第四章 権威と主権
前章では、自ら選んだ価値でさえ、人間を支配する主人になりうることを見た。強さ。努力。愛。家族。信念。自己超克。どれも人間を支え、人生に方向を与える。しかし、その価値が自分自身に向けられた異議に開かれなくなったとき、価値は人間を導くものから、人間を支配するものへ変わる。
では、どこに境界があるのか。
価値に従うこと自体を否定すれば、問題は簡単に見える。何にも従わなければいい。約束に縛られず、信念を持たず、自分を一つの生き方に固定しない。いつでも別の道へ行けるようにしておく。しかし、それでは少なくとも、約束や献身や長期的な計画のような生のあり方は成立しにくくなる。
一人の人を愛することは、他の可能性を捨てることである。一つの仕事を長く続けることは、その時間を別のことには使えなくすることである。約束を守るとは、未来の自分の行動を、現在の自分がある程度拘束することである。価値を持つということは、必ず何らかの拘束を受け入れることである。だから自由になるために、すべての拘束を壊す必要はない。必要なのは、拘束そのものを区別することである。
ここで二つの概念を導入する。
権威と主権である。
一 価値には権威が必要である
今日、長年続けてきた仕事が少し嫌になった。それだけで辞めるべきだろうか。昨日まで愛していた相手に、今日は腹が立った。それだけで関係を終わらせるべきだろうか。数年間追い続けてきた目標について、一日の失敗によって自信を失った。それだけで諦めるべきだろうか。
おそらく、多くの場合は違う。人間の感情は変化する。疲れている日もある。判断を誤ることもある。一時的な恐怖や怒りや怠惰が、長期的な選択を簡単に覆すようでは、人生には継続性が生まれない。
そこで、過去に十分な理由をもって引き受けた価値には、現在の瞬間的な欲望よりも強い力を認める必要がある。これを、価値の権威と呼ぶ。
本書でいう権威とは、判断において無視することのできない特別な重みを持ちながら、それだけで最終決定を独占しない力である。価値について言えば、その権威は、現在の気分だけでは簡単に覆すことのできない、継続への理由を与える力として現れる。
私は約束した。だから、今は面倒でも約束を果たす。私はこの仕事を選んだ。だから、一度失敗したからといって簡単には投げ出さない。私はこの人を大切にすると決めた。だから、一度の怒りだけで関係を壊さない。
権威には、人間の判断を方向づけるだけの重みがある。しかし、それだけで他のすべての理由を沈黙させる権利まではない。ここには拘束がある。しかし、その拘束は自由と矛盾しない。むしろ、人間が時間を越えて一つの人生を作るためには必要である。
もし現在の欲望だけが常に最高の決定権を持つなら、人間は「いま」の連続としてしか生きられない。昨日の自分が決めたことに何の重みもなく、明日の自分のために今日我慢する理由もない。約束も計画も修練も成立しない。
だから、自ら引き受けた価値が現在の自己を拘束すること自体を、不自由と考えてはならない。
自由には、自分を拘束する能力も含まれている。
しかし、ここで一つ問わなければならない。
なぜ昨日の自分が決めたことに、今日の自分が従う理由があるのだろうか。
二 権威は「自分で選んだ」だけでは生まれない
第三章では、「自分で選んだ」という事実だけでは、その価値が正当になるわけではないことを見た。この点は、権威について考えるときにも変わらない。
たとえば若い頃、勢いに任せて、「私は一生この町から出ない」と決めた人間がいる。誰にも強制されていない。自分で選んだことには違いない。しかし、それだけで十年後の自分まで強く拘束する理由になるだろうか。
ならない。人間は、自分で愚かなことを決めることができる。誤った情報によって決断することも、一時的な感情によって重大な選択をすることもできる。
だから、「自分で選んだ」という事実だけから権威は生まれない。
では、何が権威を生むのか。
ある価値について十分に考えた。他の選択肢とも比較した。時間をかけて引き受け、その価値を前提として生活を組み立ててきた。場合によっては、その決断を信頼した他者も、自分の行動を変えている。
