第一章 意志の支配
私たちは、自分の欲望に従って生きることを自由だと考えやすい。
食べたいものを食べる。行きたい場所へ行く。好きな人を愛する。欲しいものを手に入れる。他人に命令されず、自分が望んだことを実行できるなら、少なくともその瞬間、私たちは自由であるように感じる。
しかし、ここには一つ見落とされていることがある。
私は、自分が何を欲するかを選んだのだろうか。
空腹になろうと決めてから空腹になる者はいない。誰かを好きになろうと決意したから、その人を好きになるわけでもない。承認されたい、裕福になりたい、負けたくない、死にたくないという欲望も、多くの場合、私たちが選択するより先に私たちの中に現れている。
私たちは欲望に従って行動することはできる。だが、その欲望そのものを、私は選んだのだろうか。ここから、自由についての最初の疑いが生まれる。私が望むものを手に入れられることが自由なのだとしても、その「私が望む」ということ自体が私の支配下になければ、私は本当に自由だと言えるのだろうか。
この問題を徹底的に考えた哲学者の一人が、アルトゥル・ショーペンハウアーである。
彼の思想が悲観的だと言われるのは偶然ではない。人間は苦しむ。そして彼は、その原因を貧困や病気や失敗のような個々の不幸だけには求めなかった。もっと深いところに原因があると考えた。
人間が欲する存在であることそのものに、苦しみの根がある。
一 欲望は欠如から始まる
何かが欲しいと感じているとき、すでにそこには不足がある。喉が渇いているから水を求める。孤独だから人を求める。現在の地位に満足していないから成功を求める。自分を十分だと思えないから承認を求める。
欲望とは、現在の状態に対する一種の否定である。「いまのままでは足りない」という感覚がなければ、そもそも欲する必要がない。だから欲望が存在しているあいだ、人間は完全には満足していない。
欲しいものが手に入らない。それは苦しい。では、手に入れば問題は解決するのだろうか。
水を飲めば渇きは消える。試験に合格すれば安心する。欲しかった物を買えば嬉しい。愛する人から愛されれば幸福を感じる。確かに苦しみは一度終わる。
しかし、しばらくすると、それが普通になる。手に入れたものは「欲しかったもの」から「持っているもの」へ変わる。あれほど望んでいた生活も、毎日続けば日常になる。
欲望が満たされた瞬間には幸福があるように見える。だがよく見ると、その幸福はしばしば、積極的な何かというよりも、それまで存在していた欠乏が一時的に消えた状態に近い。
渇きがなければ、水を飲んでもあの喜びはない。長く求めていなければ、獲得の瞬間もそれほど嬉しくない。満足とは、欲望によって生まれた苦しみが、一時的に止まった状態なのである。
そして止まれば、次が始まる。もっと高い地位。もっと大きな家。もっと多くの金。もっと強い刺激。もっと確かな愛情。もっと高い評価。
人間は一つの欲望を満たしたことによって、欲望することそのものから解放されるわけではない。むしろ、次に欲する対象を探し始める。
ここにショーペンハウアーの悲観主義の中心がある。人生が苦しいのは、欲しいものが手に入らないからだけではない。欲しいものを手に入れても、欲することそのものが終わらないからである。
二 苦痛と退屈の振り子
もし欲望のすべてが満たされたなら、人間は幸福になるのではないか。その可能性も、ショーペンハウアーは疑った。
欲望があるあいだ、人間は欠乏によって苦しむ。では欲望がなくなったらどうなるか。
退屈する。
何もすることがない休日を考えてみればいい。普段は「時間さえあれば、好きなことをして一日中過ごしたい」と思っている。ところが本当に予定がなくなり、するべきことも欲しいものもなくなると、人間は必ずしも満ち足りるわけではない。
数時間もしないうちにスマートフォンを手に取る。動画を見る。何かを食べる。誰かに連絡する。目的もなく外へ出る。新しい欲望を探している。
苦しみがないことだけでは、人間は満足できない。そこでショーペンハウアーは、人間の生を苦痛と退屈のあいだを往復するものとして捉えた。
