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第三章 第二の奴隷制

人間は、他人に命令されているときだけ不自由なのではない。


このことは、すでに第一章で見た。誰にも命令されていなくても、欲望そのものに動かされているなら、人間は自分の主人であるとは言い切れない。さらに第二章では、ニーチェによってもう一つの問題が明らかになった。


人間は、自分で選んでいるつもりでも、何を価値あるものと考えるかという尺度そのものを、他人から受け取っていることがある。だからニーチェは、与えられた価値を疑った。「汝なすべし」を破壊し、自ら価値を創造する。


ここでいう外からの支配とは、社会や伝統、他者、すでに存在する価値が「こう生きよ」と命じ、その命令を自分のものとして受け入れている状態である。そこから解放され、自ら価値を創造することができれば、人間は自由になったように見える。


しかし、本当にそうだろうか。


他人の価値ではない。自分で考えた。自分で選んだ。自分で「これを生きる」と決めた。それでも、その価値がいつか自分に命令し始めることがある。


外から与えられた主人から解放された後、自ら選び、自ら創った価値が新しい主人になる。本書では、この状態を第二の奴隷制と呼ぶ。


ここでいう第一の奴隷制とは、社会や伝統、他者など、自分の外から与えられた価値を主人として生きる状態を指す。第二の奴隷制は、その外的な主人から解放されたあとに生まれる。自ら選び、自ら創った価値が、今度は自分自身に対して「従え」と命じ始める。


外から与えられた主人ではない。自分自身が生み出した主人への服従である。


一 自分で選んだものなら、自由なのか


一人の人間が、若い頃にこう決めたとする。


「私は、強い人間になる」


誰かに強制されたわけではない。弱かった自分を嫌い、これからは他人に依存せず、困難から逃げず、自分の力で生きていこうと決めた。


その決断によって、彼の人生は変わる。以前なら逃げていた場面で踏みとどまる。失敗しても立ち上がる。他人に責任を押しつけなくなる。


「強く生きる」という価値は、確かに彼を救った。しかし何年か経つと、別のことが起きる。


苦しくても人に頼れない。泣きたいときにも泣けない。自分一人では解決できない問題に直面しても、助けを求めることを敗北だと感じる。


心も身体も限界に近づいているのに、「強い人間なら耐えられる」と自分に言い聞かせる。かつて彼を立ち上がらせた価値が、今では彼を座らせてくれない。


誰が彼に命令しているのだろう。


もう親でも社会でもない。かつての彼自身である。


ここに奇妙な支配がある。他人から押しつけられた価値なら、「そんなものには従わない」と反抗できる。しかし、「これは自分で選んだ」という記憶があると、人間はその価値への服従を自由だと思いやすい。


自分で決めた。だから守るべきだ。自分で選んだ。だから従うべきだ。


しかし、ここでは二つのことが混同されている。


ある価値を自分で選んだことと、その価値に今も従うべきことは同じではない。


選択には過去がある。人生には現在がある。そして、この二つは常に一致するとは限らない。


二 「したい」が「しなければならない」に変わるとき


価値は、最初から命令として現れるとは限らない。むしろ最初は、欲望として現れることが多い。


もっと強くなりたい。良い仕事をしたい。家族を幸せにしたい。人から尊敬されたい。優しい人間でありたい。自分を成長させたい。


その願いに問題があるわけではない。人間は何かを望み、その望みによって人生の方向を決める。しかし、ある時点から言葉が変わる。


「強くなりたい」が、「強くなければならない」になる。「成功したい」が、「成功できなければ自分には価値がない」になる。


「家族を大切にしたい」が、「家族のためなら自分の人生はすべて犠牲にしなければならない」になる。「成長したい」が、「昨日より成長していない日は無駄だ」になる。


初めは自分が価値を使っていた。その価値によって行動し、判断し、人生に方向を与えていた。しかし、いつの間にか関係が逆転する。


価値が自分を使い始める。


ここで重要なのは、価値そのものが悪くなったわけではないということである。強さは価値でありうる。成功も価値でありうる。家族も、成長も、愛も、誠実さも価値でありうる。


問題は内容ではない。関係である。


ここに第二の奴隷制の核心がある。


三 もっとも危険な命令は、自分の声をしている


外から与えられる命令には、命令らしさがある。「こうしろ」と言われれば、命令だと分かる。だから抵抗もできる。


だが、自分の価値から生まれる命令は違う。それは、「私はこうしたい」という声をしている。だから見抜きにくい。


たとえば、休むことができない人間がいる。本人は、「好きで働いているだけだ」と言う。


しかし休暇を取ると不安になる。仕事をしていない自分には価値がないように感じる。成果を出せない自分を許せない。


それでも、「誰にも強制されていない。自分がやりたいからやっている」と言う。この言葉だけでは、自由の証明にはならない。


第一章で見たように、欲望そのものが人間を支配することがある。同じように、「私はこれを望んでいる」という感覚そのものが、一つの価値によって形成されていることもある。


