第六章 時間と責任
人間は変わる。考え方が変わる。大切にするものが変わる。かつて望んでいたものを望まなくなり、昔は理解できなかったものを、何年も経ってから大切だと思うようになることもある。
第五章では、自己は最初から完成したものではなく、世界への応答の中で形成され続けると考えた。しかし、この考えを認めると、一つの難しい問題が生まれる。
十年前の私と、現在の私は違う。それでも、十年前の私がした約束には、なぜ現在の私を拘束する力があるのか。
さらに難しい問題がある。もし現在の私が、過去の価値を捨てることができるのなら、過去の自分がしたことについても、「今の私はもう違う」と言って責任から離れることができるのだろうか。
自在論は、人間が変わることを認める。しかし、自己が変わることと、過去に起きたことまで変わることは同じではない。ここから、時間の中に生きる人間の自由と責任を考えなければならない。
一 過去の自己は、現在の自己をどこまで拘束できるのか
若い頃に、一つの仕事に人生を捧げると決めた人がいる。十年後、その人は変わっている。経験も増えた。身体も変わった。家族ができた。仕事そのものも変化した。
それでも、「十年前に自分で決めたのだから」という理由だけで、その仕事を続けなければならないのだろうか。
もしそうなら、過去の自己は現在の自己に対して強い権力を持つことになる。二十歳の自分が決めたことを、四十歳の自分が覆せない。
これは奇妙である。
二十歳の自分は、四十歳の自分が知ることになる事実を知らなかった。未来の身体も、出会う人も、何を失い何を得るかも知らなかった。それなのに、その時点の決断が未来すべてを支配できるなら、過去の自己に主権を与えたことになる。
自在論はそれを認めない。
過去の決断には権威がある。しかし、過去の自己に主権はない。
十分に考えて決めたことには重みがある。約束したことにも重みがある。長く積み上げてきたことにも重みがある。だから現在の気分だけで簡単に破棄してよいわけではない。
しかし、その重みは絶対ではない。新しい事実が現れる。新しい責任が生まれる。身体が変わる。関係が変わる。自分自身の理解も変わる。そのとき、現在の自己には過去の決断を問い直す理由が生まれる。
過去は現在を導く。しかし、現在を所有することはできない。
二 現在の自己も、未来を所有できない
では逆に、現在の自己は未来の自己をどこまで拘束できるのか。
約束をする。契約を結ぶ。結婚する。子供を持つ。一つの仕事を引き受ける。こうした行為には、未来への拘束が含まれている。
「明日の私は変わるかもしれない」という理由ですべての約束を拒否するなら、長期的な献身そのものが成立しにくくなる。だから現在の自己には、未来の行為へ一定の拘束を与える力が必要である。
しかし、ここでも主権を認めてはならない。
たとえば現在の自分が、「私は一生この考えを変えない」と誓ったとする。その誓いによって、未来にどんな事実が現れても、どんな経験をしても、考え直すことそのものを禁止できるだろうか。
できない。未来には、現在の自己がまだ知ることのできない理由が現れるからである。
だから現在の決断には、未来の理由をあらかじめ失格にする権利はない。
現在の自己は未来を拘束できる。しかし、未来に現れる異議まで沈黙させることはできない。
これは約束を弱くすることではない。むしろ、約束が主権へ変わることを防ぐ。後になって、「事情が変わった」「この約束を守ることによって、別の重大な価値を破壊している」という理由が現れたなら、その異議は受け取られなければならない。
その結果、約束を守るかもしれない。修正するかもしれない。破るかもしれない。重要なのは、現在の自己が未来の判断まで永久に封じることはできないということである。
ただし、約束の拘束力は、過去の自分がそう決めたという事実だけから生まれるわけではない。誰かに約束したなら、相手はその言葉を信頼し、その約束を前提に自分の行動を変えることがある。その瞬間、約束はすでに自分一人の内部だけに存在する決断ではなくなっている。
過去の決断が世界との関係を変え、その関係が現在まで残る。だから約束には、単なる自己拘束以上の重みが生まれる。
この問題は、次章で他者との関係として改めて考える。
三 どの時点の自己にも、最終主権はない
