第八章 意志の後に
ここまで、意志について考えてきた。
人間は欲する。自ら価値を創り、その価値によって人生を方向づける。誰かを愛し、何かを守り、約束し、決断する。
意志なしに生きることはできない。しかし、意志することができれば自由なのでもない。
自ら選んだ価値が主人になることがある。正しさが主人になる。成功が主人になる。愛が主人になる。過去の決断が主人になる。そして最後には、「自分で選んだのだから」という言葉そのものが主人になる。
では、どう生きればよいのか。
意志を捨てるのか。欲望から退き、何ものにも深く関わらず、傷つかない場所へ向かうのか。それとも、自ら意志し、自ら価値を創り、その価値を力強く押し通すのか。
自在論は、どちらにも向かわない。
意志を否定しない。しかし、意志を王にもさせない。
意志の後に残るのは、応答である。
ここでいう「後」とは、意志を捨てた後という意味ではない。意志だけでは自由になれないと知った後である。
自ら欲し、自ら選び、自ら創りながら、その意志そのものを問い返すことのできる地点。
そこから、自在な生は始まる。
一 欲望をなくす必要はない
人間は欲する。
お金が欲しい。認められたい。愛されたい。勝ちたい。安心したい。何かを成し遂げたい。
第一章では、欲望には終わりがないことを見た。一つを満たしても次の欲望が現れ、満たされなければ苦しみ、満たされても、その状態は永遠には続かない。
だからといって、自在論は欲望を敵にしない。欲望をなくすことそのものを人生の最高目的にすれば、「欲望を持ってはならない」という新しい命令が生まれるからである。
欲望には力がある。人間を動かす。何かを作らせる。誰かのもとへ向かわせる。まだ存在しないものを、この世界へ生み出させる。
問題は、欲望があることではない。
欲望が、他の理由を通さず、そのまま行為を決めることである。
欲しい。だから取る。怖い。だから逃げる。認められたい。だから自分を曲げる。失いたくない。だから相手を縛る。
そのとき人間は、欲望に答えているのではない。欲望によって、そのまま動かされている。
自在とは、欲望のない状態ではない。欲望を持ちながら、「それでも私は、これに従うのか」と問えることである。
欲望は声を持つ。しかし、最後の言葉は持たない。
二 価値を持たずには生きられない
欲望から距離を取ることができたとしても、それだけでは人生は決まらない。
何を大切にするのか。何のためなら時間を使うのか。何を失いたくないのか。何に耐え、どこで立ち止まるのか。
人間は、価値なしに自らの生を方向づけることは難しい。
第二章で見たように、人間は受け継いだ価値を問い直し、自ら価値を創造することができる。「私はこう生きる」と決めることができる。
これは大きな自由である。しかし第三章で、その自由の内部に新しい奴隷制が生まれることを見た。
自ら創った価値だからこそ、疑えなくなる。人生を救ってくれた価値だからこそ、手放せなくなる。誇りだった価値だからこそ、それを否定する異議が自分自身への攻撃に見える。
だから自在論は、価値を捨てろとは言わない。むしろ逆である。
価値を持て。深く持て。人生を方向づけるほど深く持て。
ただし、その価値に、自分自身を裁く最後の権限まで与えるな。
価値には権威があってよい。しかし、主権はない。
この区別が、自在論の中心にある。
三 決断は、確実性を必要としない
ここで一つの不安が生まれる。価値に最後の言葉を与えないなら、人間はいつまでも迷うことにならないか。もっと考えるべきかもしれない。自分が間違っているかもしれない。未来には別の理由が現れるかもしれない。
そう考え続ければ、何も決められなくなる。
しかし、自在は判断停止の哲学ではない。
人間は有限である。すべてを知ることはできない。未来のすべてを予測することも、他者を完全に理解することも、自分自身の動機を完全に知ることもできない。
それでも決めなければならない。
仕事を選ぶ。誰かと生きる。誰かから離れる。何かを断る。何かを始める。
ときには、「今は分からない」という答えを引き受けることもある。
決断とは、疑いが消えた後に行うものではない。疑いが残る世界で、それでも一つを引き受けることである。
自在な人間は、無限に保留しない。考える。異議を受け取る。理由を比べる。そして、十分だと判断したところで決める。
その決断を生きる。必要なら長く守る。後から重大な異議が現れれば、もう一度答える。
自由であるために、毎朝人生を選び直す必要はない。一度決めたことを続ける力も、自由の一部である。
