第七章 他者と愛
人間は、一人では生きていない。
自分が何を信じるか。何を選ぶか。どのように生きるか。それらは自分の問題であるように見えるが、実際にはほとんどの場合、他者との関係の中で形を取る。
誰かを愛する。誰かに約束する。誰かを傷つける。誰かを守ろうとする。誰かの言葉によって、自分の考えを変える。
第五章では、自己は世界への応答の中で形成されると考えた。第六章では、自分の行為が他者との関係の中に履歴として残ることを見た。
ここまで来ると、自在論は避けることのできない問いに出会う。
他者とは何か。
私は、他人をどこまで理解できるのか。他人のためを思って行動することには、どこまで正当性があるのか。そして、誰かを愛するということは、その人を自分の価値の中へ取り込むことなのだろうか。
自在論が自己の価値に主権を認めないなら、他者についての自分の判断にも主権を認めることはできない。ここから、他者とともに生きるという問題を考えなければならない。
一 他者は、自分の世界の一部ではない
人間は、他人を理解しようとする。
「あの人は優しい」「あの人は臆病だ」「あの人は本当は寂しいのだ」「あの人が怒っているのは、自信がないからだ」
私たちは他者について、絶えず解釈している。それ自体は避けられない。誰かと関わるためには、相手が何を考えているのか、何を望んでいるのか、どういう人間なのかをある程度判断しなければならない。
しかし、ここには危険がある。他者についての理解が深くなるほど、「私はこの人を分かっている」と思いやすくなるからである。その瞬間、理解は支配へ変わることがある。
本人が「違う」と言っているのに、「いや、君は本当はこう思っている」と答える。本人が「これは嫌だ」と言っているのに、「今は分からないだけだ。君のためになる」と決める。
本人が変わったのに、「あなたはそんな人じゃない」と、過去の相手を現在の相手へ押しつける。
ここでは、他者そのものより、自分の中にある「他者像」の方が強くなっている。自在論は、この逆転を警戒する。
他者についての私の理解は、他者自身の存在を完全に代理することができない。
私は相手について多くを知ることができる。長く一緒にいれば、本人より先に何かへ気づくことさえある。それでも、私の理解が相手そのものになることはない。
私は、他人について最後の言葉を持たない。
二 理解することと、決めつけること
では、他者について何も判断してはいけないのか。
そうではない。
「他人のことは何も分からない」と言ってすべての理解を放棄するなら、人間関係そのものが成立しない。
大切なのは、理解を持たないことではない。自分の理解に主権を与えないことである。
たとえば長年の友人が、「自分は平気だ」と言っている。しかし、明らかに様子がおかしい。眠れていない。食事も取れていない。以前なら楽しんでいたことにも反応しない。
このとき、「本人が平気と言ったのだから、私は何も考えない」という態度だけが相手を尊重することではない。「本人は平気だと言っている。しかし、私はそうは見えない」という判断を持つことはできる。
問題は、その判断を絶対化することである。
「私は心配している」と、「私はあなたの本当の状態を、あなた以上に知っている」は同じではない。
他者を理解するとは、自分の解釈を捨てることではない。自分の解釈を、相手からの応答によって変わりうるものとして持つことである。
これは第五章で自己について述べたことと同じである。自分自身についてさえ、私たちは完全な知識を持たない。まして他者についての理解が、最終的なものになるはずはない。
三 本人の言葉には、特別な重みがある
ここでは、二つのことを区別しなければならない。
第一に、本人の自己経験についての権威である。
自分が痛いのか。怖いのか。何を望んでいるのか。何を嫌がっているのか。こうしたことについて、本人の言葉には、外部の人間による推測では代替できない特別な重みがある。
本人には、自分自身の経験について特別な認識上の権威がある。ただし、それは無謬性ではない。
人間は自分の動機を誤解することがある。自分の状態を過小評価することも、後から自己理解を改めることもある。だから本人の自己理解もまた、事実や結果や他者からの異議に開かれている。
しかし第二に、これとは別の問題がある。本人自身の身体、参加、境界についての決定権である。