そのとき、過去に成立した理由は、時間が経ったというだけでは消えない。ここで重要なのは、過去の自己そのものに特別な権力を与えることではない。
過去の自分が偉いから従うのではない。過去に成立した理由が、現在にもなお理由として残っているから従うのである。
約束を守るのも、「昔の自分がそう言ったから」だけではない。相手がその約束を信頼している。自分もその約束を前提に関係を作ってきた。その履歴が現在まで続いている。
仕事を続けるのも、「一度選んだから」だけではない。その仕事を選んだ理由が今も残っており、一時的な不満だけではそれを覆すほどの理由になっていないからである。
したがって、価値の権威とは過去への服従ではない。一度成立した理由を、現在の気分だけで無効にしないことである。
だから権威には重みがある。しかし、その重みは絶対ではない。新しい理由が現れれば、過去の理由と再び比較されなければならない。ここから、権威とは別の力が見えてくる。
三 主権とは何か
価値には、もう一つ別の力が生じることがある。それが主権である。ここでいう主権は、政治について語るときの一般的な意味をそのまま用いているのではない。本書では、ある価値が自らを理由による審査から免除し、自分に向けられた異議の有効性まで最終的に決定しようとする力を、主権と呼ぶ。
権威が、「私に従う理由がある」と言う力だとすれば、主権は、「私に従う理由を、もう二度と問うな」と言う力である。ここには決定的な違いがある。
権威には重みがある。しかし、その重みはより強い理由によって覆されうる。主権は違う。主権を持った価値は、自分だけを理由の審査から除外しようとする。
たとえば、「私はこの人と結婚した。だから、一時の感情だけで関係を捨てるべきではない」。これは約束の権威である。しかし、「私はこの人と結婚した。だから、暴力を受けても、人格を破壊されても、関係を問い直してはならない」となれば、約束は主権を持ち始める。
「私はこの仕事を選んだ。だから簡単には辞めない」。これは権威である。「私はこの仕事を選んだ。だから身体を壊しても続けなければならない」となれば、仕事が主権を持つ。「私は強く生きると決めた。だから困難からすぐには逃げない」。これは権威である。「私は強い人間なのだから、助けを求めるという選択肢そのものを考えてはならない」となれば、強さが主権を持つ。
権威は人間を導く。主権は、人間から問いを奪う。
価値には権威を与えてよい。しかし、主権を与えてはならない。
これが自在論の中心命題である。では、なぜ主権を持った価値への服従を、本書は不自由と呼ぶのか。
単に、その価値が間違っている可能性があるからではない。正しい価値であっても、それが主権を持つなら同じ問題は起こる。主権化した価値は、自分に従うべきかどうかを人間に判断させるだけではない。何を理由として認めるか、どの異議を有効とするか、その判断の条件そのものまで支配する。
そのとき人間は、価値を判断しているように見えて、すでにその価値が許した範囲の中でしか判断できなくなる。だから主権は不自由なのである。人間が価値に従っているからではない。価値との関係そのものを問い直す能力まで、その価値によって奪われるからである。
四 主権は、異議に勝つのではない
主権を持った価値には、一つの特徴がある。その価値に反する出来事が起きても、それが反論として認められない。
身体が限界を訴えている。「弱さに負けるな」と解釈する。相手が苦しんでいる。「本当は相手のためなのだ」と解釈する。何度試しても失敗する。「信念が試されている」と解釈する。自分自身がもうその道を望んでいない。「本当の自分なら望んでいるはずだ」と解釈する。
ここでは、価値は単に反論に勝っているのではない。反論が反論として成立する条件そのものを支配している。
普通の信念なら、「この仕事を続けたい。しかし、身体を壊しているという事実は重い」と考えることができる。そのうえで、「それでも続ける」と答えることもできる。主権化した信念では、そもそも身体の限界が独立した理由として残らない。「本気なら耐えられる」という価値自身の言葉へ翻訳されてしまう。