四 変わらないことも、自由である
変化は、ときに自由の象徴として語られる。
過去に縛られない。価値観を更新する。古い自分を捨てる。
しかし、変わり続けること自体を価値にすれば、それもまた主人になる。
昨日の自分を超えなければならない。成長し続けなければならない。新しくなり続けなければならない。
その命令に従い続ける人生も、自在とは限らない。
一度十分に考え、引き受けた価値には、それを続ける理由がある。重大な新しい理由がなければ、続けてよい。
同じ人を愛し続けてもいい。同じ仕事を続けてもいい。同じ信念へ、何度問い直されても戻ってきてもいい。
百回異議を受け取り、百回同じ答えを選ぶ人間は、百回考えを変えた人間より不自由だとは限らない。
重要なのは、変わったかどうかではない。
変わらないという答えも、異議を閉め出した結果ではなく、異議を受け取った後の応答でありうる。
だから自在論は、変化を崇拝しない。変化する自由。継続する自由。どちらも認める。
変わることが自由なのではない。変わらないことも自由でありうる。
五 強さとは、何か
ここまで来ると、強さについても考え直す必要がある。
強い人間とは、何ものにも揺らがない人間だろうか。
一度決めたことを最後まで貫く。批判されても気にしない。他人の言葉によって自分を変えない。
そういう人間は、確かに強く見える。
しかし、何によっても動かされないことが強さなら、閉じた信念も強い。狂信も強い。自分への反論をすべて敵意として処理する人間も、表面上は揺らがない。
自在論が求める強さは違う。
異議を受け取る。自分が間違っている可能性を見る。相手の痛みによって、自分の理解を動かされる。
過去の自分を否定しなければならないこともある。それでも、自分の判断を他人へ丸投げしない。
強さとは、揺らがないことではない。揺らがされても、自分で答えることができることである。
柔らかいから弱いのではない。変わるから弱いのでもない。謝るから弱いのでもない。
自分の信念を問いにさらすことができるのは、それが問いに耐える可能性を信じているからでもある。
最も強い信念とは、疑われない信念ではない。疑われてもなお生き残れる信念である。
六 失敗から自由になることはできない
自在な人間も間違える。
重大な異議を受け取った。十分に考えた。それでも、間違った。
そういうことは起こる。
自在論は、正しい答えを保証する方法ではない。そのような方法があると約束した瞬間、自在論自身が主権を求め始める。
人間は有限である。だから、失敗する可能性から自由になることはできない。
大切なのは、「間違わないこと」だけを自由の条件にしないことである。
自分の決断が間違っていたなら、その結果に応答する。必要なら認める。謝る。償う。価値を修正する。
それでも消せないものがあれば、それとの関係を引き受ける。
第六章で見たように、自己は改訂できる。履歴は改訂できない。
これは厳しい。しかし同時に、人間を過去へ永久に閉じ込める言葉でもない。
履歴は消えない。だが、履歴との関係は変えられる。
過去に失敗したからといって、その失敗に未来の自分について最後の言葉を与える必要はない。
自在論は、失敗しない自由ではない。失敗した後にも応答し続ける自由である。
七 人間は、保証を欲しがる
ここまでの議論には、一つの共通したものがある。
なぜ人間は、価値に主権を与えてしまうのか。なぜ自分の正しさを疑えなくなるのか。なぜ愛する相手を、自分の期待の中へ固定したくなるのか。なぜ一度決めた道を、「これしかなかった」と思いたくなるのか。
保証である。
自在論が拒むのは、自分の生を間違いから免除してくれる最後の保証を、一つの価値に求めることである。
人間は、保証を欲しがる。
絶対に正しい価値が欲しい。絶対に後悔しない決断が欲しい。絶対に裏切られない愛が欲しい。絶対に意味のある人生が欲しい。絶対に間違っていない自分でいたい。
人間が欲しがるのは、価値だけではない。その価値に従っていれば大丈夫だという保証まで欲しがる。
だから価値は、いつの間にか権威から主権へ変わる。
「私はこれを信じる」だけでは不安だから、「これは絶対に正しい」と言いたくなる。
「私はこの人を愛している」だけでは失う可能性が消えないから、「この人は変わらない」と思いたくなる。
「私はこの道を選ぶ」だけでは後悔する可能性が残るから、「この道以外は間違いだった」と思いたくなる。
しかし、保証を得るために価値を絶対化すれば、その保証の代償として自由を失う。