「触らないでほしい」「私はそれを望んでいない」「この関係を終わりにしたい」という意思が尊重されなければならないのは、単に本人が自分について最も正確な知識を持っているからではない。
その身体を生き、その関係へ参加し、その境界を引く主体が本人だからである。
したがって、本人の自己理解が誤る可能性を認めることと、本人の拒否を他者が自分の解釈によって無効にすることはまったく別である。
他者についての解釈に主権はない。そして、他者自身の身体や参加や境界については、原則として本人に決定権がある。
認識上の権威と、自己決定の権利を混同してはならない。
四 他者は、私の価値の材料ではない
人間は、ときに他者を自分の人生の意味として扱う。
子供のために生きる。恋人のために生きる。家族を幸せにする。誰かを救う。
それらは美しい価値になりうる。しかし、美しい価値ほど危険なことがある。第三章で見たように、かつて自分を救った価値ほど、疑うことが難しくなる場合があるからである。
たとえば親が、「私は全部あなたのためにしている」と言う。進学先を決める。交友関係へ口を出す。仕事を決める。結婚相手まで評価する。
本人は本当に愛している。悪意があるとは限らない。むしろ本気で、「この子を幸せにしたい」と思っている。
しかし、「あなたのため」という価値が、相手本人からの異議まで無効にし始めたとき、その価値は主権へ近づく。
私はあなたを愛している。だから、あなたに何が必要か分かる。私はあなたの幸せを願っている。だから、あなたが嫌がってもこれは正しい。
ここでは、相手は一人の主体ではなく、自分の愛を実現するための対象へ変わっている。
他者は、私の価値の材料ではない。
他者には、私が与えた意味からはみ出す権利がある。
五 愛は所有ではない
愛には、所有へ向かう誘惑がある。
好きだから、そばにいてほしい。大切だから、失いたくない。失いたくないから、変わらないでほしい。そしていつの間にか、「私はあなたを愛している」が、「だからあなたは、私の望むあなたでいてほしい」へ変わる。
しかし、愛する相手は物ではない。所有物なら、自分の用途に合う状態を保つことを期待できる。だが、人間は変わる。
考え方が変わる。夢が変わる。こちらへの感情さえ変わる。それを完全に禁止しなければ成立しない愛なら、その愛は相手を他者として認めていない。
愛するということは、相手が自分の期待からはみ出す可能性まで含めて、その人を他者として認めることである。
これは、「何をされても受け入れろ」という意味ではない。
裏切られれば離れていい。価値観が合わなくなれば関係を終えていい。傷つけられ続ける必要もない。
相手が自由であることと、自分がその相手と関係を続ける義務があることは別だからである。
大切なのは、相手の自由を認めることと、自分の境界を捨てることを混同しないことである。
六 愛することと、離れること
ここには一見すると矛盾がある。
愛しているなら、関係を守るべきではないか。相手を見捨てず、支え、許し続けるべきではないか。
しかし、愛と継続は同じではない。
誰かを大切に思いながら、その人から離れなければならないことがある。相手が暴力を振るう。何度話しても、こちらの境界を尊重しない。一緒にいることで、自分が壊れていく。
このとき、「愛しているから離れない」という価値が絶対化されれば、愛そのものが主人になる。
自在論は、「愛したなら最後まで残れ」とは言わない。同時に、「苦しくなったらすぐに去れ」とも言わない。
関係には履歴がある。約束がある。相手への責任がある場合もある。だから簡単には捨てられない。しかし、その関係にも主権はない。
愛には権威がある。しかし、主権はない。
愛してきた時間には重みがある。約束にも重みがある。相手の痛みにも、自分の痛みにも重みがある。それらを受け取った上で、なお離れることが必要な場合がある。
そして、関係を続けるには二人の参加が必要だが、関係から離れるために相手の同意を必要とするわけではない。
一方が関係を終わらせると決めたなら、もう一方には悲しむ自由も、異議を伝える自由もある。しかし、相手をその関係へ拘束し続ける権利まではない。
愛が終わらなくても、関係を終えることはできる。
七 相手のために行動するということ
では、誰かのために介入することは、すべて支配なのか。
そうではない。
