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第二章 価値の創造

ショーペンハウアーは、人間を苦しめるものの根に意志を見た。欲望は欠乏から生まれ、満たされても長くは続かない。一つの欲望が消えれば別の欲望が現れ、人間は苦痛と退屈のあいだを往復する。だから彼は、意志をさらに強くすることではなく、その支配から離れる方向に救済を求めた。


この思想を深く読み、そこから大きな影響を受けながら、やがて正反対とも言える方向へ進んだ哲学者がいる。フリードリヒ・ニーチェである。


本章で行うのは、ニーチェの思想全体を一つの体系として再構成することではない。ここで取り上げるのは、与えられた価値への批判、価値創造、自己超克、生の肯定といった思想を、本書が追っている自由の問題から読むことである。したがって、以下で示すのはニーチェ哲学のすべてではなく、自在論の問いへつながる一つの読解の線である。


ニーチェもまた、人間が苦しむことを否定しなかった。世界が人間の幸福のために作られているとも考えなかった。人生には病気があり、喪失があり、失敗があり、孤独がある。望んだものが手に入る保証などなく、正しく生きた者が必ず報われるという約束もない。


ここまでは、ショーペンハウアーと大きく違わない。決定的に違うのは、その先だった。


生に苦しみが含まれているという理由で、生そのものを否定してよいのか。


ニーチェは、ここで立ち止まらなかった。むしろ問いを反転させた。苦しみを取り除いた生だけを肯定するのではなく、苦しみを含んだこの生を、それでも肯定することはできないか。


意志から退くのではなく、意志する生そのものを肯定することはできないか。


ここから、ショーペンハウアーとは異なる自由の姿が現れる。


一 苦しみから逃れることが、最高の価値なのか


苦しみは悪い。この考えはあまりにも自然なので、疑うこと自体が奇妙に思える。病気より健康の方がいい。失敗より成功の方がいい。愛する者を失わない方がいい。痛みが少ない人生の方が、痛みに満ちた人生より望ましい。


ニーチェも、痛みそのものを無条件に善だと言ったわけではない。問題は別のところにある。


苦しみを減らすことを、人生全体を評価する最高の基準にしてよいのか。


もし「苦しまないこと」が人生の究極の目的なら、危険なことには挑まない方がいい。誰かを深く愛さない方がいい。愛せば失う可能性が生まれる。


何かを創ろうとしない方がいい。創れば失敗し、批判され、自分の能力の限界を見ることになる。勝負もしない方がいい。負ければ傷つく。


新しい土地へ行かず、難しい問題にも近づかず、自分の手の届く範囲だけで静かに暮らせば、多くの苦痛を避けられるかもしれない。だが、その人生には別の疑問が生まれる。


傷つかないように生きることと、十分に生きることは同じなのか。


苦痛を避けることによって守られるものがある。同時に、苦痛を避けることによって失われるものもある。ここでニーチェは、幸福を単なる苦痛の少なさとして考える立場から離れていく。


人間にとって重要なのは、ただ快適であることではない。自分の力を使うこと。困難にぶつかること。昨日までの自分ではできなかったことをできるようになること。そして、ときには自分自身を成立させている価値そのものを作り替えること。


苦痛は、その過程で現れることがある。だから、苦しみが存在するという理由だけで、その生を失敗と呼ぶことはできない。


生の価値は、苦しみの量だけでは測れない。


ここで、ショーペンハウアーの悲観主義に対する最初の反転が起こる。


二 与えられた価値


しかし、ニーチェの問題は苦しみだけではない。人間は生まれた瞬間から、自分で世界の価値を一から決めているわけではない。


善い人間とはどういう人間か。成功とは何か。幸福とは何か。何を恥じるべきか。何を誇るべきか。どのように生きるべきか。


私たちがこうした問いを初めて考える頃には、すでに大量の答えが用意されている。親から教えられる。社会から教えられる。宗教から教えられる。学校から教えられる。周囲の人間の反応から学ぶ。