欲しい。手に入らない。苦しい。
手に入れる。満たされる。慣れる。
退屈する。そしてまた、何かが欲しくなる。
人生の表面では対象が次々と変わっている。幼い頃には玩具が欲しい。成長すれば恋愛や成功を求める。歳を取れば健康や安心を求める。しかし、その背後では同じ構造が続いている。
私は、まだ足りない。この声が消えない。
ショーペンハウアーが問題にした「意志」とは、単に意識的な決意のことではない。「今日は勉強しよう」「来年までに昇進しよう」といった個々の意思決定よりも深いところにある、絶えず生きようとし、求め、競い、維持し、増大しようとする衝動そのものを指している。
人間が意志を所有しているというより、意志が人間という形を取って欲し続けている。それが彼の見た世界である。
三 理性は主人ではない
人間は、自分を理性的な動物だと思っている。考えてから行動する。理由を比較し、より良いものを選ぶ。だから動物的な欲望とは違い、自分の人生を自分で決定できる。
だが、本当にそうだろうか。
何かを強く欲したとき、人間の理性は奇妙な働きをする。欲望を止めるのではなく、欲望を正当化する理由を探し始める。
買う必要のないものが欲しくなる。「これは長く使えるから」と言う。怒りに任せて相手を傷つけたい。「相手が先に悪いことをした」と言う。他人から評価されたい。「社会的成功は、自分の可能性を最大化するためだ」と言う。
もちろん、その理由が正しい場合もある。だが順序が逆になっていることも少なくない。
理由があったから欲したのではない。
すでに欲しているものを、理性があとから説明している。
もしそうなら、理性は意志の主人ではない。少なくとも、常に主人であるわけではない。むしろ理性は、ときに意志の弁護士になる。
意志が先に結論を出し、理性がその結論を正当化する証拠を集める。ここで人間の不自由は、さらに見えにくくなる。
欲望に振り回されているだけなら、まだ「自分は衝動的になっている」と気づく余地がある。だが、その欲望に理性がもっともらしい理由まで与え始めると、人間は自分の隷属を自分の判断だと思い始める。
欲望の奴隷であることより恐ろしいのは、その奴隷状態を理性によって自由だと説明できてしまうことである。
誰かに命令されて動いているなら、自分が支配されていることに気づける。しかし自分の内側から湧いてくる欲望に、自分の理性が説明まで与えているなら、その支配は支配に見えない。本人には、「自分で考えて選んだ」としか感じられない。
ここでショーペンハウアーは、さらに厳しい。仮に私たちが欲望を吟味しようとしても、その吟味を行う知性そのものが、すでに意志のために働いているのだとしたらどうなるのか。
欲望を裁くはずの裁判官まで、意志に雇われているとしたら。この疑いは、簡単には消えない。
四 欲望の自由と、欲望からの自由
ここで二種類の自由を区別してみたい。
第一は、欲望を実現する自由。
食べたいものを食べる。行きたい場所へ行く。自分の好きな仕事をする。欲しいものを買う。これは重要な自由である。政治的にも社会的にも、人間が自分の望む人生を選べることには大きな価値がある。
しかし、それとは別にもう一つの自由が考えられる。
欲望そのものから距離を取る自由。
「私はこれが欲しい」と感じたとき、すぐに「ならば手に入れよう」へ進まない。一度立ち止まる。なぜ私はこれを欲しがっているのか。手に入れたら本当に何かが変わるのか。これは私が欲しているのか。それとも欲望によって私が動かされているのか。
自由とは、自分の欲望に従えることだけではないのではないか。
従わないこともできて、初めて自由なのではないか。
この問いは、後に重要な意味を持つことになる。しかし、ショーペンハウアー自身はここで楽観しない。
欲望を一つずつ吟味すれば自由になれるとは考えない。なぜなら、問題は個々の欲望ではなく、欲望を生み続ける意志そのものだからである。