子供が危険な道路へ飛び出そうとしている。止める。意識を失った人がいる。本人の同意を確認できなくても救急車を呼ぶ。
ここでは、本人の意思を十分に確認する余裕がなく、差し迫った重大な危険があり、その時点では本人自身による判断や意思表示を待つことができない。
このような状況では、本人の明示的な同意なしに介入することが正当化される場合がある。
しかし、この例を、「本人のためになると私が判断したなら、本人の意思に反しても介入してよい」という一般原則へ広げてはならない。
他者の自由を尊重することは、他者の言葉へ機械的に服従することではない。同時に、善意を理由として他者の判断を簡単に代行してよいということでもない。
他者を拘束するほど、こちらには強い理由が必要になる。
自在論は、ここに一つの原則を置くことができる。
他者への拘束が大きくなるほど、正当化の負担も増大する。
少し助言することと、進路を決めることは違う。心配を伝えることと、行動を禁止することは違う。差し迫った危険から一時的に遠ざけることと、その後の人生まで管理することも違う。
相手の選択可能性を大きく奪うほど、問われることは増える。
本当に重大な危険があるのか。本人自身による判断を待てないのか。もっと弱い介入では足りないのか。拘束は必要な範囲に限られているか。いつ終わるのか。本人の意思を、いつ、どのように再び中心へ戻すのか。
「私はあなたのためを思っている」だけでは、これらの問いへの答えにはならない。
善意は、他者を支配する免許証ではない。
八 正しさにも限界がある
さらに難しいのは、自分の方が正しい場合である。
相手が明らかに事実を誤解している。こちらの方が知識を持っている。経験もある。予測も当たっている。それでも、「私が正しい」という事実だけで、相手の人生を所有することはできるだろうか。
できない。
正しさには重要な重みがある。事実を無視していいわけではない。しかし、正しいことと、他者の人生を決定する資格を持つことは同じではない。
医師が患者より医学を知っている。教師が生徒よりその分野を知っている。親が幼い子供より多くの危険を知っている。
知識の差には意味がある。しかし専門知識は、相手の人生全体についての主権を与えない。
「この治療をすれば生存率が上がる」という判断と、「だからあなたは、この生き方を選ばなければならない」という判断の間には距離がある。
事実についてより正しいことと、その事実を踏まえてどの価値を選び、どう生きるかを他者に代わって決定することは別である。
もちろん、本人の判断能力が著しく損なわれている場合などには、別の問題が生じる。しかし原則として、他者に関する知識が増えることと、他者を所有する権利が増えることは同じではない。
九 愛するとは、相手に答え続けること
では、自在論にとって愛とは何か。
愛を一つの感情だけとして捉えると、うまくいかない。感情は変化する。激しい恋愛感情が弱くなることもある。怒ることも、嫌になることもある。それでも愛が続く場合がある。
愛を単なる意志として捉えても足りない。「私はこの人を愛すると決めた」という決断だけでは、相手の変化を捉えられない。
愛する相手は、昨日と同じ人間ではない。自分もまた、昨日と同じ人間ではない。
だから愛は、一度決めて終わるものではない。
相手が変わる。自分も変わる。関係も変わる。そのたびに、「いま目の前にいるこの人と、私はどのように関わるのか」が問い直される。
この意味で、愛もまた応答である。
愛するとは、自分の中に作った相手の像を愛し続けることではない。変化し、自分からはみ出し続ける相手に、何度でも答え直すことである。
愛しているから、相手を知ろうとする。しかし、知ったつもりにならない。相手の変化を受け取る。必要なら自分も変わる。
それでも譲れないものがあれば伝える。離れるべきなら離れる。
ここにも、応答的献身がある。
十 相手を変えたいという欲望
誰かを愛すると、その人に変わってほしいと思うことがある。
酒をやめてほしい。もっと健康でいてほしい。自分を傷つける生き方をやめてほしい。夢を諦めないでほしい。逆に、夢を諦めて現実を見てほしいと思うこともある。
他者を変えたいという欲望そのものが、すぐに悪いわけではない。関心があるからこそ、変化を願うこともある。
しかし、「相手のため」という言葉は、自分の欲望を隠しやすい。
本当は自分が不安だから。自分が恥ずかしいから。自分の理想に合わないから。自分が失いたくないから。