強い人間でありたい。成功者でありたい。善人でありたい。良い親でありたい。優れた芸術家でありたい。


こうした自己像が深くなるほど、「それを望んでいる自分」と「それを望まされている自分」の境界は見えにくくなる。


他人の主人なら、顔が見える。自分自身が主人になったとき、主人は鏡の中にいる。


だから第二の奴隷制は、第一の奴隷制より発見しにくい。


もっとも深い支配は、命令が自分の声に聞こえるときに完成する。


四 「自分らしさ」という檻


人間は、自分について物語を作る。


私は強い。私は優しい。私は誠実だ。私は理性的だ。私は夢を諦めない。


こうした自己理解には意味がある。昨日と今日の自分を結びつけ、どう行動するべきかを判断しやすくする。自分が何者なのかをまったく理解できない状態では、人間は長期的な人生を作ることが難しい。


しかし、自己像にも同じ逆転が起こる。


初めは、「私はこうありたい」だった。やがて、「私はこういう人間だ」になる。そして最後には、「私はこういう人間でなければならない」になる。


強い人間だから弱音を吐けない。理性的な人間だから、傷ついたことを認められない。夢を諦めない人間だから、もう望んでいない夢を追い続ける。


ここでは、自己を守るために自己が犠牲になっている。


奇妙なことだ。「自分らしく生きる」ために、現在の自分の感情や変化を否定している。


自分らしさは、自由の言葉として使われることが多い。しかし、自分らしさを守ることしかできなくなったとき、自分らしさは檻になる。


人間は変化する。かつて大切だったものを、大切だと思わなくなることもある。以前なら耐えられなかったものを受け入れられるようになることもある。弱かった部分が強くなり、強かった部分が弱くなる。


それなのに過去に作った自己像が、「お前はそういう人間ではない」と言って現在の自分を拒絶する。そこでは、過去の自己が現在の自己を支配している。


五 価値は人間を救うからこそ危険になる


ここで、第二の奴隷制について最も重要なことを確認しなければならない。


人間を支配する価値は、必ずしも最初から有害だったわけではない。むしろ逆である。


とりわけ危険なのは、かつて自分を救った価値である。


弱かった人間を「強くあれ」という価値が救う。怠惰だった人間を「努力せよ」という価値が救う。混乱していた人間を宗教が救う。孤独だった人間を家族が救う。生きる意味を失っていた人間を仕事や芸術が救う。


救われた経験は強い。だからその価値を疑うことは、自分を救ってくれたものへの裏切りのように感じる。


「この考えがあったから、私はここまで来られた」


それは事実かもしれない。しかし、そこから、「だから、この考えにはこれからも永遠に従わなければならない」とは導けない。


過去に薬だったものが、現在にも同じ量で薬とは限らない。ある時期に必要だった鎧を、一生脱いではならない理由もない。戦場で自分を守った鎧が、安全な家の中では重荷になることもある。


価値も同じである。


ある価値が自分を救ったという事実は、その価値に永久に従う理由を与えるものではない。


しかし、人間はそこを混同しやすい。救ってくれた。だから正しい。正しかった。だから今も正しい。今も正しい。だから問い直してはいけない。


こうして、恩人だった価値が主人へ変わる。


六 自己超克もまた命令になりうる


ここで、ニーチェへもう一度戻らなければならない。第二章で見たように、ニーチェは一度創造した価値に永遠に従えとは言わない。


自己を超えよ。価値を再評価せよ。自分自身を固定するな。


それなら、第二の奴隷制など自己超克によって抜け出せばよいのではないか。確かに、その可能性はある。


だから自在論は、ニーチェを単純に、「自分で価値を創造したあと、その価値の奴隷になった思想」として退けることはできない。


しかし、さらに問いを進めることはできる。


自己超克が、自己超克し続けなければならないという新たな義務へ変わることはないのか。


成長し続けろ。現状に満足するな。常に昨日の自分を超えろ。弱さを克服しろ。停滞するな。変化し続けろ。


こうした言葉は、ある人間を前へ進ませる。しかし、「私は今日はもう戦いたくない」と思ったときにも、「それは弱さだ。超えろ」と言うならどうか。


何かを克服せず、そのまま受け入れる方がよい場面でも、「克服しなければならない」と言い続けるならどうか。


自己超克によって自由になったはずの人間が、自己超克し続けなければならない人間になる可能性がある。


もちろん、これはニーチェの思想を一つの命令文へ還元することではない。むしろ問題はもっと一般的である。


どれほど自由を目指す価値であっても、それ自体が絶対化されれば、新しい不自由を作りうる。


自由そのものですら例外ではない。「何にも縛られてはならない」という命令に従う人間は、深い関係を築けないかもしれない。「常に自分らしくなければならない」という命令に従う人間は、変化できなくなるかもしれない。「常に成長しなければならない」という命令に従う人間は、立ち止まれなくなるかもしれない。