一つの欲望を捨てても、別の欲望が生まれる。金への執着を捨てた人間が、今度は精神的な優越に執着することもある。名誉を捨てた人間が、「私は名誉など必要としない人間だ」という自己像に執着することさえできる。
対象を交換するだけでは、意志は消えない。だから彼が求めた解放は、欲望をうまく管理する程度のものではなかった。もっと根本的な、意志そのものの支配から離れることだった。
五 個人という境界
ここで、ショーペンハウアーの思想は単なる禁欲論ではなくなる。
私が「私の幸福」「私の利益」「私の成功」に固執しているとき、世界は必然的に私とそれ以外へ分かれる。私が得れば、誰かが失うことがある。私が勝てば、誰かが負ける。私は自分の苦痛を直接感じるが、他人の苦痛は外からしか見ることができない。
だから通常、人間は自分を優先する。しかしショーペンハウアーは、個々の人間を完全に別々の存在として見ることそのものを疑った。
私たちの認識の上では、一人ひとりは時間と空間によって隔てられた別の個体として現れる。だがショーペンハウアーは、その区別が世界それ自体の最深部にまで及んでいるとは考えなかった。
一人ひとりの身体は別れている。意識も別れている。だが、その背後で働いているものは同じ意志である。私の中で生きようとしているものと、他者の中で生きようとしているものは、根底では同じ意志の現れである。
この考えから、彼の倫理において重要な同情が生まれる。他人の苦痛を、本当に自分とは無関係なものとして扱わなくなる。相手の苦しみの中に、自分と同じものを見る。個人という境界が、一時的に薄くなる。
ショーペンハウアーにとって、ここには意志の支配から離れる道の一つがある。
さらに、美を前にして自分自身の欲望を忘れる瞬間。芸術に没頭し、「これは自分に何の役に立つか」を考えなくなる瞬間。そして最終的には、個人的欲望そのものを否定していく禁欲。
そこでは、人間は絶えず「私にもっと与えろ」と要求する意志から距離を取っていく。
救済とは、世界からすべてを手に入れることではない。
世界に対して何かを要求し続けることから降りることなのである。
六 この思想は、本当に悲観的なのか
ショーペンハウアーは悲観主義者と呼ばれる。それは間違いではない。彼は人生を、最終的に満足することのできない意志による苦しみとして見た。
しかし彼の思想を、「人生はつらいから諦めよう」程度に理解すると、大切な部分を見失う。
彼の問いはもっと鋭い。
欲しいものをすべて手に入れることが幸福だという考えそのものが、間違っているのではないか。
私たちは普通、「何が欲しいか」を考える。彼は、なぜ欲するのかを問うた。私たちは、「どうすれば欲望を満たせるか」を考える。彼は、欲望を満たし続ける人生そのものに、終わりはあるのかと問うた。
この問いは古びていない。むしろ、欲望を満たす手段が増えた社会ほど鋭くなる。
食べたいものを選べる。見たい映像をすぐ見られる。欲しい商品を家から注文できる。他人からの反応をすぐ確認できる。退屈すれば、次の刺激がある。
欲望を満たす速度は、かつてよりはるかに速くなった。それでも、「もう十分だ」という地点には、なかなか到達しない。
問題は、不足している物の数ではない。
不足を作り続けるものが、私たちの中にある。
ショーペンハウアーの思想は、そのものへ目を向けた。だから彼の哲学は、ここで避けて通ることのできない出発点になる。自由を考える前に、私たちは、自分自身の欲望の主人なのかを問わなければならないからだ。
だが、ここで一つの疑問が残る。
欲望が人間を苦しめる。意志が人間を支配する。ならば、その意志から離れることこそ自由なのだろうか。
論理は通っている。しかし、苦しみを避けることだけで、生を十分に語ることができるのだろうか。
何かを強く求めるから、人間は傷つく。同時に、何かを強く求めるからこそ、人間が動き出すこともある。
それならば、問いはまだ終わっていない。
意志から退くべきなのか。それとも、意志する生そのものを肯定する道があるのか。
この問いに対して、ショーペンハウアーとは大きく異なる方向から答えた哲学者がいる。
フリードリヒ・ニーチェである。




