序章 自由とは何か
人間は、自分で選んだものに従って生きているかぎり、自由なのだろうか。
この問いは、一見すると奇妙に聞こえる。誰かに命令されたわけでもなく、自分で仕事を選び、自分で愛する人を選び、自分で信じるものを決めたのなら、そこには自由があるように思える。少なくとも、他人から押しつけられた人生よりは、はるかに自由である。
だが、人間の不自由はそれほど単純ではない。若い頃、自分は成功すると決めた人間がいる。誰かに強制されたわけではない。彼自身が望み、そのために働き、努力し、競争に勝ち続けてきた。
やがて彼は、自分より成功している人間を見るだけで苦しくなる。休めば不安になり、失敗すれば自分には価値がないと感じ、家族と過ごしている時間にさえ仕事のことを考えるようになる。それでも彼は働き続ける。
誰が彼に命令しているのだろう。
上司ではない。社会でもない。少なくとも、もうそれだけではない。かつて彼自身が選んだ「成功」という価値が、いまでは彼に命令している。
同じことは、もっと美しいものについても起こる。愛する人を守ると決める。正しい人間であろうとする。強く生きようとする。約束を守る。夢を諦めない。家族のために生きる。どれも、それ自体は尊い。しかし、尊い価値ほど人間を深く拘束することがある。
「私は強くなりたい」が、「私は強くなければならない」へ変わる。「この人を愛している」が、「この人を失ったら私の人生には意味がない」へ変わる。「夢を叶えたい」が、「夢を叶えられない自分には価値がない」へ変わる。
そのとき、人間は他人に支配されているわけではない。
自分が信じたものに支配されている。
しかも、この支配は見つけにくい。他人に命令されれば、人は反発できる。「なぜ従わなければならない」と問うことができる。だが、自分自身が心から正しいと信じている価値に対して、人はなかなか同じ問いを向けることができない。
むしろ、その価値に従うことを自由だと思ってしまう。自分で選んだのだから。自分で決めたのだから。自分が望んだ人生なのだから。
ここに、自由についての厄介な問題がある。
自分で選んだという事実だけで、その選択は私を支配する権利を持つのだろうか。
十年前の私が決めたことに、今日の私はどこまで従わなければならないのか。私はある思想を信じた。それが今も私を導いている。しかし、その思想に反する事実が現れたとき、私は何をすべきなのか。
私は誰かを愛した。その愛が私自身や相手を苦しめ始めたとき、それでも「愛だから」という理由だけで続けるべきなのか。私は強くなると決めた。だが、強くあることが自分を壊し始めたとき、弱さを認めることは敗北なのだろうか。
こうした問いに対して、「嫌ならやめればいい」と答えるのは簡単である。しかし、それでは反対側の問題が生まれる。
少し苦しくなれば仕事を捨てる。気持ちが変われば約束を破る。反論されれば思想を変える。自分に都合が悪くなれば価値観まで変える。もし自由とは「いつでも選び直せること」だけを意味するなら、最も自由なのは、何にも深く関わらない人間ということになる。
誰とも約束しない。何も信じない。何にも人生を賭けない。いつでも逃げられる場所にだけ立ち続ける。だが、それを自由と呼びたいとは思えない。
人間には、何かに縛られることでしか得られないものがある。一人の人間を愛し続けること。一つの仕事を長い時間をかけて極めること。約束を守ること。困難な時期にも友人のそばにいること。何年も答えの出ない問題について考え続けること。
これらはすべて、可能性を狭める行為である。同時に、それによってしか生まれない人生の厚みがある。
だから問題は、「縛られるか、縛られないか」ではない。
本当に問わなければならないのは、何に、どのような仕方で縛られるのかということである。
自由の反対は、本当に拘束なのだろうか。
自ら交わした約束に従う人間は、確かに拘束されている。しかし、その拘束を現在の自分もなお引き受けているなら、それは自由と両立しうる。
反対に、何の約束も持たず、誰にも命令されず、その瞬間に欲しいものだけを追い続ける人間がいる。その人間には多くの選択肢がある。しかし、自分の欲望から一歩も離れることができないのなら、本当に自由だと言えるだろうか。
ここで、自由か拘束かという古い対立だけでは足りなくなる。問題は拘束の有無ではない。
拘束との関係である。
自分が信じている価値。愛している人。守っている約束。追い続けている夢。それらは私に要求する。続けろ。耐えろ。捨てるな。こちらへ来い。
価値には、人間を導く力がなければならない。何の要求もしない価値は、人生を形作ることができない。だから、この本は価値の力を否定しない。
信念を弱めようとも言わない。何にも執着するなとも言わない。むしろ逆である。愛するなら、深く愛せばいい。信じるなら、本気で信じればいい。何かに人生を賭けたいなら、賭けてもいい。
ただ、一つだけ問う。
その価値は、どこまであなたを拘束してよいのか。
この問いを考えるためには、二つの力を区別する必要がある。
権威と主権である。
十分に考え、自ら引き受けてきた価値には、その瞬間の気分以上の重みがある。約束したという事実には、今日は面倒だというだけでは簡単に破れない重みがある。長く信じてきたものにも、それを簡単には捨てない理由がある。
だから、その重み自体をなくすことはできない。しかし、その力が「私については、もう二度と問い直してはならない」と言い始めたらどうなるのか。
どんな事実が現れても、自分がどれほど変わっても、他者がどれほど重大な異議を申し立てても、それらを理由として受け取ること自体を拒むなら、その価値は人間を導くものとは別のものになっている。
本書が問うのは、その境界である。
人間はすべてを知っているわけではない。未来を知らない。他者を完全には知らない。自分自身についてさえ、完全には知らない。それでも私たちは決断しなければならない。
信じる。愛する。選ぶ。約束する。そして、その選択によって人生を形作っていく。だから問題は、確信を捨てることではない。
確信しながら、なお問いを残すことができるか。
自ら選んだ価値に深く従いながら、それによって世界からの問いを閉ざさない自由。
本書では、それを「自在」と呼ぶ。
自在とは、何にも属さないことではない。絶えず考えを変えることでも、疑い続けて決断できなくなることでもない。問い直すべき理由が現れたとき、その価値ともう一度向き合えることである。
その結果、「それでも私はこれを生きる」と答えてもいい。「私は間違っていた」と答えてもいい。重要なのは、答えが変わったかどうかではない。
答えることができるかどうかである。
では、そもそも人間は、自分が望むものの主人なのだろうか。
人間はなぜ欲するのか。欲望を満たすことは、本当に自由なのか。そして、欲望する意志そのものがわれわれを支配しているのだとすれば、そこから逃れることはできるのか。
自在論は、この問いから始まる。




