第五章 応答する人間
これまで自由について考えるとき、私たちは一つの人間像を当然のように前提にしてきた。自分の前にいくつかの選択肢があり、その中から一つを選ぶ人間である。仕事を選ぶ。誰を愛するかを選ぶ。何を信じるかを選ぶ。どのように生きるかを選ぶ。
だから自由とは、自分で選べることだと考えられてきた。確かに、選択できることは重要である。何も選べず、すべてを他人に決められている人間を自由だとは言い難い。
しかし、ここまでの議論によって、選択だけでは自由を十分に説明できないことが分かった。
欲望そのものが自分を動かしていることがある。選択の基準となる価値を、他人から受け取っていることがある。自ら創った価値に、自分自身が支配されることさえある。そして何より、人間は一度選んだところで人生を終えるわけではない。選んだあとも、世界は続く。
予想しなかったことが起こる。他者が何かを言う。身体が変わる。自分自身が変わる。それでも私たちは、昨日の決断を抱えたまま今日を生きなければならない。
だから自由の主体を、ただ「選ぶ人間」として考えるだけでは足りない。自在論は、人間をもう一つ別の仕方で捉える。
人間とは、応答する存在である。
一 選択した瞬間だけを見てはならない
一人の人間が、ある仕事を選んだとする。誰にも強制されていない。十分に考えた。その仕事を自分の意思で選び、長く続けると決めた。その瞬間だけを切り取れば、自由な選択に見える。しかし五年後、その仕事によって生活が壊れ始めたとする。
身体を壊した。家族との関係も悪化した。仕事内容も、選んだ当時とは大きく変わった。それでも本人は言う。
「自分で選んだ仕事だから、最後まで続ける」
この言葉を聞いたとき、「自分で選んだのだから自由だ」だけでは、もう十分ではない。選択した瞬間には自由だったとしても、その選択との現在の関係まで自由だとは限らないからである。
逆の場合もある。十年前に選んだ仕事を、何度も迷いながら続けている人がいる。辞める機会はあった。他の道も考えた。失敗もした。周囲から反対されたこともある。それでも、そのたびに考えた末、「やはり私はこの仕事を続けたい」と決めてきた。
外から見れば、二人とも同じ仕事を続けている。だが、その自由のあり方は違う。
問題は、過去に自分で選んだかどうかだけではない。現在も、その選択に応答し続けることができているかどうかである。
自由は、一度の選択によって完成しない。人生が続くかぎり、選択は世界から問い返され続ける。
二 欲する人間、創造する人間、応答する人間
第一章で見たショーペンハウアーの人間像を、一言で表すなら、欲する人間である。人間は欲する。満たされなければ苦しむ。満たされても新しい欲望が生まれる。その背後には、人間自身より深い意志の運動がある。
第二章で見たニーチェは、その人間像を大きく反転させた。人間は、ただ欲望に動かされるだけの存在ではない。既存の価値を壊し、自ら価値を創造し、自らに形を与えることができる。
その意味でニーチェ的人間は、創造する人間である。
自在論は、この二つを否定しない。
人間は欲する。人間は創造する。
だが、それだけでは終わらない。
人間は、自分の欲望にも、自ら創った価値にも、世界から返ってくる結果にも、他者にも、時間の中で変化した自分自身にも向き合わなければならない。
そこで第三の姿が現れる。
人間は応答する。
欲するだけではない。創るだけでもない。自分が欲したもの、自分が創ったもの、自分が行ったことが世界の中で何を生んだのかを受け取り、その後どう生きるかを引き受ける。
ここに自在論の人間像がある。
三 応答とは、受け身になることではない
「応答する」という言葉は、弱く聞こえるかもしれない。誰かに何かを言われたら答える。起きたことに反応する。それでは、主体的に生きることより後ろ向きなのではないか。
しかし、自在論でいう応答は、単なる反応ではない。世界に言われた通りに動くことでもない。自分を捨てて他人の声を優先することでもない。
応答するためには、まず自分自身の立場が必要になる。何を信じているのか。何を守りたいのか。何に人生を使いたいのか。それがなければ、そもそも何に対して異議が向けられているのかも分からない。
だから応答は、献身の反対ではない。深く信じているからこそ、反論に答える必要が生まれる。深く愛しているからこそ、相手の言葉を受け取る意味が生まれる。人生を賭けているからこそ、失敗という事実に答えなければならなくなる。
何も信じていない人間は、何を言われても傷つかないかもしれない。しかし、それだけでは応答的献身としての自在を示したことにはならない。
応答とは、世界の前で自分を消すことではない。
