35 ノモンハン
『やはり負けたか。ハットリの阿呆め、少しは痛い目にあえば良いのだ』
男は書類に目を通しながら思わず呟いた。一万人近くの死者、数倍の負傷者。失われた兵器、そして地に落ちた帝国の威信。おまけに個々の戦闘で敗北した指揮官に詰め腹まで切らしたとの情報も伝わってきた。
『目先のハエしかおえぬ奴らは害毒しかもたらさぬな。我輩の体調さえ悪くなければ……』歯噛みをするがどうにもならないと理解はしているのだ。もっとも自身が行ってきたことに対する客観的な評価はまるで出来てはいない。失敗した作戦は他人のせい、成功した謀略は自分の手柄、奪った財産は…。
五月になりしばらくすると会社が急に忙しくなった。陸軍から注文の増えた生産のみならず、このところ修理の機体が増えて来たのだ。
「今度のいくさは規模が大きそうだな」とは、食堂などでも普通に会話されていた。
「今度は蒙古国境あたりらしいぞ」
「ソ連軍が出てきているようだ」
「中支あたりから航空隊が来て結構落としているようだな」機密じゃないのかそれは。勝ち戦の戦果は新聞にも載ってはいるが、どこの部隊が動いているかまではわからないようになっている。もちろん俺達にも実際のところは知らされない。
「部隊マークを見ればすぐにわかることです」ウルグダイ君は冷静に教えてくれる。まあ会社の隣にある飛行場の様子を見ればわかることだろう。俺も先月にお世話になった機体がないか、気を付けるようにはしているが、今のところはいないようだった。
去年の朝鮮国境での事件ではうちの会社に動きはなかった。だからこれは相当規模が大きな戦闘が起こっているということだろう。それも航空戦を伴っているのだから総力戦なのか。
「総力戦というのは少し意味が違いますね」ウルグダイ君は言葉の定義にうるさいところがある。
「まあ空と地上で総当たりしている、ぐらいの意味だよ」
「仮にも軍需産業に奉職しているんですからね、そのあたりはしっかり勉強してください」勉強のことを出されてはぐうの音もでない。あんまり子供をいじめないで欲しいものだ。
「あれ、ハタノサンはもう大人でお嫁さんももらえる御歳じゃ」だから俺はまだ十六の小僧なんだってば、ウルグダイ君みたいな立派な成人とは違うんだって。
「そんなこと言ってて良いのですか、先日も…」
「お、馬賊殺しがいたぞ」
「暇そうだな、ちゃんと仕事してるか」
うるさい連中があらわれた。
「暇じゃないよ、人聞きの悪い事は言うなよ」勝手に俺たちのテーブルに割り込んで飯を食べだした。
図面描きも忙しいとは聞いている。俺が見た中国機のことを嬉しそうに聞いてきたのはついこの前なのに、今や話題は陸軍の新型機のことばかりだ。
「向かうところ敵なしだそうだ」「相手が二倍や三倍いたって問題にならんらしい」「故障以外で落ちたのはいないってな」それはそれで問題だろう。
「もうすぐうちでも生産するようだぞ」
「そりゃあ本当か」
「ここで作れば輸送の手間が省けるからな」
「メーカーの壁もないしな」
「そのうち海軍さんからも注文がきたりして」
「そりゃないだろう、運ぶのが逆に大変だ」
「なあに波多野君が運んでくれるって」
「皆さんそれは」ウルグダイ君注意してやってよ。
「それは軍事機密です」
テーブルは大笑いとなった。俺以外は。
夏に入るころには一段と戦闘の規模が大きくなった。
飛行場を利用する航空隊も次々と増え、ついに俺がお世話になった部隊マークをつけた戦闘機が飛来するようになった。
どこにあるのかよくわからないが新聞には「ノモンハン事件拡大」との文字が躍っていた。