だから人間は、自分で人生を選んでいるつもりでも、何を価値あるものとして選ぶべきかという尺度そのものを、他人から受け取っていることがある。


これは序章で見た問題とは少し違う。序章では、自ら選んだ価値に支配される可能性を問うた。しかし、その前にさらに一つ問題がある。


そもそも、「自分で選んだ」と思っている価値は、本当に自分で選び取ったものなのか。


たとえば、社会的に高く評価される職業を目指している人間がいる。本人はそれを望んでいる。努力もしている。誰にも強制されてはいない。


では、その人は自由なのか。


ここでニーチェなら、さらに問うだろう。なぜ、それを価値あるものだと思うのか。誰から称賛されれば成功なのか。なぜ敗北を恥じるのか。なぜその人生が「正しい人生」だと思えるのか。


選択の自由だけでは足りない。


選択を生み出している価値そのものを問わなければならない。


ここでニーチェの哲学は、既存の価値に対する攻撃へ向かう。


三 ラクダ


『ツァラトゥストラはこう語った』の中で、ニーチェは精神の三つの変身を語る。ラクダ。ライオン。そして赤子。


この三つの像は、人間が与えられた価値から離れ、自ら価値を創造するまでの運動として読むことができる。最初はラクダである。


ラクダは重い荷物を背負う。精神における荷物とは、「こうあるべきだ」という価値である。


善良であれ。勤勉であれ。我慢しろ。立派であれ。責任を果たせ。弱音を吐くな。伝統を守れ。


ラクダは、それらを背負う。しかも単に嫌々背負うとは限らない。むしろ、「もっと重いものを与えよ」とさえ言う。


苦しい責任を引き受けること。自分を律すること。簡単な道を選ばないこと。ここには確かに強さがある。


だからニーチェは、ラクダを単なる弱者として描いているわけではない。問題は、その重荷の価値を誰が決めたのかである。


どれほど強く荷物を背負えても、背負うべき荷物を他人に決められているなら、その精神はまだ自分自身の価値を生きてはいない。


「善い人間とはこういうものだ」「立派な人生とはこういうものだ」「お前はこうしなければならない」。そうした声に従っている。


ここに、ニーチェが「汝なすべし」と呼ぶ巨大な命令がある。ラクダには力がある。しかし、まだ自由ではない。


四 ライオン


そこで精神は、ラクダからライオンへ変わる。ライオンが求めるものは、自由である。彼は「汝なすべし」に対して、「我は欲す」と言う。


お前はこう生きなければならない。なぜだ。これが善である。誰が決めた。皆がそうしてきた。だから何だ。


ライオンは、与えられた価値に「否」と言う。これは非常に重要な段階である。人間は、従う能力だけでは自由になれない。拒否する能力が必要になる。


親から与えられた価値。社会から与えられた価値。神から与えられたと信じてきた価値。過去の自分が当然のものとして受け入れてきた価値。


それらを一度、自分の前に置く。そして、「私は本当にこれを選ぶのか」と問う。


この意味でライオンは、解放の精神である。しかし、ライオンにもできないことがある。


新しい価値を創造することだ。


破壊することはできる。拒否することもできる。「私は従わない」と言うこともできる。だが、「では何を生きるのか」という問いには、それだけでは答えられない。


与えられた価値を破壊した後に残るのは、自由である。しかし自由だけでは、人生にはならない。何にも従わないことはできる。それでも、何のために生きるのかはまだ決まっていない。


ここに、否定だけでは到達できない地点がある。


五 赤子


そこで第三の変身が現れる。赤子である。


赤子は、ただ無知だから赤子なのではない。ニーチェが赤子に見たのは、無垢、忘却、遊び、そして新しい始まりである。


ライオンは過去と戦っている。「汝なすべし」を睨み、「私は従わない」と言い続ける。だが、反抗しているあいだは、まだ自分が否定しているものに縛られている。


親に反抗するためだけに生きる人間は、親から自由になったようでいて、なお親によって自分の方向を決められている。社会が「成功しろ」と言うから、あえて失敗する。皆が結婚するから、自分は絶対に結婚しない。常識がこう言うから、その反対を選ぶ。