主権は、不確実さを消したように見せる代わりに、異議を消す。
自分は正しい。相手が間違っている。この道しかない。あの過去にはこの意味しかない。
問いは閉じる。そこには安心がある。しかし、その安心は自在ではない。
自在論は、人間から不確実さを取り除かない。間違う可能性。失う可能性。変わる可能性。後悔する可能性。理解できないものが残る可能性。
そのすべてを消さない。
八 意味も幸福も、保証にはならない
人間は、「人生の意味は何か」と問う。
この問いには、世界のどこかに人生の正解が隠されていて、それを発見できればもう迷わなくて済む、という期待が入り込むことがある。
しかし、人間は意味を発見するだけではない。意味を与える。何を大切にするかを決め、ある出来事を自分の人生の中でどこに置くのかを考える。
ただし、意味は好き勝手に作ることができるわけではない。第六章で見たように、意味は開かれている。しかし、事実から自由ではない。
誰かを傷つけた人間が、「あれには意味があった」と言ったからといって、傷つけたという出来事が消えるわけではない。
失敗を、「必要な経験だった」と呼び直しても、失ったものが戻るとは限らない。
意味を創る自由は、起きたことを支配する権利ではない。
幸福もまた、人生の正しさを保証しない。
幸福はよい。喜びも安心もよい。しかし、苦しいから間違った人生なのではない。幸福だから正しい人生なのでもない。
誰かを愛すれば、失う可能性が生まれる。責任を引き受ければ、苦しむこともある。大切な価値を守れば、何かを諦めなければならないこともある。
幸福にも、人生について最後の言葉を与えることはできない。
意味も幸福も、人間を支える。しかし、どちらも、「これさえあれば自分の生は間違わない」という保証にはならない。
人生の意味とは、人生を一度で説明し尽くす言葉ではない。生きながら更新される、世界への応答である。
九 自在は、中間ではない
ここまでの自在論を、「極端にならず、ほどほどに生きろ」という思想だと理解するなら、それは違う。
自在は中庸ではない。
欲望と禁欲の中間でもない。献身と無関心の中間でもない。強さと柔らかさの中間でもない。
価値を半分だけ信じることでもない。
自在な人間は、極端なほど何かへ献身することができる。
一つの仕事へ人生を注ぐこともできる。一人の人間を深く愛することもできる。一つの信念を生涯守ることもできる。
問題は、その深さではない。
その価値が、自分自身への異議を無効にする権利まで持つかどうかである。
だから自在は、弱い献身ではない。むしろ、献身を、主権から解放する。
何かを本気で信じながら、「それでも私は間違っているかもしれない」と言える。
誰かを深く愛しながら、「それでもあなたは私のものではない」と言える。
一つの道を選びながら、「それでも別の道が無価値だったとは限らない」と言える。
そして、その不確実さを理由に献身から逃げない。
絶対に正しいと保証されていなくても、信じる。絶対に続くと保証されていなくても、愛する。絶対に後悔しないと保証されていなくても、決断する。
保証なしに深く献身する。
ここに、自在論が求める献身の形がある。
十 自由には、自分を拘束する能力も含まれている
自由という言葉には、拘束から離れるイメージがある。命令されない。禁止されない。強制されない。
もちろん、それらは重要な自由である。しかし、本書がここまで考えてきた自由は、それだけではない。
人間は、自分で自分を拘束する。約束する。責任を引き受ける。何年も一つのことを続ける。愛する。誰かを守ると決める。
それらをすべて、「いつでもやめられなければ自由ではない」と考えるなら、自由はあまりに薄くなる。
自由とは、何にも縛られない能力だけではない。
自由には、自分を拘束する力も必要である。
自ら引き受けた価値には従う。簡単には捨てない。しかし、重大な異議を受け取る能力は残す。
その後、維持する。修正する。放棄する。保留する。
その態度を、自らの応答として引き受ける。
十一 自在な人間
では、自在な人間とは、どのような人間なのか。
欲望のない人間ではない。迷わない人間でもない。一度も間違えない人間でもない。何にも執着しない人間でもない。誰にも傷つけられない人間でもない。
自在な人間は欲する。ときには強く欲する。価値を創る。その価値へ深く献身する。誰かを愛する。約束する。失敗する。後悔する。変わる。
それでも、自分が信じるものを世界から閉ざさない。