成功すれば、「やはり正しかった」と言う。失敗すれば、「もっと信じる必要がある」と言う。支持されれば、「皆も分かっている」と言う。批判されれば、「理解されないほど先を行っている」と言う。どの結果が現れても、同じ価値を支持する証拠になる。この構造に入った価値は、世界を見るように見えて、自分自身だけを見ている。
主権とは、反論に対して無敵であることではない。何を反論として認めるかを独占することである。
前章では、この状態を「価値が自分自身の弁護士になり、裁判官にもなる」と表現した。ここでは、さらに一歩進めることができる。こうして、主権化した価値は、自分自身の裁判から免責される。これが第二の奴隷制を完成させる。
五 強い信念と閉じた信念
ここで誤解してはならない。自在論は、強い信念そのものを疑わしいものと考えるわけではない。人間は強く信じてよい。自分の信念のために長い時間を使ってもいい。批判されても簡単に考えを変えなくていい。少し反対された程度で捨てるものなら、それは初めから深い信念ではなかったのかもしれない。
では、強い信念と主権化した信念をどう区別するのか。違いは、信じている強さではない。
異議に開かれているかどうかである。
強い信念を持つ人間は、「私はこれが正しいと考えている」と言える。そして同時に、「しかし、自分が間違っている可能性はある」とも言える。この二つは矛盾しない。
現在もっとも妥当だと思う理由によって、一つの立場を強く信じる。そのために行動する。必要なら戦う。しかし、自分の信念に反する事実が現れたなら、それを事実として見る。他者から反論されたなら、その反論を理解しようとする。検討した結果、「それでも私は正しいと思う」と答えてもいい。
強い信念とは、反論が存在しない信念ではない。反論を受け取ってもなお、引き受けられる信念である。
だから、頑固さと一貫性も同じではない。百回問い直して、百回同じ答えに戻る人間は、一貫している。一度も問い直すことを許さない人間は、閉じている。外から見れば、どちらも同じ価値を守り続けている。だが、自由の質はまったく違う。
しかし、ここで強い反論が生まれる。「自分が間違っているかもしれない」と思いながら、本当に人生を賭けるほど強く何かを信じることができるのだろうか。
六 可謬性は、献身を弱くするのか
ここで問題になるのは、人間の可謬性――自分が誤りうるということ――である。人間が何かへ深く献身するとき、そこには確信がある。自分はこの仕事をする。この人を守る。この信念を生きる。場合によっては、そのために大きな犠牲を払う。
それほど強く生きるためには、「自分は絶対に正しい」という確信が必要なのではないか。もし常に、「私は間違っているかもしれない」と考えているなら、何かを最後まで貫くことなどできないのではないか。
一見すると、そう思える。しかし、ここでは二つのものが混同されている。
確信の強さと、無謬性である。
私は、「現在の自分には、これを選ぶ十分な理由がある」と強く考えることができる。そのために人生の大部分を使うこともできる。同時に、「それでも、自分が間違っている可能性そのものは消えていない」と認めることもできる。この二つは矛盾しない。
私たちは日常でも、絶対的な保証なしに重大な決断をしている。成功する保証がなくても、研究を始める。この人と一生うまくいく保証がなくても、結婚する。子供がどのような人生を生きるのか分からなくても、親になることを選ぶ。失敗しないと証明できなくても、何かへ人生を賭ける。
人間は、絶対的確実性がなければ決断できない存在ではない。重要なのは、「間違っている可能性がある」ことと、「現在これを選ぶ十分な理由がある」ことは別だということである。
可謬性を認めることは、信念を弱めることではない。信念から、無謬であるという要求だけを取り除くことである。
むしろ、「絶対に間違っていないと証明できなければ、私は何も信じられない」という方が、別の意味で脆い。人間には、そのような保証がほとんど与えられないからである。