それは拒否ではあっても、創造ではない。


赤子は違う。過去を否定することそのものからも離れる。「何に逆らうか」ではなく、「何を始めるか」を問う。


ここで初めて、人間は自分の価値を創造する。


何を美しいと思うのか。何のために時間を使うのか。何を愛するのか。何に人生を賭けるのか。


誰にも保証されていないところで、「私はこれを価値あるものとする」と言う。これが赤子の「聖なる肯定」である。


ラクダは、「私は従う」と言った。ライオンは、「私は従わない」と言った。赤子は初めて、「私はこれを生きる」と言う。


ここで自由は、拒否から創造へ変わる。


六 自由だけでは足りない


この三つの変身には、自由についての重要な洞察がある。自由は、何かから逃れるだけでは完成しない。


親から自由になる。社会から自由になる。宗教から自由になる。過去から自由になる。それらは大切である。


しかし、「何から自由なのか」だけでは人生の内容は決まらない。必要なのは、「何のために自由なのか」である。


牢獄から出ることと、外でどう生きるかは別の問題だ。ライオンは牢獄を壊す。赤子は、その外で新しい生を始める。


だからニーチェにおける自由は、単なる束縛の不在ではない。創造するための自由である。


ここにショーペンハウアーとの大きな違いがある。ショーペンハウアーは、意志の支配から離れるところに救済を見た。ニーチェは、その離脱そのものを疑う。


人間を動かす力を弱めて静かになるのではなく、その力を自らの創造へ向ける。欲望すること。戦うこと。失敗すること。乗り越えること。


その運動から降りるのではなく、むしろその内部で自分自身を作り変えていく。


自由とは、意志を持たないことではない。自らの意志によって、自らの生に形を与えることである。


ここに、ニーチェ的な自由の姿が現れる。


七 自己超克


しかし、自分の価値を一度創造すれば終わりではない。ニーチェの思想において重要なのは、人間そのものが完成品ではないということである。


人間は、自分を超えていく。ただし、自己超克を単なる成長と理解してはならない。


昨日より能力が高くなる。昨日より強くなる。昨日より多くのことができるようになる。それも一つの変化ではある。


しかし、同じ価値尺度の上で数字を大きくしているだけなら、自分のあり方そのものを超えたとは限らない。


強さを最高の価値としている人間が、さらに強くなった。富を最高の価値としている人間が、さらに豊かになった。名声を求める人間が、さらに有名になった。


そこでは、現在の自己を支えている尺度そのものは何も変わっていない。


自己超克がより深い意味を持つのは、自分を評価している尺度そのものまで問いにさらすときである。


なぜ私は強さをこれほど価値あるものだと思っているのか。なぜ敗北をこれほど恐れているのか。なぜこの成功を、自分の価値を測る尺度にしているのか。


これまで自分を前へ進ませてきた価値そのものを、いつか乗り越えなければならないこともある。だから本当に超えなければならないものは、しばしば他人ではない。


自分自身である。


自分の恐怖。自分の思い込み。自分が当然だと思っていた価値。自分がすでに完成しているという錯覚。昨日の自分が作った境界。それを超えていく。


だからニーチェの人間は、固定した完成形を目指しているわけではない。何か一つの理想像になれば終了するのではない。


自分を形成しながら、自ら創造した価値そのものさえ再び問いにさらしていく。


この意味で、ニーチェを単純に「自分の価値を創造すればいい」と理解することはできない。価値そのものも再評価される。自己そのものも作り替えられる。人間は完成を拒む。


ここを見落としたまま、その先を語ることはできない。


八 運命を肯定する


では、自分の価値を創造する人間は、苦しみをどう扱うのか。すべての苦痛を消し去ろうとはしない。


人生には、自分で選んでいないものが大量にある。生まれた時代。身体。家族。偶然。失敗。病気。喪失。過去。


起きてしまったことを、起きなかったことにはできない。


ここでニーチェの生の肯定は、単なる前向きさとは違う。都合の良い出来事だけを、「これが私の人生だ」と言うのではない。


自分が望まなかったものまで含めて、この生を引き受けることができるかが問われる。


その問いを極限まで押し進めるものとして、永劫回帰を読むことができる。


もし、いままで生きたこの人生を、一つの細部も変えることなく、無限に繰り返さなければならないとしたら。この喜びも。この失敗も。この恥も。この喪失も。この瞬間も。


それでも、「もう一度」と言えるだろうか。


永劫回帰をどのように解釈するかには別の問題が残る。しかし少なくともここでは、自分の生に対してどこまで「然り」と言えるかを極限まで問う思考として捉えることができる。