事実を受け取る。他者の異議を受け取る。自分の身体からの異議を受け取る。時間の中で現れる新しい理由を受け取る。
そして最後には、自分で答える。誰かが代わりに自分の人生を生きてくれるわけではないからである。
自在な人間とは、何にも支配されない人間ではない。何かへ深く献身しながら、その献身の中で応答する力を失わない人間である。
その人間には、未来の保証がない。それでも、決める。
保証がないから何も信じないのではない。保証がなくても信じることができる。
ここに、自在の強さがある。
十二 どこにも最後の言葉はない
ここまで、本書では何度も「最後の言葉」という表現を使ってきた。その理由は単純である。
支配は、最後の言葉を欲しがるからである。
欲望が言う。「これが欲しい。それで終わりだ」
価値が言う。「これは正しい。もう問うな」
過去が言う。「お前はこう決めた。だから変わるな」
現在の自己が言う。「今の私が決めるのだから、それがすべてだ」
他者が言うこともある。「私が傷ついたのだから、お前はこうしなければならない」
自分が他者へ言うこともある。「私はあなたを愛している。だから、あなたに何が必要か知っている」
それぞれに、無視できない理由や重みがあることもある。しかし、どれにも最後の言葉を独占させない。
これは、すべてを疑えという意味ではない。すべてを相対化しろという意味でもない。何も信じるなという意味でもない。
答えはある。決断もある。献身もある。
ただし、その答えが未来のすべての問いを禁止することはない。
最後の言葉がないことは、答えがないことではない。
答えた後にも、世界が続いているということである。
十三 自在論そのものにも、最後の言葉はない
この原理は、自在論自身にも向けられなければならない。
もし自在論が、「これが自由の最終的な真理である」「この原理には異議を唱えてはならない」と言い始めたなら、その瞬間に自在論は自分自身を裏切る。
自在論も、人間が作った一つの哲学である。有限な人間が、有限な経験と言葉によって考えたものである。
だから、この本の区別も問い直されてよい。
権威と主権の区別。応答という考え。履歴の連続性。他者についての理解。自在そのものの定義。
より強い理由が示されるなら、再検討を免れることはできない。その結果、修正されることもある。維持されることもある。
重要なのは、「自在論だから正しい」と答えないことである。
主権を否定する哲学は、自らの主権も否定しなければならない。
だから自在論は、自らを最後の哲学とは呼ばない。
むしろ、最後の言葉を持たないことによってのみ、自分自身の原理に忠実でいられる。
十四 意志からの解放、意志による価値創造、意志への権力制限
ここで、最初の場所へ戻ろう。
人間は欲する。その意志は、人間を動かし続ける。
そこから退こうとする思想がある。欲望そのものの支配から離れようとする。ショーペンハウアーが開いた道である。
しかし、生を退けるのではなく、欲すること、価値を創造することそのものを肯定する道もある。ニーチェが切り開いた道である。
意志からの解放。意志による価値創造。
この二つを通ったあとに、一つの問題が残る。
価値を創造するその意志が、やがて新しい主人になったらどうするのか。
自在論は、ここから始まった。
だから自在論は、意志を否定する第三の立場ではない。意志を弱める思想でもない。
意志を持つ。価値を創る。決断する。献身する。
しかし、その意志に無制限の権力を与えない。
本書がここまで辿ってきた読みの線上で言えば、ショーペンハウアーは意志からの解放を求め、ニーチェは意志による価値創造を引き受け、自在論は意志への権力制限を問う。
何を欲するか。何を創るか。だけではない。
自ら創ったものに、どこまで自分を支配する権利を与えるのか。
そこまで問う。
そして、その問いが必要になるのは、人間が意志を持つからだけではない。意志に従えば間違わないという保証を、人間が欲しがるからでもある。
自在論は、その保証を拒む。
意志を弱くするためではない。
保証なしに意志するためである。
十五 欲する人間、創造する人間、応答する人間
人間を見る仕方も、ここで変わる。
人間は、欲する存在である。不足を感じ、求め、満たそうとする。
人間は、創造する存在でもある。受け継いだ価値を問い、自ら意味を与え、自分の生を方向づける。
しかし、それだけではない。
人間は、自分の意志だけでは支配できないものによって問い返される。世界によって。事実によって。身体によって。時間によって。他者によって。そして、自分自身の過去によって。