異議に開かれている信念でも、人生を賭けるほど強く持つことはできる。この可能性がなければ、自在論は結局、「何も本気で信じるな」という思想になってしまう。
しかし自在論が求めるのは、献身の弱体化ではない。無謬性を要求せずに献身することである。
七 異議と誘惑は同じではない
異議に開かれることを強調すると、反対側の問題が生まれる。人間の内側には、毎日さまざまな声が現れる。今日は働きたくない。もう努力したくない。恋人に腹が立った。約束を守るのが面倒だ。
こうした感情が生まれるたびに、「現在の自分から重大な異議が出た」と考えるなら、何も続けることができない。だから、一時的な欲望と重大な異議は区別しなければならない。
しかし、ここでも単純には割り切れない。「今日は仕事へ行きたくない」という感情は、それだけで仕事を辞める理由にはならないかもしれない。だが、その感情が何年も続いている。身体を壊している。仕事の内容も選んだ当時とは変わった。家族との関係まで崩れ始めている。
それでも、「ただの甘えだ」と片づけてよいだろうか。
反対に、一度の苦痛だけで、「これは本当の自分からの異議だ」と決めることもできない。
ここで必要なのは、感情を命令として扱わないことと、感情を無意味な雑音として扱わないことの両方である。苦しい。その事実だけで、やめるべきだとは決まらない。しかし、「苦しい程度では理由にならない」と最初から決めることもできない。
問うべきなのは、その苦しさが何を示しているのかである。一時的な疲労なのか。価値を守るために引き受けるべき代償なのか。身体の限界なのか。選んだ当時には存在しなかった事情が生じたのか。自分自身の価値が変化したのか。
重大な異議とは、価値や決断を直ちに否定する命令ではなく、再検討を要求するだけの重みを持つ理由である。だから異議を受け取ったことと、価値を捨てることは同じではない。むしろ、ここで初めて、「それでも続ける」という答えにも意味が生まれる。
八 何をもって重大な異議とするのか
では、どのようなものが重大な異議になりうるのか。世の中には無数の意見がある。誰かに反対されるたびに自分の価値を再審していたら、何も続けられない。だから、すべての反対意見に同じ重さを与える必要はない。
重大な異議は、典型的には四つの方向から現れる。現実――そこには、身体が示す事実も含まれる。結果。他者。そして、自分自身の変化である。
「この方法なら成功する」と信じていた。しかし何年繰り返しても、予測した結果が起こらない。現実が異議を申し立てている。「これは相手のためだ」と信じていた。しかし相手自身が、「私はそれを望んでいない」と言う。他者が異議を申し立てている。
「この生き方が自分にとって最も大切だ」と考えていた。しかし経験を重ね、知ることが増え、関係も変化し、自分自身が別のものを望むようになった。現在の自己が、過去の価値へ異議を申し立てている。疲労。痛み。病気。限界。精神が理想を語っていても、身体が別の事実を示すことがある。
重要なのは、時間が経ったこと自体ではない。時間は価値を覆す理由ではない。新しい理由が現れる場所である。
そして、何が重大な異議であるかを、その価値自身だけに決めさせてはならない。成功を絶対視する人間が、「健康を失った程度では、成功への重大な異議にはならない」と決める。愛を絶対視する人間が、「相手が苦しんでいても、私の愛が正しい以上、それは反論にはならない」と決める。これを許せば、価値は何を異議として認めるかまで自分で支配できる。
少なくとも、その価値が前提としている事実を崩すもの、重大な結果を示すもの、他の重要な価値との衝突を明らかにするもの、そしてその価値によって重大な影響を受ける他者からの異議には、検討される資格がある。ただし、ここで自在論は、何が「重大」であるかを機械的に判定する中立的な尺度まで与えようとはしない。
もし人生のすべての理由を数値化し、「七点以上なら再検討せよ」と決められるなら、人間が自ら判断する必要はなくなる。現実には、そこまで単純ではない。二つの重要な価値が衝突することもある。同じ事実を前にしても、その人がどのような責任を負っているかによって重みが変わることもある。