自分を持ったまま、自分だけで世界を閉じないことである。
四 現在の自己は決定者である。しかし、主権者ではない
ここで一つ、重要な問題を避けて通ることはできない。価値にも、過去の自己にも、現在の自己にも主権を与えないのだとすれば、最後はいったい誰が決めるのか。
世界から異議が現れる。他者が反論する。身体が限界を訴える。過去の約束には守るべき理由がある。それらをすべて受け取ったとしても、最後には行為しなければならない。仕事を続けるのか、辞めるのか。約束を守るのか、破るのか。関係に残るのか、離れるのか。
決断を永遠に世界へ預けておくことはできない。
いま何をするかを決めるのは、現在の自己である。
この意味で、現在の自己には決定権がある。しかし、決定権と主権は同じではない。現在の自己が、「私はこれを選ぶ」と言うことと、「私がこれを選んだ以上、この決定にはもう異議を申し立ててはならない」と言うことは違う。
前者は決断である。後者は主権である。
人間が行為するためには、どこかで考えることを一度終えなければならない。未来も他者も完全には知ることができず、新しい理由はいくらでも現れうるからである。だから、「今ある理由の中では、私はこれを選ぶ」と決める地点が必要になる。
行為には、その時点での終止符が必要である。
しかし、その終止符は未来の問いにまで打たれるものではない。
今日、「私はこの仕事を続ける」と決めてもいい。その決断を長く守ってもいい。だが五年後に、現在は存在していない重大な理由が現れたなら、「五年前に決めたから」という一言で、その理由を失格にすることはできない。
自在論は、現在の自己から決定権を奪わない。ただし、自分が決めたという事実によって、その決断を理由の外へ置くことも認めない。
現在の自己は、決定者ではある。しかし、主権者ではない。
ここに主体性と可謬性が同時にある。
行為には終止符を打つ。しかし、理由の審査に永久の終止符は打たない。
応答する人間とは、自分で決定しながら、その決定によって世界からの問いまで終わらせない人間である。
五 自己は応答の中で作られる
なぜ応答が必要なのか。その理由の一つは、人間が自分自身についてさえ完全な知識を持っていないからである。私たちは、「自分が何を望んでいるかくらい分かる」と思いやすい。しかし実際には、それほど単純ではない。
成功したいと思っていた。だが振り返れば、その欲望には、成功そのものだけでなく、誰かに認められたいという願いも深く入り込んでいたと気づく。
恋人を愛していた。しかし、その愛には、関係を失うことへの恐れも含まれていたと気づく。
他人のために尽くしていた。だがそこには、必要とされる自分を失いたくないという欲求もあったと気づく。
強くなりたいと思っていた。しかしその願いには、弱い自分を誰かに見られることへの恐れも混ざっていたと気づくことがある。
人間の動機は、一つの「本当の理由」に還元できるとは限らない。
愛と恐れ。善意と承認欲求。勇気と羞恥。いくつもの動機が同時に存在し、自分自身にもその全体が見えていないことがある。
もちろん、後から得た説明が必ず正しいわけでもない。人間は後から自分の過去を都合よく語り直すこともできる。
つまり、現在の自己理解も、過去についての自己理解も、絶対にはならない。
自分の内面を見れば真実が分かる、という保証はない。
だから、自分の外にあるものが必要になる。他者の言葉や、行為の結果、自分が予想しなかった出来事は、自分について作った物語に亀裂を入れることがある。「私はこういう人間だ」という理解に、「本当にそうか」と問いを投げかける。
しかし、世界や他者が果たす役割は、単にすでに完成している「本当の自分」を発見させることだけではない。そもそも人間は、完成した自己を先に持ち、その自己によって世界へ応答しているだけではない。
他者に拒絶される。思いがけず愛される。失敗する。成功する。病気になる。自分の予想が外れる。何かを失う。そして、それらに答える。その繰り返しによって、「私は何者なのか」という答えそのものが変化していく。
昨日まで自分の弱さだと思っていたものを、別の仕方で理解することもある。一生守ると思っていた価値から離れることもある。逆に、軽く考えていたものが、自分の人生にとって決定的な価値だったと知ることもある。
自己は、応答する以前に完成しているのではない。応答する過程の中で形成されていく。
だから応答は、すでに存在する主体が行う一つの行為にすぎないのではない。応答することによって、主体そのものが変わる。
人間は、自分自身を一人だけで完成させることができない。
自己とは、世界から何も受け取らずに自己完結する存在ではない。