自由を絶対化することによって、自由を失うことさえできる。


七 選んだことは、正当化ではない


ここで、第二の奴隷制を成立させている一つの思い込みを壊さなければならない。それは、「自分で選んだものだから正当である」という考えである。


自分で選んだ仕事。自分で選んだ恋人。自分で選んだ思想。自分で決めた生き方。


確かに、自分で選んだという事実には意味がある。強制されたものと、自発的に引き受けたものは同じではない。


しかし、選択したという事実は、その選択内容が永遠に正しいことを保証しない。


人間は間違ったものを自分で選ぶことができる。自分を傷つける関係を自分で選ぶこともできる。自分に合わない生き方を自分で選ぶこともできる。誤った事実を信じ、自分なりに考えた末に間違った思想へ到達することもできる。


何より、選択した当時には十分な理由があったものが、その後の変化によって、もはや同じ理由では維持できなくなることもある。


だから、「誰にも強制されていない」ということは自由の必要な条件の一つにはなりうるが、それだけでは十分ではない。


ここで自由の問題は、誰が選んだかから、選んだものと、現在どのような関係にあるかへ移っていく。


これが自在論への重要な転換である。


八 価値が異議を拒み始める


では、価値が単なる価値から主人へ変わったことを、どう見分ければよいのだろう。


これは簡単ではない。強い信念と盲信は、外から見れば似ている。


一つの仕事を三十年間続けた人間がいる。本当にその仕事を愛し、何度考えても続けたいと思っているのかもしれない。あるいは、「ここまで続けたのだから辞めるわけにはいかない」という過去に拘束されているだけかもしれない。


一人の人を長く愛し続ける人間がいる。それは深い愛かもしれない。あるいは、「別れる人間は不誠実だ」という自己像を守っているだけかもしれない。


外から行動だけを見ても分からない。では、どこを見るべきか。


一つの兆候がある。


価値が、自分自身に向けられた異議に開かれなくなることである。


事実が反対している。しかし聞かない。他者が苦しんでいる。しかし「本人のためだ」と処理する。身体が限界を訴えている。しかし「弱さに負けているだけだ」と考える。自分自身がもう望んでいない。しかし「本当の自分なら望むはずだ」と言う。


何を突きつけられても、その価値体系の中で自分の正しさを説明できる。ここまで行くと、価値は強いのではない。


閉じている。


第一章で、理性が意志の弁護士になることを見た。ここでは、さらに一歩進む。価値が自分自身の弁護士になり、裁判官にもなる。


批判を受ける。しかし、その批判が有効かどうかを決める基準まで、自分の価値が握っている。当然、判決はいつも同じになる。


「私は正しい」


この状態になったとき、人間はもはや価値を判断しているとは言い難い。価値が、何を判断として認めるかまで決めている。


ここに第二の奴隷制の完成形がある。


九 主人を倒すだけでは足りない


ラクダは主人に従っていた。ライオンは主人を倒した。赤子は、自ら価値を創造した。


しかし、それで主人という構造そのものが消えたわけではなかった。外部の主人を倒しても、内部に新しい主人を作ることができる。


社会の命令を拒絶したあと、「私は絶対に社会に従わない」という命令に従うこともできる。宗教を捨てたあと、「理性的でなければならない」という価値を絶対化することもできる。弱さを克服したあと、「強者であり続けなければならない」という新しい拘束を作ることもできる。


だから自由についての問いは、ここでもう一度変わる。


最初の問いは、「誰が私を支配しているのか」だった。次に、「私は自分で価値を選んでいるのか」と問うた。


しかし、まだ足りない。


本当に問わなければならないのは、「私が選んだ価値は、どのような資格によって今の私を拘束しているのか」ということである。


ある価値に従うこと自体が不自由なのではない。もしそうなら、約束も信念も愛も成立しない。


人間は、自ら選んだ価値によって自分を拘束することができなければ、長い人生を作ることもできない。だから、価値の力をすべて壊せばよいわけではない。


必要なのは、価値が人間を導く力と、人間を支配する力を区別することである。


価値には、人間を導く力が必要である。だが、その力がいつ支配へ変わるのか。


次章では、その境界を考える。


第二の奴隷制から抜け出すために、価値を持たない人間になる必要はない。価値を弱く信じる必要もない。何にも人生を賭けない人間になる必要もない。


必要なのは、もっと難しいことである。


自ら選んだ価値に深く従いながら、その価値を絶対君主にはしないこと。


ここから、自在論そのものの議論が始まる。

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