人間の動機は、第五章で見たように一つではない。
愛情と恐れ。善意と支配欲。心配と自己防衛。それらが混ざる。
だから、「これは愛だから正しい」とは言えない。
むしろ愛が深いほど、自分自身に問わなければならない。
私は、この人のために変わってほしいのか。それとも、この人を自分にとって都合のよい存在へ変えたいのか。
そして、この二つが完全に分離しているとも限らない。
本当に相手を心配している。同時に、自分が不安から逃れたいとも思っている。善意がある。同時に、支配したい欲望も混ざっている。
だから自分の内面だけを見ても、完全な答えは出ない。
相手の応答が必要になる。
自分だけでは、自分の愛が支配へ変わった瞬間を見抜けないことがあるからである。
十一 他者は、もう一つの中心である
ここまで自在論では、「重大な異議」という言葉を何度も使ってきた。
事実。結果。身体。自分自身の変化。そして他者。
しかし他者には、それらとは違うところがある。
他者は単に、私の判断を修正するための材料ではない。私の哲学を完成させるために存在する反論装置でもない。
他者もまた、自分自身の生を生きている。
自分の記憶を持つ。自分の痛みを持つ。自分の価値を持つ。自分なりに世界を理解し、選び、間違い、変化する。
ここでいう「中心」とは、世界がその人自身の側から経験され、判断され、生きられているということである。
私にとって相手は、私の世界に現れる一人の他者である。しかし相手自身にとっては、その人もまた、自分の生を生きる主体である。
そして他者は、こちらへ、「違う」と言うことができる。
「私はそう思っていない」「私はそれを望んでいない」「あなたは私を理解していない」「それは私を傷つけた」と答えることができる。
事実は、こちらへ言葉で抗議しない。結果も、それ自体では自分の意味を語らない。しかし他者は、自らこちらの理解へ異議を申し立てることができる。
その意味で他者は、私の世界の内部に置かれた一つの対象ではない。
他者とは、私の世界に現れる、私ではない中心である。
私は相手について一つの物語を作る。相手は、「違う」と言う。私は善意で行動する。相手は、「それは望んでいない」と言う。
私は愛していると思う。相手は、「その愛し方は苦しい」と言うことがある。
他者は、私が与えた意味からはみ出し、自分の側から世界へ答える。
だからこそ、他者との関係は難しい。そして、だからこそ重要である。
十二 他者にも主権を与えない
しかし、他者をもう一つの中心として認めることは、他者の要求へ無条件に服従することではない。
相手が怒った。だから自分が必ず間違っているとは限らない。
相手が傷ついた。その傷は軽視できない。しかし、その事実だけから相手のすべての要求が正当化されるわけでもない。
相手が、「愛しているなら、こうしてくれるはずだ」と言う。その言葉自体が、こちらを拘束しようとすることもある。
他者も有限な人間である。誤る。恐れる。自分の価値を絶対化する。他人を支配しようとすることもある。
だから、「他人の気持ちを尊重しろ」という原則にも、無制限の主権を与えることはできない。
他者の痛みには重みがある。他者が自らの経験について語る言葉にも、認識上の権威がある。
他者の境界や拒否は尊重されなければならない。
しかし、他者の存在を尊重することと、他者の要求に自分の生を明け渡すことは同じではない。自分もまた、一人の他者だからである。
私は相手について最後の言葉を持たない。しかし相手も、私という人間について最後の言葉を持たない。
この区別があることで、尊重は服従にならず、自己決定は支配にもならない。
十三 二人の自由は、完全には一致しない
理想的な関係について語るとき、「互いを尊重すればうまくいく」と言いたくなる。しかし現実は、それほど簡単ではない。
二人が互いを十分に尊重していても、望みが両立しないことがある。
一人は子供を望む。もう一人は望まない。一人は海外へ移住したい。もう一人は家族の近くに残りたい。一人は関係を続けたい。もう一人は終わらせたい。
どちらかが悪いとは限らない。十分に話し合っても、一つの答えへ統合できない場合がある。
第五章で、決断には残余があると考えた。他者との関係では、その残余はさらに深くなる。
自分の自由と相手の自由が、完全には一致しないからである。