自在論は、正解を自動的に与える哲学ではない。判断が閉じてしまうことを防ぐ哲学である。
異議を受け取った結果、価値を維持してもいい。修正してもいい。放棄してもいい。保留してもいい。重要なのは、「これは自分に都合が悪いから、理由として数えない」という仕方で、問いを始まる前から終わらせないことである。
いかなる価値も、自分自身に対する異議の有効性を単独で決定してはならない。
ここで、もう一つ誤解してはならない。自在論は、「絶対的な真理など存在しない」「すべての価値は相対的である」と主張しているのではない。
真理が存在することと、人間がその真理を無謬に所有していることは別である。善が存在することと、自分の善の理解が絶対に正しいことも別である。ここで主権を否定しているのは、真理や善の存在そのものではない。有限な人間が、自分の理解をそれらの無謬な所有として扱う資格である。
仮に絶対的な真理が存在するとしても、「私はその絶対的真理を完全に理解しており、私への異議はすべて無効である」というところまで進んだ瞬間、人間は自分自身を理由の外へ置く。自在論が拒むのは、その飛躍である。
九 異議を聞くことと、異議に従うことは違う
異議を受け取ることは、その異議に従うことではない。たとえば、仕事で海外赴任を勧められた人がいる。上司から、「この赴任を受ければ、今後の昇進には大きく有利になる」と説明された。
本人も、それが事実だと理解している。自分の能力を伸ばす機会になることも分かっている。断れば、将来得られたはずの地位や収入を失う可能性もある。それでも、「その利点は分かっている。しかし、今の私は家族との生活を優先する」と赴任を断ることはできる。昇進という理由を無視したわけではない。その価値を理解した上で、別の理由をより重く受け取ったのである。
人間には、理由を聞いた上で、その理由に従わない自由がある。価値から主権を奪うことは、外部から現れた理由へ主権を渡すことではない。異議は命令ではない。
現実が何かを示したからといって、自動的に一つの結論が決まるわけではない。他者から反対されたからといって、必ず自分が考えを変えなければならないわけでもない。聞く。考える。それまで自分が持っていた理由と比較する。そして、なお決める。
重要なのは、異議に従ったかどうかではない。異議が、自分の価値体系に都合が悪いというだけの理由で、最初から理由の資格を奪われていないことである。
では、その判断が本当に開かれていたのか。それとも、自分を正当化しただけなのか。
完全に見分ける方法はない。だからこそ、判断を自分自身の内部だけで閉じにくくするための歯止めが必要になる。
十 自在な判断を支える三つの歯止め
人間は、「私はちゃんと考えた」と言うことができる。しかし、その自己申告だけでは足りない。第一章で見たように、理性は意志の弁護士になることがある。だから、判断が自分の価値体系だけで完全に閉じることを防ぐために、少なくとも三つの歯止めを考えることができる。
第一に、外部性。これは、完全に価値中立な場所へ出ることではない。人間は、何の価値判断も持たずに世界を見ることはできない。必要なのは、現在の価値体系だけでは内容を完全には決められないものが、判断へ入り込む余地を残すことである。
予想とは違う事実。他者からの証言。実際に生じた結果。身体が示す限界。それらを、自分の信念に都合が悪いという理由だけで無効にしない。外部性が防ぐのは、循環である。
「この教えは正しい。なぜなら、この教えが正しいと教典に書かれている」だけでは、その価値体系から一歩も出ていない。自分の価値が証拠を作り、その証拠を自分の価値が判定している。そこへ、自分では決められないものが入ってくる必要がある。
第二に、対称性。自分に有利な場合だけ使える基準にしないことである。
「裏切りは絶対に許されない。しかし私の裏切りには事情がある」というなら、自分と他人に別の裁判を開いている。同じ基準が自分に不利な結論を出したときにも、その結論を検討できなければならない。