六 理由は命令ではない
では、世界から返ってきたものに、どう応答すればよいのか。ここでも、一つの危険がある。理由を絶対化することである。
合理的であれ。事実に従え。最も強い理由を選べ。一見すると正しい。しかし「理由」を新たな主人にしてしまえば、自在論は再び同じ問題へ戻る。
そもそも、人間の人生では理由同士が衝突する。家族と過ごす理由がある。仕事を続ける理由もある。約束を守る理由がある。しかし約束を破った方がよい理由が現れることもある。
自分の幸福を守る理由がある。他者を助ける理由もある。どちらか一方が常に勝つとは限らない。そして多くの場合、理由には数字のような明確な順位がついていない。愛と仕事のどちらが七点で、どちらが九点かを計算することはできない。
すべての事情を理解しても、「では何を選ぶべきか」が一つに定まらないことがある。
自在論は、理由を軽視しない。しかし、理由が人間の代わりに決断してくれるとも考えない。
理由を受け取る。対立を理解する。何を守り、何を失うのかを見る。その上で一つを選ぶ。
応答とは、理由によって決定を免除されることではない。理由を引き受けた上で、決定の責任を自ら負うことである。
七 決断には残余がある
人間が何かを選ぶとき、すべてが綺麗に解決するとは限らない。二つの大切なものが衝突することがある。
病気の親のそばに残りたい。しかし、自分にとって生涯に一度の仕事の機会が遠い土地にある。どちらにも理由がある。
親のそばに残ったとしても、「あの仕事を選ぶ人生もあった」という思いは残るかもしれない。仕事を選んだとしても、「もっと親のそばにいるべきだった」という痛みが残るかもしれない。
どちらを選んでも、失われるものがある。
このとき、「正しい選択をしたのだから、後悔する必要はない」とは限らない。後悔が残ることと、選択が間違っていたことは同じではない。悲しみが残ることと、自由に決断できなかったことも同じではない。
何かを選ぶとは、選ばなかったものを消滅させることではない。
決断には、ときに残余がある。
選ばなかった理由。守れなかった価値。失った可能性。それらが残る。
自在であるということは、この残余を無理に消すことでもない。「これでよかったのだ」と自分に言い聞かせて、他の価値を無価値だったことにする必要はない。
「別の道にも理由があった。しかし私はこれを選んだ」と言うことができる。
この態度には、勝利のような爽快さはない。だが、決断とは本来そういうものでもある。一つを選んだからといって、選ばなかったものまで間違いになるわけではない。
八 不確実なまま決める
さらに、人間はすべてを知った上で決断することもできない。この仕事を選べば幸せになれるか。この人と生きれば後悔しないか。子供を持つべきか。住む場所を変えるべきか。夢を追い続けるべきか。
答えを出す前に、未来を見て帰ってくることはできない。重要な決断ほど、決断する前には知ることのできないものを含んでいる。
だから、「十分な情報が集まるまで決めない」という態度にも限界がある。待つこと自体が、一つの選択になるからである。
機会は失われる。人は去る。身体は老いる。時間は進む。
それは自在論にとって欠陥ではない。むしろ、人間が有限である以上、避けることのできない条件である。
自在とは、すべてを理解した人間だけに許される状態ではない。
分からないものが残っていることを知りながら、それでも決断できることである。
ただし、「分からないから何をしても同じだ」とはならない。分かることは調べる。聞けることは聞く。考えられることは考える。
それでもまだ判断するには足りないなら、「今は分からない」という答えを引き受けることもできる。判断を保留することも、応答の一つである。ただし、保留によって決断の責任から永遠に逃れられるわけではない。時間が進み、決めないこと自体が結果を生み始めるなら、その結果にもまた応答しなければならない。
不確実性を理由に思考を放棄せず、必要なら保留し、それでも行為すべきときには一つを引き受ける。
それが応答する人間の態度である。
九 「それでも私は選ぶ」
応答する人間は、優柔不断な人間ではない。何にでも、「そういう考え方もありますね」と言って決断を避けることが応答ではない。反論があるたびに態度を変えることでも、すべての価値を同じように扱うことでもない。
現実を見た。結果も見た。他者の声も聞いた。過去の約束も考えた。現在の自己の変化も認めた。自分が間違っている可能性も消していない。
それでも、「私はこれを選ぶ」と言う。
この「それでも」が重要である。
何も知らずに選ぶのではない。反論が存在しないから選ぶのでもない。自分に都合の悪いものを排除したあとで選ぶのでもない。異議を受け取ったあとで、なお選ぶ。