逃げたい過去だけを切り離すのではなく、それまで含めて自分の生として引き受ける。そこにはショーペンハウアーとは正反対の方向が見える。


苦しみを生む世界から退くのではない。


その世界に、それでも「然り」と言う。


九 生を肯定するということ


ここまで来ると、ニーチェの思想が単なる「前向きに頑張ろう」という教えではないことが分かる。


生を肯定するとは、人生は素晴らしいと言い聞かせることではない。苦しみを笑顔で耐えることでもない。何が起きても前向きに考えることでもない。


もっと厳しい。


世界が自分の期待通りにならないことを認める。人生に保証がないことも認める。古い価値が崩れることも受け入れる。その上で、誰かが与えてくれる意味を待たず、自分自身で生に価値を与える。


ここにニーチェの反逆がある。


ショーペンハウアーが、「意志は私を苦しめる」と見た場所で、ニーチェは、「ならば、その力によって何を創るか」と問う。


欲望を消すのではない。力を弱めるのでもない。生きようとする力を、自己形成と価値創造へ向ける。


それは非常に力強い答えである。そして、自由について考えるなら、この答えを簡単に退けることはできない。


他人から受け取った価値を疑い、自ら価値を創造し、その価値そのものを再評価し、自分自身を超え、自分の運命まで引き受ける。


これ以上に自由な人間を想像することは難しい。少なくとも、ここまでは。


十 赤子の後に残る問い


しかし、ここで本書の問いが再び戻ってくる。


人間は与えられた価値から解放された。「汝なすべし」を破壊した。そして、自分自身で価値を創造した。しかも、その価値を必要なら再評価し、自分自身を乗り越えていくこともできる。


それでも、問いは残る。


「私は強く生きる」と自分で決めた。「私はこの仕事に人生を捧げる」と自分で決めた。「私はこの人を愛する」と自分で決めた。「私は昨日までの自分を超えていく」と自分で決めた。


誰にも押しつけられてはいない。まさに自分自身が引き受けた価値である。


では、その価値は、いったい何を理由に現在の私を拘束するのか。


そして、その権威はいつまで続くのか。


現実が変わったとき。自分が変わったとき。他者から重大な異議を突きつけられたとき。その価値は何をもって、「それでも私に従え」と言うことができるのか。


ここで問題にしているのは、価値を変更できるかどうかではない。ニーチェ自身がすでに、自己超克と価値の再評価を語っている。


問題はもっと深い。


現在、自分を動かしている価値が、自分を拘束する正当な権威を持っているかどうかを、何によって判断するのか。


自ら創った価値だから正当なのか。自分が心から信じているから正当なのか。長いあいだ従ってきたから正当なのか。その価値によって強くなれたから正当なのか。


もしそうなら、かつて自分を救った価値は、未来の自分に対してどこまで力を持つのだろう。


「私はこう生きる」という言葉は、人間を自由にする。しかし、その言葉がいつか、「お前はこう生きなければならない」へ変わることはないのだろうか。


問題は、価値を創ったことではない。価値を変えられないことだけでもない。


その価値を問い直すための基準まで、その価値自身が独占し始めることではないか。


ここに、ニーチェの後に残された問いがある。


他人の価値から解放されるだけでは、まだ足りない。自分で価値を創造するだけでも、まだ足りない。そして、単に価値を何度でも作り替えられるだけでも足りない。


問わなければならないのは、自分が心から信じている価値に、どこまで自分を従わせてよいのかということである。


ラクダには主人がいた。ライオンは主人を倒した。赤子は、自ら価値を創造した。


しかし、人間を最も深く支配する主人は、外からやって来るとは限らない。


自分自身が生み出したものが、主人になることもある。


ここから、第二の奴隷制の問題が始まる。

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