そして対称性が欠けるのは、自分に甘い場合だけではない。他人の失敗なら許せる。しかし、自分が一度失敗したら絶対に許されない。他人には弱さを認める。しかし、自分だけは弱くあってはならない。これもまた、自分だけに別の基準を適用している。自分を特別扱いすることは、自分を優遇する場合にも、自分だけを永久に罰する場合にも起こりうる。
第三に、結果の引受け。価値を変えたことによって、それ以前の行為まで消えたことにしない。
「今の私は昔とは違う」と言うことはできる。しかし、「だから昔の自分がしたことは私とは無関係だ」とはならない。考えを変える自由と、行為の履歴を消す自由は同じではない。この問題は、時間と責任を扱う第六章で詳しく考える。
外部性は、判断の循環を防ぐ。対称性は、自己の特権化を防ぐ。結果の引受けは、価値変更によって過去を消去することを防ぐ。
しかし、これらを備えれば必ず正しい答えに到達できるわけではない。それどころか、人間が自分を欺く可能性を完全に消すこともできない。自分に都合のいい事実だけを重要だと思うかもしれない。自分では対称的に判断しているつもりでも、無意識のうちに別の基準を使っているかもしれない。「十分に考えた」という自己理解そのものが誤っている可能性もある。
自在論は、この危険を消す万能な方法を持たない。もし、「この手続きを踏めば、あなたの判断は必ず正しい」という方法を与えられるなら、その手続きそのものが新しい主権者になる。
だから外部性、対称性、結果の引受けは、自己欺瞞を完全に排除するための条件ではない。自己欺瞞を困難にし、判断が自分自身の内部だけで閉じることを防ぐための歯止めである。
判断を無謬にするのではない。自分だけで作った理由が、自分だけによって承認され、そのまま永久に正当化される閉じた構造を作りにくくする。
自在論は、正解を保証する哲学ではない。判断を、自分自身の内部だけで閉じにくくする哲学である。
十一 継続の推定と、サンクコストは違う
異議に開かれていることを強調すると、今度は逆の誤解が生まれる。毎日すべてを問い直すべきなのか。答えは否である。
一度十分に考え、引き受けた価値には、継続の推定がある。重大な新しい理由がない限り、昨日の決断を今日も維持してよい。むしろ維持すべき場合もある。
約束したなら守る。修練を始めたなら、一日の苦痛だけではやめない。研究を続けると決めたなら、すぐに成果が出なくても続ける。人間は毎朝、「私は今日も家族を愛するか」「私は今日もこの仕事をするか」「私は今日も約束を守るか」とゼロから決め直しているわけではない。そんなことをしていたら、一つの人生を作ることはできない。
しかし、「ここまで続けたのだから、もうやめられない」という考えとは区別しなければならない。十年続けた。だから十一年目も続ける。百万円使った。だからさらに百万円を使う。これだけなら、過去に費やしたものを理由に未来の選択を拘束しているにすぎない。
継続の推定は違う。過去に多くを費やしたから続けるのではない。一度十分な理由によって成立した決断は、重大な新しい理由が現れないかぎり、毎日ゼロから立証し直す必要がないのである。
サンクコストが、「過去に多く払ったのだから、未来も払い続ける」という論理だとすれば、継続の推定は、「これまで有効だった理由は、それを覆す理由が現れないかぎり、現在にも一定の重みを持つ」という論理である。だから継続の推定は、過去への盲従ではない。むしろ、権威と主権の区別そのものである。過去の決断には重みがある。しかし、新しい理由によって覆される可能性は残っている。自由とは、絶えず再選することではない。一度引き受けたものを継続する能力も、自由の一部である。
十二 応答的献身
ここまでの議論によって、価値と人間との一つの関係を定義することができる。それを、応答的献身と呼ぶ。
応答的献身とは、価値へ深く献身しながら、その価値を重大な異議に閉ざさない関係である。献身だけなら、盲信になりうる。しかし、異議を恐れるあまり何にも深く関わらなければ、人生を形作るような献身そのものが成立しない。