ここまで考えると、時間の中の自己には三つの立場がある。
過去の自己。現在の自己。未来へ開かれた自己。
過去の決断には、継続を要求する理由がある。現在の自己には、いま何をするかを決め、その決定を引き受ける責任がある。そして未来には、まだ現れていない事実や経験や理由によって、現在の決断が問い直される可能性がある。
この三つを、どれか一つへ還元してはならない。
過去だけを優先すれば、人生は過去の決定に支配される。現在だけを優先すれば、約束や継続が意味を失う。未来の変化だけを優先すれば、「どうせ後で変わるかもしれない」という理由で、現在は何にも本気で献身できなくなる。
だから自在論は、どの時間的な自己にも最終主権を与えない。
過去の決断には、継続を要求する資格がある。現在の自己には、行為を決定し、その決定を引き受ける責任がある。未来に現れる新しい理由には、その決断を問い直す資格がある。
この緊張の中で、人間は生きる。
自在は、時間から切り離された一点で完成するものではない。時間の中で、自分自身との関係を更新しながら生きることによって保たれる。
四 時間が経ったことは、理由にならない
ここで注意しなければならない。
人間が変わるからといって、「時間が経った」という事実だけで過去の決断を覆せるわけではない。
十年経った。だから約束は無効だ。二十年経った。だから昔の信念には意味がない。
そういうことではない。
第四章で述べたように、時間は価値を覆す理由ではない。新しい理由が現れる場所である。
十年という時間そのものに、価値を破壊する力はない。重要なのは、その十年のあいだに何が起きたかである。
知らなかった事実を知った。身体の能力が変化した。他者との関係が変わった。価値同士の関係が変わった。かつて予想できなかった責任を負うようになった。
そうした変化が、過去の決断へ異議を申し立てる。
だから、「人は変わるのだから、昔の決断など気にしなくていい」という考えも自在ではない。それは過去の権威を消してしまう。
必要なのは、過去を無条件に守ることでも、無条件に捨てることでもない。過去の決断に重みを認めながら、現在に現れた新しい理由にも答えることである。
五 自己は変えられる
人間には、自分を変える自由がある。
かつて、「成功こそ人生で最も重要だ」と信じていた人間が、その価値を捨ててもいい。「一人で生きられることが強さだ」と思っていた人間が、他者に頼ることを学んでもいい。「絶対にこの夢を叶える」と決めた人間が、別の人生を選んでもいい。
自分を変えることは、必ずしも裏切りではない。むしろ、現実や他者や自分自身の変化に真剣に応答した結果として、以前の自分とは異なる生き方を選ぶこともある。
しかし人間は、ときどき自分が変わることを恐れる。昔の自分を否定することになるからである。「これまでの十年は何だったのか」と思う。「あれほど信じていた自分は間違っていたのか」と思う。だから、変化を拒む。
しかし過去の選択を正当化するためだけに現在の価値を固定するなら、過去は主人になる。
逆に、「昔の私は愚かだった」とすべてを切り捨てれば、現在の自己が過去に最後の判決を下すことになる。どちらも自在ではない。
過去の自分は、今の自分とは違う。だが、まったくの他人でもない。その人が考え、選び、失敗し、耐えたことの上に、現在の自分がいる。
だから自在な変化とは、過去の自己を消すことではなく、過去の自己との関係を変えることである。
「あの頃の私は、あれを信じていた」「その価値には、当時の私を支える理由があった」「しかし今の私は、別の理由によって別の生き方を選ぶ」
そう言うことができる。
過去を無効にせず、現在を過去へ服従させもしない。ここにも応答がある。
六 何が責任をつないでいるのか
だが、ここで最初の問いが戻ってくる。過去の自己と現在の自己が変わっているのなら、なぜ責任は残るのか。「昔の自分とは価値観が違う」というだけでは、責任は消えない。
では、何が過去と現在をつないでいるのか。
自在論は、責任を価値観の同一性には置かない。十年前と同じことを信じているから、十年前の行為に責任を負うのではない。同じ性格だからでもない。同じ自己理解を持っているからでもない。
過去の行為は、この一つの人生の中で行われ、その行為によって世界に変化が生じた。
