34 春の午後
「どうします。お嫁さんにもらいますか」
思わずウルグダイ君を見上げる。いつになくニヤニヤ笑いだ。何を言っているのか。
「あのね、僕はまだ十六歳ですよ」
「あー、まあそういうこともあります。早すぎるということはないでしょう」
冗談を言ってる場合じゃないよ、まったく。
淑華も主人も仕事に戻ってしまった。
「とりあえず帰りましょう」と言うことになってそのまま裏口から店を出た。帰り道ではウルグダイ君が淑華の事情を話してくれた。
「彼女はねえ家族が行方不明なんですよ」
もともとは奉天生まれの奉天育ち、両親と姉との四人家族で暮らしていたそうだ。
そのお姉さんというのが美人で歌がうまい。頼まれて舞台や放送局で歌ったこともあったらしい。ついには映画女優の声がかかり、満映まで面接にいった。ところがどうも演技がうまくいかなかった。なまじ日本語も出来ると言ったのがいけなかったのか、セリフ回しにダメが出された。
採用とはいかず、残念でしたで終わればよかったのだが。
「悔しかったんでしょうね、欲がでたのかもしれない」満州がだめなら中国で、となったのだ。ショービジネスなら本場の上海で、とばかり親子で挑戦となってしまった。さすがに妹までとはいかず満州に残すことになった。主人が親戚である今の食堂で暮らす所以である。
何回も採用直前までは行く。たまには仮採用で舞台に立つこともあった。しかし所詮その芸は素人の域は越えれなかったようで、うまくはいかなかった。諦めかけていたところに南京の興行主から声がかかり、物は試しと向かうことになった。上海も戦乱で物騒になっていたことだし。だが、本当に物騒なのは南京のほうだった。
親子の消息はそこで消えた。
もともと旅先のことだから手紙のやり取りもうまくは出来ない。そこへ流れてくるニュースは事変拡大の凶報ばかりだ。南京やその周辺は進軍して来た日本軍で溢れている。連絡の取れない親子の消息など知れようもない。それがこの二年間のことだ。
「大事な人が行方知れずになるなんて、もうあってはならないことなんです」これが食堂の主人から聞いた淑華の事情とのことだった。
部屋に戻り一人になって床に寝っ転がる。窓から見える空は雲ひとつない青さだった。このところ天気にだけは恵まれていたな。あの最中に天候の急変があったら、それだけで遭難していたかもしれない。俺はただついていただけだ、俺が帰ってこなかったらあの子はどんな気持ちになっていたんだろう。
外からはカラスたちの鳴き声が聞こえた。なんか怒られている気分だな。
ふてくされて寝ていても仕方がない。なまった身体でも動かそう。
庭に出て鍛錬をすることにした。
カラスたちはあいかわらず電柱にたむろしている。高いところをトンビが回遊しているが見向きもしない。鳴き声がなければ穏やかな午後なんだがな。
ちょっと短いんですが、きりが良いのでここで章を変えます。
周辺の情勢は風雲急を告げると言うににふさわしいものになっているんですがね。