一つの人間を深く愛する。一つの仕事に人生を使う。一つの思想を長く信じる。一つの約束を守り続ける。そこには拘束がある。その拘束を弱める必要はない。
ただし、現実が変わる。相手が異議を唱える。自分自身が変化する。新しい事実が現れる。そのとき、その価値だけを理由の審査から免除しない。異議を受け取った結果、「それでも私はこれを選ぶ」と答えてもいい。むしろ、一度も問われたことのない信念よりも、何度も問われ、そのたびに引き受け直された信念の方が深いことがある。
自在論は、献身を弱めない。献身を、主権から解放する。
十三 自由の反対は、拘束ではない
ここまでの議論によって、自由について一つの重要な結論が得られる。自由と拘束は、単純な反対語ではない。人間は、自ら選んだ価値によって自分を拘束できる。そして、その拘束は自由と両立する。
むしろ、自分を何にも拘束できない人間は、別の意味で不自由かもしれない。一時の欲望に逆らえない。約束を守れない。一つのことを続けられない。どの関係からも、少し不快になれば逃げる。それは選択肢が多いという意味では自由に見える。しかし、自分が引き受けたものに留まる能力がないのなら、自由の一部を欠いている。
だから自在論において、自由の反対は拘束ではない。
自由の反対は、応答不能な拘束である。
自由とは、すべての絆を断ち切る力ではない。絆を結ぶこともできる。その絆に自分を拘束させることもできる。しかし、その絆が自らへの異議まで封じるとき、「なぜ私はまだこれに従うのか」と問い返す余地が残されていなければならない。変えるためではない。必ず捨てるためでもない。異議を受け取った上で、なお引き受けることもできる。ここに、自在な拘束と第二の奴隷制との違いがある。
十四 価値に最後の言葉を与えない
ここで、権威と主権の区別をもう一度確認しよう。
権威を持つ価値は言う。
「あなたには私に従う理由がある」
主権を持つ価値は言う。
「私に従う理由を問うことをやめよ」
この違いは小さく見える。しかし、そこに自由と第二の奴隷制の境界がある。人間が一つの人生に方向を与えるには、価値を必要とする。何を大切にするか。誰を愛するか。何に時間を使うか。何を守るか。
だから価値から完全に自由になることは、自在論の目的ではない。必要なのは、価値に深く従いながら、その価値を理由による審査から免除しないことである。
そして、価値の代わりに「自己」を新しい絶対君主にしてもならない。現在の自己が望んでいるというだけで、過去の約束が無意味になるわけではない。過去の自己が決めたというだけで、現在の異議が無意味になるわけでもない。未来に現れる新しい理由を、現在の自己があらかじめ失格にすることもできない。価値にも、過去の自己にも、現在の自己にも、最後の言葉を独占させない。
そして、この原則には一つの例外もない。自在論そのものも、主権を持たない。
もし自在論が、「この原則だけは決して疑ってはならない」と言い始めたなら、その瞬間に自在論は自らの原理に反する。権威と主権という区別も、応答的献身という概念も、外部性や対称性といった歯止めも、異議から免除されてはいない。より強い理由が示されるなら、再検討されなければならない。
主権を否定する哲学は、自らの主権も否定しなければならない。
価値には権威を認める。しかし主権は認めない。信じる。しかし、自分の信念を無謬とはしない。愛する。しかし、愛という言葉によって相手の異議を沈黙させない。自分を律する。しかし、律すること自体を最高価値にはしない。何かに人生を賭ける。しかし、その賭けが間違いである可能性を、最初から存在しないことにはしない。
これが、自在論における価値との関係である。
自ら選んだ価値に従え。だが、その価値に最後の言葉を与えるな。
しかし、価値が自ら異議を聞くわけではない。事実を受け取り、他者の声を聞き、自分自身の変化を認め、それでも一つを選ぶのは人間である。
では、そのような人間を、どのように考えればよいのか。次章では、自由の主体を「選ぶ人間」ではなく、応答する人間として考える。




