来てみ。窓ちゃうわ。ヨシコの鏡が割れとる」


 鏡――その言葉を聞いた途端、背中に冷たいものが走った。


 ヨシコは重い腰を上げるようにして立ち上がり、母と一緒に階段を上がった。

 タマだけが一階に残り、まだ天井をにらむように見上げている。


 自分の部屋の前で足がすくんだ。ドアは半開きになっている。

 父が中から手招きしているのが見えた。


「早よ、見てみい」


 おそるおそる部屋に入ると、まず視界に飛び込んできたのは、部屋の隅の壁に立てかけてあった全身鏡だった。


 いや、鏡だったもの――と言ったほうが正しい。


 鏡は、すっかり割れていた。


 床に倒れているわけでもない。壁に立てかけられているそのままの姿で、表面だけが、細かいひびだらけになっている。


「……なに、これ」


 思わずつぶやく。


 鏡の真ん中から、放射状に罅が広がっていた。

 どの線も、だいたい二ミリほどの間隔をあけて、きれいに、均等に広がっている。

 まるで、巨大な蜘蛛の巣がガラスの上に描かれたみたいだった。


 なのに、足元の床には、ひとかけらのガラスも落ちていない。

 粉々になっているはずなのに、鏡の破片がどこにも見当たらないのだ。


「勝手に、こんな割れ方するもんか?」


 父が鏡に顔を近づけて、慎重に指で縁をなぞる。

 触れたとたん、わずかにピシ、と音がして、ひびの一本がほんの少しだけ伸びた気がした。


「やめとき。怪我する」


 母が父の手を押さえる。

 ヨシコは、ただ黙って鏡を見つめるしかなかった。


 この鏡は、もともとヨシコの部屋にあったものだ。

 引っ越してきたとき、部屋の角に立てかけて、それきり動かしていない。

 地震もなかった。窓も閉めてあった。風が吹きこんだわけでもない。


 鏡が勝手に割れるなんて、あるはずがない。


 誰かが、割ったのだ。


 でも、その「誰か」は、いったい誰だろう。

 ヨシコたち家族は、さっきまで全員、一階の居間にいた。

 タマも、長椅子のヨシコの隣で寝ていた。


 二階には、誰もいなかったはずだ。


 ヨシコは、背筋がじわりと冷たくなるのを感じた。

 さっきまで居間で聞いていた、あの足音を思い出す。

 部屋の中を、何かが探すように走り回っていた音。


 あの足音の主が、ここに来て、この鏡を――。


 鏡のひび割れた表面に、自分たち家族の姿がゆがんで映っている。

 父の顔も、母の顔も、わたしの顔も、細かい線で切り刻まれたようにバラバラに見えた。


 その中に、知らない誰かの影が紛れ込んでいるような気がして、ヨシコは思わず目をそらした。

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