愛は、二つの自由を一つに溶かすことではない。二つの自由が最後まで二つであることを引き受けることである。
だから愛には、悲しみが含まれることがある。
相手を大切に思う。しかし、相手の選択を自分の望むものにできない。相手は関係を終える。自分は続けたい。
二人の希望を、話し合いによって必ず一つにできるとは限らない。相手の自由が自分を傷つけることもある。
それでも、その自由を奪うことによって愛を保存することはできない。
これは愛の失敗とは限らない。むしろ、相手を本当に他者として認めるなら、避けることのできない限界である。
十四 自在な愛
ここまで考えると、自在論における愛の姿が見えてくる。
愛とは、相手を所有することではない。相手について完全に理解することでもない。相手の要求へ無条件に従うことでもない。相手を決して傷つけないことでもない。
人間は有限であり、愛していても誤る。
大切なのは、誤らないことではない。誤ったときに、相手からの異議を受け取ることができるかどうかである。
私はあなたを愛している。しかし、私の愛し方があなたを傷つけているなら、その事実を受け取る。
私はあなたを理解していると思っている。しかし、あなたが「違う」と言うなら、その言葉を自分の理解の外へ追い出さない。
私はあなたのためを思っている。しかし、それだけであなたの人生を決める権利が生まれるとは考えない。
私はあなたに変わってほしい。しかし、あなたが私の期待からはみ出すことを、自分の失敗だとは決めない。
同時に、私も自分を失わない。あなたの要求によって、自分の全人生を明け渡さない。
必要なら異議を唱える。必要なら距離を取る。必要なら関係を終える。
自在な愛とは、相手を所有せず、自分も所有させず、互いを変化しうる他者として受け取り続ける関係である。
それは不安定に見えるかもしれない。
絶対に離れない。絶対に変わらない。何があっても一緒にいる。
そう誓う方が強い愛に見える。
しかし、人間は変わる。世界も変わる。愛する相手も、自分も、昨日のままではない。
だから本当に必要なのは、変わらないことを求めることではない。
変わったあとにも、相手を他者として受け取り直すことのできる関係である。
十五 私は、他人について最後の言葉を持たない
他者を愛することは、他者を理解し尽くすことではない。むしろ、理解し尽くせないものが残ることを受け入れることである。
相手には、自分が知らない記憶がある。自分には理解できない感情がある。こちらの価値では測れない願いがある。そして相手自身にも、まだ知らない自分がある。
だから他者は、完成した対象ではない。自分が一度理解したら終わる存在でもない。
他者もまた、時間の中で応答し、変化し、自分自身を形成していく。
その人を愛するとは、その変化へ永久に賛成することではない。その人が自分の理解からはみ出す可能性を、消してしまわないことである。
私は相手について判断する。ときには強く異議を唱える。必要なら離れる。それでも、「私はあなたという人間を、私の判断だけで完結させることはできない」という限界を忘れない。
私は、他人について最後の言葉を持たない。
そして相手も、私という人間について最後の言葉を持たない。
私は相手を定義し尽くせない。相手も私を定義し尽くせない。だからこそ、二人は一つにならずに関係する。この二つの有限性のあいだに、関係がある。
自在は、一人で完結する自由ではない。
自分とは異なる中心を持つ存在と出会い、それでも自分を失わず、相手も自分の中へ消してしまわず、ともに生きようとするところに、他者との関係における自在がある。
ショーペンハウアーは、意志からの解放を求めた。ニーチェは、意志による価値創造を引き受けた。
自在論は、その意志が自分自身や他者を支配し始める地点で、もう一度問いを入れる。
自ら意志せよ。自ら価値を創れ。深く愛せ。深く献身せよ。
しかし、自分の意志に、最後の言葉を与えるな。
ここまで来れば、自在論の中心はほぼ見えている。
残る問いは、この哲学が最終的にどのような生を肯定するのかということである。
意志を否定するのでもない。意志を絶対化するのでもない。価値を捨てるのでもない。価値に服従するのでもない。愛を避けるのでもない。愛によって自分を失うのでもない。
では、人間はどのように意志し、どのように生きればよいのか。
最終章では、意志の後に何が残るのかを考える。