その問いに対して、人間は答える。
だから自在論は、人間を第三の仕方でも捉える。
人間とは、応答する存在である。
欲するだけではない。創るだけでもない。
創ったものによって問われる。愛した相手によって問われる。自分がしたことの結果によって問われる。そして、答える。
その答えによって、また自分自身が形作られていく。
応答には保証がない。正しい答えになるとは限らない。
それでも、答えることを他の何かへ明け渡さない。
そこに人間の自由がある。
十六 自在
ここまで来て、ようやく本書の問いへ答えることができる。
人間は、何かに本気で従いながら、どうすればその何かの奴隷にならずに済むのか。
何にも従わなければよいのではない。それでは献身も、約束も、愛も、長く続く仕事も成立しにくい。
絶えず自分を超え続ければよいのでもない。自己超克そのものが新しい主人になることがある。
すべてを疑い続ければよいのでもない。疑うことによって決断から逃げ続けることもできる。
必要なのは、深く選ぶこと。深く信じること。深く愛すること。そして、それでも閉じないことである。
もう一度、自在の意味を厳密に述べよう。
自在とは、自らを構成する価値へ深く献身しながら、その価値を重大な異議に開き、異議を受け取った後の態度を、自らの応答として引き受けられることである。
その答えは、変化でなくてもよい。
「それでも私はこれを選ぶ」でもよい。「私は間違っていた」でもよい。「もうこれは選ばない」でもよい。「今はまだ分からない」でもよい。
重要なのは、その答えが異議を閉め出した後に残ったものではないことである。
絶対に正しいという保証はいらない。絶対に後悔しないという保証もいらない。絶対に失わないという保証もいらない。
それでも、人間は選ぶことができる。
自ら選んだ価値に従え。だが、その価値に最後の言葉を与えるな。
そこに自在がある。
十七 意志の後に
この本の最初で、一つの問いを置いた。
人間は、自分で選んだものに従って生きているかぎり、自由なのだろうか。
答えは、もう明らかである。
自分で選んだというだけでは、自由ではない。自分で選んだものも、自分を支配することがある。
しかし、自分で選んだものから絶えず逃げ続ければ自由なのでもない。
何にも深く関わらない。何も信じない。何も約束しない。誰も深く愛さない。
それでは、支配を避ける代わりに、献身によって開かれる生からも退くことになる。
自在論が求めるのは、そのどちらでもない。
人間は、完全には自由にならない。
欲望から完全には自由にならない。過去から完全には自由にならない。身体からも、他者からも、世界からも自由にはならない。
そして、それでよい。
自在とは、世界とのあらゆる関係を断ち切ることではないからである。
人間は関係の中で生きる。
欲する。選ぶ。愛する。約束する。失う。傷つく。傷つける。変わる。
自由は、それらを捨てた場所にあるのではない。それらの中にいながら、どれか一つに自分の全存在を決めさせないこと。
そして同時に、どれにも無関心にならないこと。
本気で生きる。しかし、自分の本気を絶対化しない。
信じる。しかし、信じているという理由だけで異議を排除しない。
愛する。しかし、愛する相手を所有しない。
過去を引き受ける。しかし、過去に未来を所有させない。
決断する。しかし、自分が決断したという事実を無謬性の証明にはしない。
人間には、最後の保証はない。
正しい価値を永遠に選び続けられるという保証もない。愛する人を失わないという保証もない。後悔しないという保証もない。自分の人生が最後には必ず意味を持つという保証さえない。
それでも生きる。それでも選ぶ。それでも愛する。それでも答える。
自在論が最後に求めるのは、確実性ではない。
保証のない世界で、それでも深く生きることである。
意志を捨てる必要はない。意志にひざまずく必要もない。
自ら意志せよ。そして、その意志によって世界を閉じるな。
自ら価値を創れ。そして、その価値に自分を所有させるな。
深く愛せ。そして、愛する相手を自分の中へ消してしまうな。
過去を引き受けよ。そして、過去に未来を奪わせるな。
決断せよ。間違う可能性を残したまま。
生きよ。最後の言葉を持たないまま。
確実だから選ぶのではない。保証されているから愛するのでもない。間違わないと分かっているから生きるのでもない。
何ものにも最後の言葉を与えず、それでも何ものかを深く選び取って生きる。
それが、自在である。