他者との関係が変わった。約束が生まれた。傷が残った。利益を受けた。何かを失わせた。そして、その行為を含む履歴の上に現在の自己が存在している。
責任をつなぐのは、価値の同一性ではない。行為者としての履歴の連続性である。
ここでいう履歴の連続性とは、過去と現在で心理状態や価値観や性格が完全に同じであることではない。過去の行為が、現在まで続く一つの生の履歴として、自分と世界との関係の中に残っているということである。
そして履歴は、自分の内側だけに保存されているものでもない。
約束は、相手の期待の中に残る。裏切りは、失われた信頼の中に残る。傷つけた行為は、相手の経験の中に残る。助けた行為もまた、その後の関係や世界の変化の中に残る。
履歴は、自分が自分について語る物語であるだけではない。自分が世界とのあいだに作った関係としても残る。
だから、自分一人の自己解釈によって履歴を解除することはできない。
「もう昔の自分ではない」と自分が納得したとしても、その一言によって他者の記憶や傷や信頼まで消えるわけではない。過去の行為は、すでに自分だけの所有物ではないからである。
ここで本書が、人格同一性そのものについての形而上学的問題を解決しようとしているわけではない。「何をもって、時間を隔てた二人を同一人物と呼ぶのか」という問題には、それ自体としてさらに大きな議論が必要になる。
自在論がここで必要としているのは、もっと限定された主張である。
通常の自己変化において、価値観や性格が変わったという事実だけでは、過去の行為との関係は切れない。
記憶や心理状態が大きく変化する極端な場合には、責任のあり方もまた別に検討されなければならない。しかし少なくとも、通常の自己変化については、「昔とは価値観が違う」というだけで履歴の連続性が消えるわけではない。
私は昔の私とまったく同じではない。しかし、昔の私がしたことは、無関係な他人の履歴へ移るわけでもない。
「今の自分ならしない」という変化と、「それでも、したのは自分だ」という責任は両立する。
ここで重要なのは、すべての結果について無制限に責任を負うということでもない。人間には、自分では予測も制御もできなかった結果がある。意図したこと、予見できたこと、実際に選んだ行為、引き受けた約束、他者に対する立場によって、責任のあり方や重さは異なる。
自在論がここで確定しようとしているのは、責任の全量ではない。
自己が変化したという事実だけでは、自分が行ったこととの関係を切る理由にはならない。
という一点である。
七 自己は改訂できる。履歴は改訂できない
自己は変えられる。価値も変えられる。自分についての物語も変えられる。しかし、すでに行ったことそのものは変えられない。
過去に誰かを傷つけた。その後、自分が変わった。今では、その行為を間違いだったと理解している。それでも、「今の私はそんなことをしない」という言葉によって、行為そのものが消えるわけではない。傷つけられた人間にとって、起きたことまで消えるわけではないからである。
同じことは逆にも言える。かつて誰かを救った。後になって価値観が変わった。今では、そのときの思想を信じていない。それでも、その行為によって救われた人の経験まで消えるわけではない。
人間は自己理解を書き換えることができる。しかし、世界に刻んだ行為の履歴まで書き換えることはできない。
自己は改訂できる。履歴は改訂できない。
履歴が改訂できないのは、それが単に自分の記憶の中にある過去ではないからである。
自分が何かをした瞬間、その行為は世界との関係の中へ入る。誰かの記憶になる。誰かの期待になる。誰かの傷になる。あるいは信頼や感謝になる。
だから過去は、自分一人の現在の解釈だけでは取り戻せない。
責任とは、現在の自己を過去へ固定することではない。過去に行ったことと、それによって世界に生じたものとの関係を、自分の変化だけを理由に断ち切らないことである。
八 価値を捨てても、結果との関係は残る
一人の人間が、若い頃に成功を絶対視していたとする。その価値のために、家族を傷つけた。友人を裏切った。部下を過酷に働かせた。
何年も経ったあと、その人は考えを変えた。成功よりも人間関係の方が大切だと理解した。以前の自分を恥じている。
これは重要な変化である。自在論は、その変化を認める。「昔決めた価値なのだから、一生成功主義者でいろ」とは言わない。しかし、「もう私は成功を重視していない。だから昔のことは終わった」とも言えない。