その決断には絶対的な保証がない。未来の自分が修正する可能性もある。後悔する可能性もある。それでも、その時点の自分として答える。
応答する人間とは、無謬な人間ではない。自分の有限性を知った上で、それでも決断を引き受ける人間である。
十 応答可能性は、弱さではない
自分が間違っている可能性を認めることは、ときに弱さのように見える。「私は絶対に正しい」と言い切る人間の方が強く見える。迷わない。疑わない。反論されても動じない。
しかし、その強さの中には、世界から何も受け取れない脆さが隠れていることがある。反論に耐えられないから、反論を無効にする。間違いを認められないから、事実を解釈し直す。自己像を守るために、現実の方を曲げる。
それは強さではない。壊れないように閉じているだけである。
本当に強い信念は、自分への異議を恐れない。
本当に強い人間は、「私は間違っているかもしれない」という可能性によって崩壊しない。
むしろ、異議を受け取った上で、「それでも私はこう考える」と言うことができる。あるいは、「私は間違っていた」と言うこともできる。
後者もまた、強さである。
自分の過去を否定することになるかもしれない。長年信じてきたものを失うかもしれない。周囲に間違いを認めなければならないかもしれない。それでも現実から目を逸らさない。
そして最も強い自己とは、決して変わらない自己ではない。
自分への異議を受け取っても、なお決断し、その決断を引き受けられる自己である。
十一 自在とは、応答可能性である
ここまで本書は、自由とは何かという問いを、何度も形を変えながら追ってきた。欲望を実現できることだけでは足りない。自分で選べることだけでも足りない。自分で価値を創造できることだけでも足りない。一度創った価値を変更できることだけでも足りない。
もちろん、ここで政治的自由や行動の自由や選択の自由を否定するわけではない。それらはそれぞれ重要な自由である。しかし本書が問題にしてきたのは、もう一つ別の自由である。
人間が自らの生を方向づける価値に深く拘束されながら、それでもその価値の奴隷にならずにいられる自由。
この自由を、本書では自在と呼ぶ。
自由を一度の選択として捉えるかぎり、その選択の後に続く人生を捉えることができない。世界は変わる。他者は応答する。自分も変わる。そして、そうしたものへの応答を通じて、自分自身もまた形成され続ける。
だから自在において重要なのは、常に新しいものを選ぶことではない。一度選んだものを維持してもいい。修正してもいい。放棄してもいい。まだ答えを出せないなら、保留してもいい。何度問われても、同じ答えへ戻ってもいい。
問題は、結論ではない。
その価値とのあいだに、世界から現れる重大な異議を理由として受け取る回路が残されているかどうかである。
したがって、自在はこう定義することができる。
自在とは、自らを構成する価値へ深く献身しながら、その価値を重大な異議に開き、異議を受け取った後の態度を、自らの応答として引き受けられることである。
重要なのは、その態度が、異議を閉め出した結果ではなく、異議を受け取った後の応答になっていることである。
そして、ここでいう応答とは、すべての理由を完全に言葉へ変換できることではない。人間は自分自身の動機さえ完全には知りえない。言葉になる前に、他者の苦しみを見て態度を改めることもある。現実との衝突によって、それまでの生き方を変えることもある。
応答に必要なのは、完璧な説明ではない。
自分の価値だけで世界を閉じず、自分とは異なるものによって自分の判断が動かされうること。
自在な人間とは、何にも縛られない人間ではない。何にでも変われる人間でもない。絶対に間違わない人間でもない。
異議を受け取り、それでも自ら答えられる人間である。
ショーペンハウアーは、人間を欲する存在として見た。ニーチェは、人間を創造する存在として見た。自在論は、その先で人間を見る。
人間は欲する。人間は創造する。人間は応答する。
自ら欲し、自ら創造したものに対してさえ、再び答えることができる。
人間とは、応答する存在である。
しかし、ここで新しい問題が残る。いま応答している「私」と、十年前に約束した「私」は、本当に同じ人間なのか。過去の自分が決めたことには、なぜ現在の自分を拘束する力があるのか。
逆に、現在の自分には、過去の決断をどこまで変更する資格があるのか。そして、自分が変わったとしても、過去に生じさせた結果まで消えるわけではない。
自由を時間の中で考えるとき、選択だけではなく責任の問題が現れる。
次章では、時間と責任について考える。