家族が受けた傷は残っている。失われた時間は戻らない。裏切ったという行為も消えない。他者とのあいだに生じた関係も、価値観を変えただけでは元に戻らない。
だから、価値は捨てられる。しかし、自分が生じさせた結果との関係まで捨てることはできない。
ただし、これは責任を結果だけへ還元する言葉ではない。人間が引き受けなければならないのは、自分が行ったことと、その行為によって生じた結果との関係である。
悪い結果が生じなかったから、悪い行為までなかったことになるわけではない。反対に、予測も回避もできなかった結果について、結果の大きさだけを理由にすべての責任を負わせることもできない。
責任は、結果だけでは測れない。
それでも、価値を変えたというだけで、行為や結果との関係を消去することはできない。
自由には、自分を変える力がある。だが、自分を変える力は、履歴を消す力ではない。
九 責任とは、過去の人間に固定されることではない
責任を負うとは、「私は一生、過去の自分と同じ人間でなければならない」ということではない。誰かを傷つけた人間が変わることもある。深く反省することもある。若い頃には理解できなかったことを、後から理解できるようになることもある。
その変化を否定してしまえば、人間に成長や和解の可能性はなくなる。
だから、「あなたは昔こうだった。だから今も同じ人間だ」と永久に固定することも、過去への主権付与である。
一度失敗したら、一生失敗者。一度裏切ったら、一生裏切り者。過去の一つの行為に、その後の人格全体について最後の言葉を与える。
自在論はこれを認めない。
責任とは、過去の人格に固定されることではない。過去の自分が行ったこととの関係を切らないことである。
変わっていい。価値を捨ててもいい。「今の自分なら、あの行為はしない」と言っていい。しかし同時に、「それでも、したのは自分だ」と言えなければならない。
この二つは矛盾しない。変化と責任は両立する。むしろ本当に変わった人間だからこそ、過去を現在の価値によって正当化する必要がなくなる。
十 謝罪は過去を消さない
責任を考えるとき、謝罪について考える必要がある。
謝罪には奇妙なところがある。過去を変える力はない。「ごめんなさい」と言っても、傷は起きなかったことにはならない。失ったものも必ずしも戻らない。
それでも、人間は謝る。
なぜだろう。
謝罪とは、過去を消す行為ではないからである。
過去との現在の関係を変える行為である。
私はあの行為をした。その行為によって何かを生じさせた。今は当時とは違う価値を持っているとしても、その履歴から逃げない。自分がしたことについて、現在の自分として答える。ここに応答としての謝罪がある。
だから、「謝ったのだから、もう終わりだ」と言い始めた瞬間、謝罪は責任を終了させるための道具になる。
相手に許しを要求することもできない。謝罪したからといって、傷つけられた側に許す義務が生まれるわけではない。
自分が変わったかどうかは、自分の側の事実である。相手が受けたものをどう理解し、どのような距離を取るかは、相手の側に残されている。
変わったという事実は、他者の傷を無効化する権利を与えない。
十一 不可逆な結果と、開かれた意味
人生には不可逆な出来事がある。
言ってしまった言葉。失った時間。壊れた関係。死。取り返すことのできない選択。
自在論が、「価値は変えられる」と言うからといって、人生そのものがやり直せるわけではない。ここは明確にしなければならない。
起きた事実は変えられない。しかし、その意味はなお開かれている。
起きたことそのものは変えられない。しかし、その出来事が自分にとって何を意味するのかは、後から変化することがある。
失敗だった出来事が、後の人生では重要な契機になることもある。成功だと思っていたものが、後から見ると別の損失を生んでいたと気づくこともある。
誰かとの別れを、最初は人生の破綻だと思った。十年後には、その別れによって自分が変わったと理解するかもしれない。
しかし、「結果的に成長できたから、あの苦痛は良かった」と単純に言うこともできない。成長したことと、傷が存在したことは両立する。
意味を変えたからといって、事実まで変わるわけではない。
とりわけ、自分が他者へ与えた傷を、「あれがあったから相手も成長できた」と自分の側から勝手に再解釈することは、応答ではない。それは意味を変えることによって、履歴を支配し直している。
意味は開かれている。しかし、事実から自由ではない。
だから自在論が求めるのは、「人生を可逆的にしろ」ということではない。
不可逆な結果に、不可謬な意味まで与えるな。
「あの失敗によって私の人生は永遠に終わった」と決める必要はない。「あの成功こそ私の人生の絶対的な意味だった」と固定する必要もない。
結果は残る。しかし、その結果との関係は変わりうる。
十二 自分を許すということ
責任を引き受けることを強調すると、今度は別の危険が現れる。
過去を永遠に背負い続けなければならないのか。一度人を傷つけたら、一生自分を責め続けるべきなのか。
それも違う。
自責そのものが、新しい主権者になることがある。「私はあんなことをした人間だ」という自己像に固定され、現在の変化を認められなくなる。罪悪感を手放すことを、「責任から逃げることだ」と思う。
しかし、責任と自己処罰は同じではない。
責任は、苦痛の量によって測られるものではない。
何十年苦しみ続けても、必要な謝罪をせず、償えるものを償わず、同じ行為を繰り返しているなら、その苦痛だけで責任を果たしたことにはならない。
逆に、自分を憎み続けることをやめても、過去との関係を切らず、必要な責任を引き受け続けることはできる。
必要なら謝罪する。償えるものは償う。同じことを繰り返さないよう生き方を変える。相手が許さないなら、その事実も受け取る。長く続く責任があるなら、それも続ける。
しかし、ここでも一つ区別しなければならない。相手が許さないという事実を、自分の側から勝手に無効にすることはできない。相手には許さない自由があり、その判断を自分の都合で書き換える権利はこちらにはない。
しかし同時に、相手の不許しにも、自分の残りの人生を支配する主権まではない。
許されなかった。だから一生自分を憎まなければならない。許されなかった。だから幸福になってはならない。
そこまでは導かれない。
相手の傷を尊重することと、自分の全人生を永久の自己処罰へ差し出すことは同じではない。他者の判断にも重みがある。しかし、その判断に私の生き方について最後の言葉を与える必要はない。
相手が許さないからといって、「私は苦しみ続けなければならない」という命令まで正当化されるわけではない。
自分を許すことは、自分に無罪判決を出すことではない。過去の責任を認めたまま、現在の自分に生きることを許すことである。
責任を捨てずに、自己処罰を終えることはできる。これもまた、過去にも、他者にも、主権を与えないということである。
十三 時間の中の自在
ここまでの議論をまとめよう。
人間は変わる。しかし、人間は時間の中で一つの履歴を生きる。
だから、過去の決断には権威がある。しかし、主権はない。
過去の決断や約束には、現在にも継続を要求する理由がある。しかし、新しい事実や責任が現れたとき、その決断を問い直す余地まで閉ざすことはできない。
現在の自己にも主権はない。「今そう思う」というだけで、過去の約束や自分が行ったことを消すことはできない。
未来にも主権はない。「どうせ将来変わるかもしれない」という理由で、現在の献身を拒む必要はない。しかし、未来に現れる理由を現在の価値によってあらかじめ封じることもできない。
そして、人間は自分を変えることができる。
しかし、自己は改訂できる。履歴は改訂できない。
自分を変えていい。過去とは異なる価値を生きてもいい。それでも、自分が行ったこととの関係まで、自分の変化だけを理由に切ることはできない。
過去。現在。未来。
どれにも最後の言葉を与えない。しかし、どれも無視しない。
自在とは、時間から自由になることではない。時間の中で、自分の変化と自分の責任を同時に引き受けることである。
そして、この問題をさらに難しくする存在がいる。
他者である。
自分の価値は変えられる。自分についての理解も変えられる。しかし、他者は自分の価値体系の一部ではない。
愛する相手。傷つけた相手。理解したつもりでいる相手。自分とは異なる価値を生きる相手。
その人間を、私はどこまで理解することができるのか。そして愛するということは、相手を自分の価値の中へ取り込むことなのか。
次章では、他者と愛について考える。




